聖書 新改訳2017

聖書新改訳2017

宗教改革500周年記念で出版されたばかりの聖書新改訳2017が届き、早速いろんな箇所を読んでいます。

まず詩篇1篇3節。
すごい!「水路のそばに植わった木」から「流れのほとりに植えられた木」に新改訳。自分で植わったわけではなく、植えられた(受身形)であることが明確になりました。「流れのほとり」という表現もとても素敵です。

その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。

次に創世記15章5節。
「星を数えることができるなら、それを数えなさい」が「星を数えられるなら数えなさい。」に新改訳。とてもスッキリしました。

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

さらに創世記15章6節。
旧約聖書の創世記に記されている信仰義認の箇所です!
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」でしたが、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という表現になりました。信じたことが義と認められた理由であるということがしっかり伝わってきます。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

新約聖書も見てみましょう。

聖書新改訳2017。マタイ福音書1章で、一番インパクトがあった変更点は、「バビロン移住」を「バビロン捕囚」としたことです!日本においては、「終戦」を「敗戦」と改訳したほどのインパクトではないでしょうか。旧約聖書に書き記されたイスラエルの歴史に耳を傾けると、自らの罪と恥の結果、主なる神の怒りを買い、無条件降服、そして強制連行によってバビロン捕囚に至る経緯が明記されています。自らの罪をごまかしたり、なかったことにしたり、お茶を濁すような曖昧な言葉ではなく、ごまかさない、なかったことにしない、お茶を濁さないこの新改訳2017の言葉こそ、ルターが語った「日々悔い改め」の初めの一歩ではないでしょうか。

マタイ福音書2章18節。
東日本大震災の後に日本で出版される日本語訳の聖書として、心に響きます。

「ラマで声が聞こえる。
むせび泣きと嘆きが。
ラケルが泣いている。その子らのゆえに。
慰めを拒んでいる。
子らがもういないからだ。」

マタイ福音書6章34節。
「だから、あすのための心配は無用です。」が「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」に新改訳!心配性の私たちに優しく寄り添う素敵な訳です。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

同じくマタイ福音書の18章3節。なんと「悔い改めて」を「向きを変えて」に新改訳!これで「悔い改める」という聖書的専門用語の意味が明快に伝わってきます。素晴らしいですね。

こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どものようにならなければ、決して天の御国には入れません。

放蕩息子のたとえと言われるルカ福音書15章の20節。
「走り寄って彼を抱き、口づけした。」が「駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」に新改訳。
「走り寄る神」というメッセージ題がありましたが、今度は「駆け寄る神」ですね。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

ローマ人への手紙12章1−2節はどうでしょうか。
すごい!「自分を変えなさい」が「自分を変えていただきなさい」に見事に新改訳され、原文の受身形が鮮明になりました!

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

コリント人への手紙第一12章21節はどうでしょうか。

これまでの訳だと、以下のようでした。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

新改訳2017では、以下のようになりました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

すぐに「あなたはいらない」という言葉が多用される今の日本にとって、まさに必要な翻訳ではないでしょうか。

コリント人への手紙第一15章14節はどうでしょうか。

以前の訳では、以下のようになっていました。つい先日メッセージしたのですが、「実質のないもの」というとても難しい言葉が使われていました。

そして、 キリストが復活されなかったのなら、 私たちの宣教は実質のないものになり、 あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

新改訳2017では、以下のようになりました。シンプルで、とてもわかりやすい訳に感謝です!

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

コリント人への手紙第二4章17節はどうでしょうか。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

が、以下のように改訳されました!

私たちの一時(いっとき)の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

今の時の苦難がずっと続くかのように思い込んでしまいやすいのですが、「一時(いっとき)の軽い苦難」と訳してくれると、本当に救いになりますね。乗り越えていく力、立ち向かっていく勇気が与えられます!

