カテゴリー: キリスト論
流れのほとりに植えられた木 吉川福音教会開拓38周年記念礼拝2024-02-11
謹賀新年 2024年
神の言葉は出来事に 東京プレヤーセンターお昼の礼拝にて
メッセージ題:神の言葉は出来事に
聖書:ルカの福音書1章1-20節
主題:神の言葉は、人間の不信仰を超えて、時が来ると必ず出来事になる。
日時:2023年11月21日(火)12時15分〜
東京プレヤーセンターお昼の礼拝にて
汝は生きることがゆるされている
ゲゲゲの女房の結婚カウンセリング
なぜ水木と結婚したのかと聞かれれば、いろいろと理由はあるけれど、つまるところ「私には水木と結婚する以外に道がないと思ったから」というのが本当のところです。恋愛に価値があると思っておられる方々には、これ以上の不運はないと思われるかもしれません。
でも、私の実感では、最初に燃え上がった恋愛感情だけで、その後の人生すべてが幸福になるとは、とても思えません。伴侶とともに歩んでいく過程で、お互いが「信頼関係」を築いていけるかどうかにこそ、すべてがかかっていると思うのです。私は、どんなに苦しいときでも、水木と別れたいとは思いませんでした。
どんな生き方を選んだとしても、最初から最後まで順風満帆の人生なんてあり得ないのではないでしょうか。人生は入口で決まるのではなく、選んだ道で『どう生きていくか』なんだろうと、私は思います。 武良布枝著「ゲゲゲの女房」より
「神の痛みの神学」のキリスト中心的理解 -キリスト者の生活における苦難の積極的意味を求めて-
1999年度 東海聖書神学塾 卒業論文
「神の痛みの神学」のキリスト中心的理解
-キリスト者の生活における苦難の積極的意味を求めて-
A graduation thesis of Tokai Theological Seminary in 1999
The Christ-centric understanding of
“Theology of the Pain of God”
-Seeking positive meaning of the pain in Christian life-
教職志願者コース4年 野町 真理
(所属教会:日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会)
悲しみつきざる浮世にありても
改めて、詩篇1篇に、ご一緒に耳を傾けてみましょう。
Psa. 1
1 幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし
昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。4 悪しき者は そうではない。
まさしく 風が吹き飛ばす籾殻だ。
5 それゆえ 悪しき者はさばきに
罪人は正しい者の集いに 立ち得ない。6 まことに 正しい者の道は主が知っておられ
悪しき者の道は滅び去る。
弱い私たちは、知らず知らずのうちに、
みことばとみことばを語っておられる主ご自身を嘲る者の座についてしまっていることがあります。
アーメン(真実)である主が、上記のように語り、約束しておられるのに、
「そんな薄っぺらい信仰なのか!」と。
主のおしえ、つまり主イエス・キリストご自身のみことばを喜びとし(主と主のみことばを嘲る者にならず)、
昼も夜もみことばを口ずさみ、思い巡らすなら(主イエスを繰り返し心の王座にお迎えするなら)、
この大患難時代のような地上の人生の只中においても、ここがすでに天の御国、神の国になります。
なぜなら、ここにすでに主イエス・キリストが来られ、
共に痛み苦しみ、愛によって私たちのすべてをご支配なさるからです。
御国とは、死の向こうにある国だけではなく、
この地上の現実の只中で、本当に体験することができる国です。
「御国とは、主イエス・キリストの愛によるご支配」ですから。
聖歌467番「みくにのここちす」の歌詞の通りです。
悲しみつきざる 浮世にありても
日々主と歩めば 御国のここちす
ハレルヤ! 罪とが 消されしわが身は
いずくにありても 御国のここちす
主にありて
野町 真理
聖書全体を貫く3つの出来事
人はなぜ「うつ」になるのか?
人はなぜ「うつ」になるのか?
1、「朝があり、夕があった」という逆転したリズムに従っている。
解決法=聖書が奏でている「夕があり、朝があった」という恵みの2ビートに合わせて生活する
2、休みなく働き続けている。安息日をとっていない。
解決法=聖書が奏でている7日ごとに休符・安息日が入る恵みの7ビートに合わせて生活する
3、頑張り続けている=我を張り続けている。神を神とせず、自分を神としている。
神中心ではなく、自己中心。神を主人公とするのではなく、自分が主人公・神を演じている。
解決法=自分を神とすることをやめて、神を神とする。自己中心から神中心へ。頑張ることをやめて、神にゆだねる。自分がコントロールすることをやめて、神(イエス・キリスト)に主導権を明け渡す。