冬の安息日に

大滝

大滝

透き通った流れ

照葉

the murmur of a small stream

透き通った流れ

細波紅葉

REFRECTION

冬の安息日に2018-12-17

SUGITO GOSPEL CAFE(杉戸福音喫茶)

お知らせ

福音喫茶(GOSPEL CAFE)は金曜夜7時半から。どなたでもお気軽に!
12月は7、14、21日とOPENします。

sugitogospelcafe

杉戸キリスト教会地図2016


YouTubeにて、これまでの試験配信を視聴できます。

I was born 吉野弘

I was born 吉野弘

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
 —-やっぱり I was born なんだね—-
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
 —- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね—-
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
 —-蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね—-
 僕は父を見た。父は続けた。
 —-友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは—-。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
 —-ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体—-

祝婚歌 吉野弘

祝婚歌 吉野弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに

ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

Christmas

Christmas

Christmas

What is Christmas

降誕祭

年輪

年輪は 樹を輪切りにすると 現れる
春夏秋冬により 一年ごとに刻まれる 記録・アーカイブ
遅々とした歩みでも 十年単位で見るなら 大きな歩み
喜びと悲しみ 光と陰 楽しみと苦しみ
いろんな変化によって 刻まれているのだろう
私の人生の年輪も
遅々とした歩みでも 十年単位で見るなら きっと大きな歩み
時が来ると実を結び その葉は枯れない
流れのほとりに植えられた樹は 何をしても栄える

年輪

新共同訳と聖書協会共同訳の比較

聖書協会共同訳
この冬に、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した新共同訳が31年ぶりに新しくなり、聖書協会共同訳として出版されました。手元に届いたので、早速読み始めました。礼拝で用いられることを目的とし、特に聖書朗読のために配慮して翻訳されたとのこと。引照と注が新たに加えられています。聖書は66巻で完結していますが、参考に旧約聖書続編付きを買いました。(更新中)

創世記2章1節

天地万物は完成された。(新共同訳)

こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。(聖書協会共同訳)

森羅万象!斬新な訳です!

創世記2章7節

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(新共同訳)

神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。(聖書協会共同訳)

新共同訳では聖書本文にかっこ付きで原語の言葉遊びが紹介されていましたが、本文ではなく注で紹介されるようになりました。創世記2章23−24節の女(イシャー)と男(イシュ)も同様です。

創世記15章5−6節

主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(新共同訳)

主はアブラムを外に連れ出して言われた。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(聖書協会共同訳)

「天を仰いで」が「天を見上げて」に。

詩編81篇11節

わたしが、あなたの神、主。
あなたをエジプトの地から導き上った神。
口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。(新共同訳)

私は主、あなたの神
エジプトの地からあなたを上らせた者。
口を大きく開けよ。私はそれを満たそう。(聖書協会共同訳)

「口を広く開けよ」が「口を大きく開けよ」に。

詩編100篇1ー5節

【賛歌。感謝のために。】
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。

感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。(新共同訳)

【賛歌。感謝の詩。】
全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。
喜びながら主に仕えよ。
喜び歌いつつその前に進み出よ。
主こそ神と知れ。
主が私たちを造られた。私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。

感謝して主の門に進み
賛美しつつ主の庭に入れ。
主に感謝し、その名をほめたたえよ。
主は恵み深く、主の慈しみはとこしえに。
そのまことは世々に及ぶ。(聖書協会共同訳)

礼拝への招き。より簡潔になりました。

エレミヤ書31章20節

エフライムはわたしのかけがえのない息子
喜びを与えてくれる子ではないか。
彼を退けるたびに
わたしは更に、彼を深く心に留める。
彼のゆえに、胸は高鳴り
わたしは彼を憐れまずにはいられないと
主は言われる。(新共同訳)

エフライムは私の大事な子ではないのか。
彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し
彼のために私のはらわたはもだえ
彼を憐れまずにはいられないーー主の仰せ。
(聖書協会共同訳)

エレミヤ書31章20節。文語訳に近い良い訳になりました。

ヨハネによる福音書1章12節

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。(新共同訳)

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。(聖書協会共同訳)

「神の子となる資格」が「神の子となる権能」に。

ヨハネによる福音書4章24節

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(新共同訳)

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」(聖書協会共同訳)

「礼拝で用いられることを目的として」とのことですから、この箇所は外すことはできないでしょう。「霊と真理をもって礼拝しなければならない。」が「霊と真実をもって礼拝しなければならない。」になりました。

ローマの信徒への手紙12章1ー2節

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(新共同訳)

こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。(聖書協会共同訳)

「礼拝で用いられることを目的として」とのことですから、この箇所も外すことはできないでしょう。「なすべき礼拝」が「理に適った礼拝」に。「心を新たにして自分を変えていただき」が「心を新たにして自分を造り変えていただき」になりました。