ガラテヤ人への手紙2章16節はどうでしょうか。
以前の新改訳では、

「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

でしたが、以下のように新しく改訳されました。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

まだまだほんの部分的な読み比べですが、全体的に日本語がよりこなれて、とてもわかりやすくなったという印象を受けました。聖書 新改訳2017、聖書を新しく買うことを考えておられる方々にぜひオススメです。

松原湖伝道懇談会2017-10

松原湖伝道懇談会2017-10

聖書が語る伝道と教会形成を目指して

聖書が語る伝道と教会形成を目指して

杉戸キリスト教会牧師 野町 真理

1、私の個人的体験から


 個人伝道は決して個人プレーではない。チームワーク・教会の働き。名前が真理なのに、未信者家庭で生まれ育った私。フィリピンから日本の高知県に来た留学生による個人伝道(友人伝道)で救われた私。私の救いと受洗の背後にあった教会の祈り。洗礼式の時、初対面の方々に言われたこと➡「野町さん、おめでとうございます!あなたのために祈ってましたよ!」

2、伝道する動機について:実利的プレッシャーに対する処方箋


 近年、伝道者・牧会者のメシア・コンプレックスや燃え尽き症候群という言葉を耳にする。もともと燃え尽き症候群という言葉は、対人関係を中心とする仕事に就いている人々の間で生まれた言葉。なぜなら対人関係においては自分の思いどうりにならないことが多く、また目に見える形ではなかなか結果が見えてこないから。伝道者や牧会者もこの例にもれず、実利主義的に受洗者の数や礼拝出席者の数でその働きを人間的に評価されやすい中にあって、その意義と安全を何に置くかが予防の鍵となる。即戦力、スピーディーな結果が求められる中にあって、神ご自身の中に働きの意義と安全を見いだすことは、牧会伝道をする動機と目的、つまり何のために、何が見たくてそれをするのかという動機を健全なものとし、私たちを同労者同士の妬み合いなどからも解放し、私たちの働きをただ神にのみ栄光を帰するものとする。

★「意義」と「安全」を神によって得る。(存在の喜び)

★人の評価でなく神の評価を求める

★週に一度、できる限り家族で普段の生活から離れて安息の時を持つ。
 美しい自然の中に出かけるのが一番。特に教会堂と牧師館が一体になっているような教会で奉仕している場合は要注意。休日も夜も四六時中ずっと職場に居続ける異常さ。休まないで働き続けることこそ深刻な罪!休まなければいい奉仕ができない!

★洗礼に導くこと・洗礼を受けることをゴールにしないことが大切
 入門クラス、求道者会、洗礼準備会。受洗後クラス(アフターバプテスマクラス)。一人を大切にすること。リプロダクション伝道。寄り添う牧会伝道。タオル一本分の間合い

3、ヨハネ福音書1章1−18節と4つの法則による福音提示


イエス・キリストを信じ受け入れる時に与えられる「神の子どもとされる特権」

 1、神を私のお父さんと呼べる特権

 2、神のものをすべて相続する特権(永遠のいのち、復活のからだ、新しい天地)

 3、キリストに似た者に変えられる特権
  聖霊に祈りつつ、みことばを伝えていく
  創造主というイメージの大切さ
  日本語の「神」という言葉が持つイメージを越えて
  母の胎の中で私たちを組み立てられたメーカー(詩篇139篇)
  受肉前のキリスト、受肉(クリスマス)、

  私たちのための十字架の死、復活(イースター)
  信じるとは、神と神の約束を信頼して、受け入れること(飲食と同じ)

 黙示録3:20が約束している素晴らしいことは、クリスマスの家畜小屋のような私たちの心の中に入ってくださり、一緒においしく食事ができるほどに心の洗濯をしてくださるということ。イエス様を信頼して心の扉を開き、心の王座に迎える祈りをされませんか? 

