なぜ水木と結婚したのかと聞かれれば、いろいろと理由はあるけれど、つまるところ「私には水木と結婚する以外に道がないと思ったから」というのが本当のところです。恋愛に価値があると思っておられる方々には、これ以上の不運はないと思われるかもしれません。
でも、私の実感では、最初に燃え上がった恋愛感情だけで、その後の人生すべてが幸福になるとは、とても思えません。伴侶とともに歩んでいく過程で、お互いが「信頼関係」を築いていけるかどうかにこそ、すべてがかかっていると思うのです。私は、どんなに苦しいときでも、水木と別れたいとは思いませんでした。
どんな生き方を選んだとしても、最初から最後まで順風満帆の人生なんてあり得ないのではないでしょうか。人生は入口で決まるのではなく、選んだ道で『どう生きていくか』なんだろうと、私は思います。 武良布枝著「ゲゲゲの女房」より
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利他的な生き方は聖書的か?
利他的な生き方は聖書的か?
「利他」とか「利他的」という言葉が最近よく使われ、利他的な生き方こそ理想だと強調されている。キリスト信者であっても、利他的な生き方を目指すことが理想とされているようだ。また、キリスト信者に対して、利他的であることが期待されている。
けれども、C.S.ルイスが書いた、「栄光の重み THE WEIGHT OF GLORY」という本には、利他的な生き方が実は聖書的ではないことが冒頭で紹介されている。以下にその本文を紹介する。
『こんにち二十人の善き人に、何を徳の最高と考えるか尋ねたとするならば、十九人までが、利己的でないことだと答えるでしょう。しかし、もし昔のすぐれたキリスト者なら、ほとんどだれに尋ねたとしても、愛だと答えたことでしょう。
どういうことが起こったかお分かりでしょう。消極的な用語が積極的な用語にとって代わったのですが、これは言語学的な意味があります。利己的でないことという消極的な理念は、他人のために良いものを確保するのを第一義としないで、自分は良いものなしですませるという意味合いの含蓄があり、他人の幸福ではなしに自分の節制が大事な点みたいに聞こえます。これはキリスト教の愛の徳ではなさそうです。
新約には、自己否定について多くのことが述べられていますが、それは自己否定を目的そのものとすることについてではありません。わたしたちが、キリストに従うことのできるよう、己を捨てて自分の十字架を負いなさいと言われますし、そうすれば最後に見出されるものについて書かれているほとんどすべてのものに、願望への呼びかけが含まれています。
もしほとんどの近代人の心に、自分自身の善を欲し、その享受を熱心に望むことは悪いことだという観念がひそんでいるとしたら、この観念はカントとストア派から忍び込んだもので、けっしてキリスト教信仰と関わりあいのないものだと申し上げたいと思います。
実際、福音書の中の、臆面もない報いの約束と、その約束された報いが度胆を抜くようなものであるのを思うならば、わたしたちの主は、わたしたちの願望を強すぎるどころか弱すぎると見ておられるように思われます。
わたしたちは、気乗りのしない顔で、せっかく限りない欣びが差し出されているのに酒とセックスと野心をいじくりまわしていますが、無知な子どもが、海辺の休日につれて行ってくれようということの意味が分からずに、貧民窟で泥いじりを続けたがっているのに、それは似ています。わたしたちはあまりにもたわいないうれしがりやなのです。・・・』
LOVE JESUS MIX
閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する
閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。』創世記15章5節
上記のみことばから3つのことを記します。第1に、このみことばは北極星のように不動です。ですからこのみことばを指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性をもって旅ができます。目先のことに囚われて見るべきものを見失ってしまう。そのような私たちには、北極星のように変わらない確かなみことばが必要です。
第2に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされています。ギリシア語で人間を意味する「アンスローポス」には「上を見上げる」という意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、俯くことしかできません。上を向いて歩く時、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番楽な方法は、仰向けになることです。朝目覚めた時、車に轢かれて干からびたカエルのような心であっても、仰向けで天を見上げればいいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がることができます。
第3に、天国はにぎやかな所です。閉塞感に囚われている人は、天国にはあまり沢山の人がいないというイメージを持っています。しかし全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数え切れない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人々、だれにも数えることのできない人々を、神は救いに招かれます。天国はにぎやかな所です。私は信じます。神のことばは私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になると。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって、注がれる聖なる神の霊によって、近い将来、日本のキリスト者にリバイバルが起き、青年は幻を見、老人は夢を見、そして諸教会に行列が出来ることを。
うつになった聖徒たち
愛する日本の教会・キリスト者へ
「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」マタイによる福音書 11:12
荒野でストイックな生活をし、一世を風靡するリバイバルの中でキリストの道備えをしたバプテスマのヨハネ。預言者エリヤの霊と確信に満ちて、主イエスを来たるべきキリスト・救い主として指し示し、主イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネ。彼は獄中にいた時に、鍔迫り合いのような激しい霊的戦いを強いられていた。その時の様子を聖書は次のように語っている。
「さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、 イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。マタイによる福音書 11:2-3
強い信仰者というイメージを持つバプテスマのヨハネが、ここまで弱くなっていた。なぜならその時すでに、天国は激しく襲われ始めていたから。
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」マタイによる福音書 11:12
韓国の教会は祈る教会、日本の教会は議論する教会と言われる。
確かに韓国のキリスト者は、祈り倒すという言葉がぴったりの激しさで祈る。祈祷院などで祈りに専念し、祝福と勝利と解決が与えられるまで、決してあきらめないで、ヤコブのように粘り強く、激しく大声で叫び、祈り続ける。
それに対して私たち日本のキリスト者は、祈りにおいてあまりにおとなしく、お祈りしているのかお寝りしているのかわからないような状態だったかもしれない。
しかし今こそ、日本のキリスト者が、祈りという武器をしっかり手に取り、激しく祈る教会になる時ではないか。ー戦後70年目のターニングポイントにて
今こそ問われているキリスト者の信仰
キリストの手紙
今こそすべての日本のキリスト者が
今こそすべての日本のキリスト者が、
十字架による神との和解をしっかりと受け取り、
日本の教会の歴史をしっかりと心に刻み、
向きを変えて出発しなければならない。
世の光、地の塩、
全世界の祝福の基として召されたキリスト者日本人として、
天地の主から託されたその使命に生きるために。
戦時下におけるクリスチャンの心理的葛藤と信仰の戦いは、
実際に体験しないと理解出来ない極限状態にあったと想像する。
しかしキリスト者日本人である私たちは、
かつての「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」を、決して忘れ去ってはならない。
私たちが過去を心に刻むべき理由は、 ただ「我らの弱さを知りてあわれむ」主の、裏切りに先行する赦しと和解への招きにある。
それは、主イエス様の十字架と復活によって、すべての罪がすでに赦され、神との和解がすでに成就したという一事にかかっている。
シモン、シモン。見なさい。
サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカの福音書 22章31-32節