流れのほとりに植えられた木 吉川福音教会開拓38周年記念礼拝2024-02-11

吉川福音教会開拓38周年記念礼拝でのメッセージ。「流れのほとりに植えられた木」詩篇1篇より

創世記の1日目は何曜日?

創世記の1日目は何曜日?
そもそもまだ1週間というリズムもなかった時ですが、あえて創世記1章の1日目は何曜日だったのかを考えると・・・。

旧約聖書の時代 安息日は土曜日➡️神が創造の働きを始められた1日目は日曜日!
(0日目 土曜日=安息日)
1日目 日曜日
2日目 月曜日
3日目 火曜日
4日目 水曜日
5日目 木曜日
6日目 金曜日
7日目 土曜日=安息日

新約聖書の時代
イエス様が日曜日の朝に復活されたことを覚えて、安息日が日曜日に変わった。
安息日は日曜日➡️神が創造の働きを始められた1日目は月曜日!
(0日目 日曜日=安息日)
1日目 月曜日
2日目 火曜日
3日目 水曜日
4日目 木曜日
5日目 金曜日
6日目 土曜日
7日目 日曜日=安息日

さらに、1日の始まりが、朝ではなく夕であることを考えると・・・。

旧約聖書の時代 安息日は土曜日➡️神が創造の働きを始められた1日目は日曜日!
(0日目 土曜日=安息日=金曜の夕から土曜の夕)
1日目 日曜日=土曜の夕から日曜の夕=闇の中、光の創造をもって始められた!
2日目 月曜日=日曜の夕から月曜の夕
3日目 火曜日=月曜の夕から火曜の夕
4日目 水曜日=火曜の夕から水曜の夕
5日目 木曜日=水曜の夕から木曜の夕
6日目 金曜日=木曜の夕から金曜の夕
7日目 土曜日=安息日=金曜の夕から土曜の夕

新約聖書の時代
イエス様が日曜日の朝に復活されたことを覚えて、安息日が日曜日に変わった。
安息日は日曜日➡️神が創造の働きを始められた1日目は月曜日!
(0日目 日曜日=安息日=土曜の夕から日曜の夕)
1日目 月曜日=日曜の夕から月曜の夕=復活の光によって働きが始まる!
2日目 火曜日=月曜の夕から火曜の夕
3日目 水曜日=火曜の夕から水曜の夕
4日目 木曜日=水曜の夕から木曜の夕
5日目 金曜日=木曜の夕から金曜の夕
6日目 土曜日=金曜の夕から土曜の夕
7日目 日曜日=安息日=土曜の夕から日曜の夕

天地創造の原風景_ページ_1

天地創造の原風景_ページ_2

汝は生きることがゆるされている

あの暗闇の中に、ただ一つの光だけが、しかしこの光は確実に、貫き、勝利をもって、輝くのである。それは、「汝は生きるべきである」ということではなく、汝は生きることがゆるされているーいかなる人間もほかのものに、またいかなるものも自分に対して、語ることができないが、しかし神ご自身が語られたし繰り返し語り給う汝は生きることがゆるされているーということである。

教会教義学 創造論Ⅳ/3 p174 より

ローマ人への手紙講解メッセージ2023

『全世界を幾度も改造したる歴史を有し、なお将来も、しかする力を具備せる一書。この一書こそロマ書である。』内村鑑三著「ロマ書の研究」より

ベースボールの祈り

ベースボールの祈り

ベースボールの監督の仕事は、選手たちを輝かせること。
牧師の仕事は、信徒たちを輝かせること。

WBC決勝戦

聖書が教えている祈りは、例えて言うと、ベースボールのようだ。草野球、少年野球、高校野球、プロ野球、メジャーリーグ、マスターズ甲子園、そしてWBC。いろんなベースボールがあるが、聖書に耳を傾けると、ベースボールの祈りというスピリチャルな試合があり、僕たち選手一人一人に対して、励ましと応援の声が聞こえてくる。

誰かのために何かを祈り始めると、まずは1累にランナーを送り出すことができる。続けて祈り続けると、ランナーを2累に進めることができる。さらに祈り続けると、やがてランナーを3塁に立たせることができる。さらに粘り強く祈り続けるなら、最後にはランナーをホームベースに戻すことができる。けれども、ホームベースに戻すプロセスのどこかで、あきらめてしまったらどうだろうか。野球なら、せっかくの労苦が、残念ながら無駄になってしまう。

聖書が教えている祈りは、インスタントに答えられない。だから祈りが応えられるまで、チーム全員で励まし合い、支え合って、決してあきらめないで、つないでつないで祈り続けることが必要だ。あくまで求め続けること、粘り強く叩き続けること、あきらめないで、忍耐強く、全力で戦い続けることを聖書は教える。

Luke 18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」 6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。7 まして神は、 夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

弱くて不信仰な僕たちは、すぐにあきらめて、祈ることを止めてしまうかもしれない。でも、祈っていたことを思い出した時、その時にまた祈りを再開すればいい。七転び八起き。何度つまづいても、また起き上がって祈り続けるなら、必ず祈りの手応えを覚えることができる。そしたら夢は正夢!