4、洗礼・バプテスマとは何か


  洗礼は本来、信仰を持って救われた人が、自発的に自分の意志で受けるものです。

  A、お葬式と誕生式 イエス・キリストの十字架の死、墓への葬り、3日目の復活

  B、誓約と入会式  教会につながることの大切さ

  C、任命と派遣式

 洗礼は、スタートであってゴールではありません。教会(神の家族)といっしょにゴールを目指して歩み始めるスタートラインです。ゴールは、私たちがキリストのように変えられることです。

5、洗礼・バプテスマを受ける者への3つの指針


 A、主の祈り=神の国とその義をまず第一に求める祈り⇔罪人の自己中心な祈り

罪人の的外れな祈り(主の祈りをひっくり返すと恐ろしい祈りに・・・)

私の名前があがめられますように。私を中心とした私の国が来ますように。
私が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。
わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。


主の祈り=神中心の祈り=的を射た祈り=義人の祈り=罪人にとっては不自然な祈り=神の国とその義とをまず第一に求める祈り



自己中心の祈り=的外れな祈り=罪人の祈り=罪人にとっては自然な祈り
=自分の国とその義とをまず第一に求める祈り

 B、十戒=先行する神の愛によって救われ、赦され、自由へと解放された者に語られる神と隣人を愛する人生の指針
。前文がとても大切。神のものを盗んではならない
。

収入を得るために必要な4つの預かりもの


A、健康
B、才能・能力
C、職場・仕事
D、やる気

➡溢れるほどの祝福を注ぐかどうかを試してみよ!収入の十分の一によって

C、使徒信条=三位一体の神=天地万物を創造された神を信頼する信仰

メーカー、デザイナー、クリエイターであられる神
父なる神、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神(御霊)

6、線香花火にならないために・残る実を結ぶために


  ➡教会形成:個人の生活習慣の改善、教会の体質改善

7、人生を導く5つの目的(THE PURPOSE DRIVEN LIFE)リック・ウォレン著


  あなたの人生をドライブしているものは何でしょうか?
  本来造られた目的・デザインにドライブされて生きるなら、
  世界で一人だけのあなたが、一番あなたらしく生きることができます。
  礼拝、交わり、成長、奉仕、宣教
  来会者数、礼拝出席者数、受洗者数、弟子の数、奉仕者数、宣教者数

  1、神を愛し神を喜ぶ礼拝に招く
  2、神の家族の交わりに招く
  3、キリストを目指す成長に招く
  4、ユニークな賜物の形(SHAPE)を用いた奉仕に招く
  5、伝道、世界宣教に招く

8、健康な教会へのかぎ(THE PURPOSE DRIVEN CHURCH)



  教会をドライブしているものは何でしょうか?

  神が命じておられる5つのことをバランス良く大切にすることが大切です。

9、閉塞感を突き破るもの・ブレイクスルー信仰


  人間の不信仰を越えて約束を成就される神の真実=閉塞感を突き破るもの

10、閉塞感から涙の祈りによる種まきへ!



   天国に入れる人、救われる人は少ない???
   収穫は多いが働き手が少ない。目を上げて畑を見なさい。
   星の数ほどのだれにも数えきれないほどの人々!
   涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう

11、健全な聖霊の教えと世界的視野の大切さ


   WWW:World Wide Witness(使徒1:8より)
   ワールドワイドなキリスト者、世界に通用する、世界標準のキリスト者を目指そう!

祈りのベースボール

祈りのベースボール

杉戸キリスト教会牧師 野町真理(のまちしんり)

聖書が教えている祈りは、例えて言うと、ベースボールのようだ。草野球、少年野球、高校野球、プロ野球、メジャーリーグ、マスターズ甲子園。いろんなベースボールがあるが、聖書に耳を傾けると、祈りのベースボールというスピリチャルな試合があり、僕たち選手一人一人に対して、励ましと応援の声が聞こえてくる。

誰かのために何かを祈り始めると、まずは1累にランナーを送り出すことができる。続けて祈り続けると、ランナーを2累に進めることができる。さらに祈り続けると、やがてランナーを3塁に立たせることができる。さらに粘り強く祈り続けるなら、最後にはランナーをホームベースに戻すことができる。けれども、ホームベースに戻すプロセスのどこかで、あきらめて祈ることを止めてしまったらどうだろうか。せっかくの祈りの労苦が、残念ながら無駄になってしまう。

聖書が教えている祈りは、インスタントに答えられない。だから祈りが応えられるまで、チーム全員で励まし合い、支え合って、決してあきらめないで祈り続けることが必要だ。あくまで求め続けること、粘り強く叩き続けること、忍耐強く探し続けることが聖書には教えられている。

Luke 18:1 いつでも祈るべきであり、 失望してはならないことを教えるために、 イエスは彼らにたとえを話された。 2 「ある町に、 神を恐れず、 人を人とも思わない裁判官がいた。 3 その町に、 ひとりのやもめがいたが、 彼のところにやって来ては、 『私の相手をさばいて、 私を守ってください』と言っていた。 4 彼は、 しばらくは取り合わないでいたが、 後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、 5 どうも、 このやもめは、 うるさくてしかたがないから、 この女のために裁判をしてやることにしよう。 でないと、 ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。 」 6 主は言われた。 「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。 7 まして神は、 夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、 いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。 8 あなたがたに言いますが、 神は、 すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。 しかし、 人の子が来たとき、 はたして地上に信仰が見られるでしょうか。 」

弱くて不信仰な僕たちは、すぐにあきらめて祈ることを止めてしまうかもしれない。でも、祈っていたことを思い出した時、その時にまた祈りを再開すればいい。七転び八起き。何度つまづいても、また起き上がって祈り続けるなら、必ず祈りの手応えを覚えることができる。そしたらしめたもの。

祈りに味を占めることができたなら、ホームベースは遠くない。1点入るという形で目に見える結果が出る時、僕たちは祈りのベースボールにおいて、勝利への道を走り続けることができる。

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の第13章より

牧師 その神学と実践

1、教会の奉仕(仕事)には終わりがない
 小学校の教師と一緒に仕事をしているある人物にインタビューをしたことことがある。「良き教師は、刈り取る者であるよりも、種蒔く者であることに満足しなければならない」と、彼は言った。「教師は自分の努力が、即座に、明確に、そして具体的に成果を上げるのを見ようと思ってはならない。もしそうした努力が生徒に何らかの影響を与えるとしたら、それは彼らのその後の人生においてであって、生徒たちが学校を去ってからずいぶんたった後のことなのだ。」牧師の働きにもこれと同じことが言える。パウロが記しているように、彼が植え、誰かが水を注ぎ、そしてまた、別な誰かがその収穫にあずかることになるのだが、いずれにしても成長させてくださるのは神なのである(1コリント3:6)。

2、教会が明確な「良い牧師像」を共有していない
 ひとりひとりの教会員の思い描く「良い牧師像」が漠然としており、彼らが牧師の果たすべきことがらとして期待するものがあまりにも多岐にわたりばらばらであるために、あわれにも、教会員に十分な仕事を果たしていないと感じる牧師があまりにも多く存在する。

3、教会は、非常に困窮している人々の港であり、避難所である
 よく言われるように、教会は「病人にとっての病院」のような存在である。病気のせいで痛みを抱えている人々は、往々にして気難しく、また要求過多になることがある。こうした人々は、空虚さや混乱、困窮、そして期待を抱えながら、教会にやって来る。多くの場合、人間は傷ついているときに敵対的な姿勢を示すことがある。一方では助けが欲しいと感じているにもかかわらず、助けを拒み、かえって、助けようとしている人に向かって非難を浴びせることすらある。もし教会がこうした仕事を引き受けようとするなら、おそらく教会の中には、他のいろいろな施設よりも高い割合で、このような傷つき困窮した人々が存在することになるだろう。