祈りに味を占めることができたなら、もう勝利は遠くない。1点入るという形で目に見える結果が出る時、僕たちはベースボールの祈りにおいて、勝利への道を走り続けることができる。

ベースボールの監督の仕事は、選手たちを輝かせること。
牧師の仕事は、信徒たちを輝かせること。

「最高のチーム」の作り方

夢は正夢 栗山英樹

ローマにいる神に愛され召された聖徒たちへ 礼拝2023-01-15

キレイなものは遠くにあるからキレイなの

置かれた場所で咲く

「置かれた場所で咲きなさい」というメッセージに対して、強烈に反発なさる方がおられます。確かに酷すぎる場所があります。

先日私は、「置かれた場所で咲きなさい」という内容のメッセージを、旧約聖書エレミヤ書29章から語りました。

4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。
『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
8 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。
9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──主のことば。』
10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。
それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。

 
バビロン捕囚の時代、神の都エルサレムも焼け野原となり、強制連行されたバビロンでも難民状態でした。

しかし彼らが置かれた場所バビロンは、実は神が植えてくださった流れのほとりでした。

そこにも神がいつもいのちの水の流れとして共におられ、平安と将来と希望を与える計画をもって、着々とイスラエルの民を導かれたのです。

あなたが今置かれている場所も、神が置いてくださった場所なら、耐えられない試練はなく、必ず出口があります。

置かれた場所において、旅人や客人ではなく住人になる時、その場所やそこに住む人々を豊かに用いて、神があなたを自身を豊かに変えていかれるのです。

『キレイなものは遠くにあるからキレイなの』(Superflyの「愛を込めて花束を」より)

悲しみつきざる浮世にありても

改めて、詩篇1篇に、ご一緒に耳を傾けてみましょう。

Psa. 1
1 幸いなことよ

悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。

2 主のおしえを喜びとし
昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。

3 その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。

4 悪しき者は そうではない。
まさしく 風が吹き飛ばす籾殻だ。
5 それゆえ 悪しき者はさばきに
罪人は正しい者の集いに 立ち得ない。

6 まことに 正しい者の道は主が知っておられ
悪しき者の道は滅び去る。

弱い私たちは、知らず知らずのうちに、
みことばとみことばを語っておられる主ご自身を嘲る者の座についてしまっていることがあります。
アーメン(真実)である主が、上記のように語り、約束しておられるのに、
「そんな薄っぺらい信仰なのか!」と。

主のおしえ、つまり主イエス・キリストご自身のみことばを喜びとし(主と主のみことばを嘲る者にならず)、
昼も夜もみことばを口ずさみ、思い巡らすなら(主イエスを繰り返し心の王座にお迎えするなら)、
この大患難時代のような地上の人生の只中においても、ここがすでに天の御国、神の国になります。

なぜなら、ここにすでに主イエス・キリストが来られ、
共に痛み苦しみ、愛によって私たちのすべてをご支配なさるからです。

御国とは、死の向こうにある国だけではなく、
この地上の現実の只中で、本当に体験することができる国です。
「御国とは、主イエス・キリストの愛によるご支配」ですから。

聖歌467番「みくにのここちす」の歌詞の通りです。

悲しみつきざる   浮世にありても
日々主と歩めば   御国のここちす
ハレルヤ! 罪とが 消されしわが身は
いずくにありても  御国のここちす

主にありて
野町 真理

凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬の日に

凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬の日に

アベノミクスと統一教会。二つの広告塔を務め、凶弾に倒れた安倍晋三元首相。

アベノミクスと統一教会。その共通点は、まことしやか。
本当でないのにいかにも本当らしいさま。真実をよそおうさま。

主よ、まことしやかを鋭く見抜く目と真実を見極める目を、
一億二千万の一人ひとりにお与えください。
そのために、私たちの目から、鱗を取り除いてください。

<ねばならぬ>いのちではなく、<許された>いのち

「生きねばならないと考えているような人は、いのちを根本的には尊敬することができない。自分のいのちも、他人のいのちも。いわんやまだ生まれてこない子どものいのちにいたっては、なおさらのことである。・・・その人に欠けているものは、いのちとは何かということに対する尊敬、また理解である。・・・人間のいのちは、決して<ねばならぬ>いのちではなく、<許された>いのちである。それは自由であり、恵みなのである。・・・憐れみによって生きている人は、それに比例してまた憐れみを用いるようになるであろう。」(教会教義学Ⅲ/4より)