4、牧師はペルソナのもとで多くの時間を過ごさなければならない(仮面の道化師の心理)
 ペルソナ(仮面)は、必ずしも演技でもなければ、欺瞞的なゼスチャーということでもない。それは、私たちの中のある部分を隠すことによって、自分自身を守る手段である。それは、私たちが自分の責任を果たすために世の中に出て行くときの職業上の顔なのだ。牧師がジェームズ・スミス氏のところに行ってお悔やみを言い、そのケアをするとき、それは決して彼を欺いているわけではない。そうしたとき、牧師は悲嘆にくれている人間に対して牧師としての心遣いを示すという、より大きな善を行うために、自分の個人的感情を脇においているだけなのである。

 けれどもペルソナがうまく機能しないときもある。牧師の役割から離れる機会を拒む牧師はひじょうに多い。そうした人々はつねに牧師であろうとする。彼らは、マスクをはずし、足を投げ出して休むような時を、片時も持たない。・・・このマスクをつけっぱなしにして、あまりに多くのエネルギーを使いすぎると、すなわち、牧師という役を降りてマスクをはずし、自分自身の姿に戻る機会が失われてしまうと、本当の自己と私たちが演じている役割との間に根本的な分離が生じることになる。

5、困難な状況のストレスで、疲労困憊する
 「あなたは外科医に何を期待しますか」と、彼女は答えた。「私たちのする仕事の90パーセントは、ただ患者のそばに立って、自然の成り行きによって状態が好転するか、それともまったくの機能不全に陥るかを見守っているだけなのです。重い脳の障害や損傷に対して、実際に対処できることはほとんどありません。無力なまま、どうすることもできずに、何日間もそばに立ったまま、その人の寿命が尽きるのを見ているだけです。それが、私たちがその人にしてあげれることなのです。」

 教会の牧師もまた、人々が死んでいくのを、彼らの結婚が失敗に終わるのを、彼らの癌が治らないのを、彼らの情熱が衰えていくのを、そして、彼らの以前からの自殺願望がふたたび頭をもたげてくるのを、どうすることもできないまま、ただそばに立っているしかないという経験を、何度も何度も繰り返すことになる。それが牧師のしなければならないことなのだ。だからこそ、アクィナスは、牧会者の徳目表の最初に「弱っている人々のために忍耐すること」と挙げたのである。

6、物質主義の時代的・文化的背景との大きなギャップ
 現代の私たちは、金銭に価値を置き、給料の額で人の値打ちを決めるような文化の中に暮らしている。脳外科医の仕事は難しく、緊張の連続で、きつい仕事である。そして、それに相応して、外科医は高給取りでもある。他方、牧師の仕事は、人々から賞賛されはするものの、その給料のことを考えてみると、物質主義的な階級制度の中で自分がどの辺りに位置するかを、牧師ははっきり知らされることになる。もっとも愛他主義の精神に満ちた牧師であっても、この給料の低さでは、自分の値打ちが十分に測られていると実感することは困難である。

7、「教勢の低下」という状況の下で失望する
 ふたりの宗教社会学者が著した『アメリカの主流派宗教ー変わりゆく形態と未来』の中で、著者たちは、教会に属する人々の動向を包括的に研究し、以下のような予言を記している。

 主要なプロテスタントの諸教派は、長期にわたって減衰の一途をたどってきたが、数的な面においても、社会的な実力や影響力においても、今後も引き続きその地盤を失い続けていくことになるだろう。プロテスタントに属する人口の割合は、来る数十年の間に徐々に低下し続けるだろう。

8、教会の働きの多くは「頭中心」のデスクワークになりがち
 感情的な問題や人間関係の問題は、肉体を無視した結果だったということがよくあるものだ。多くの研究が、肉体の運動はストレスを大いに軽減することを示している。一般的に言って、仕事の内容が頭脳に関わるものであればあるほど、身体に養分を補給する必要がある。人は、脳だけの存在でもなければ、肉体を持たない魂というわけでもない。私たちは被造物であり、その行動のすべてにおいて心身の相関性を備えた動物なのである。人間の生き物としての被造性を忘れることは危険である。

9、時間管理の不手際による精神的消耗
 故ヘンリ・ナウエンが語ったように、「もし、牧師が自らの職務における絶対的本質が何であるかを知らないなら、その牧師は、『いわゆる大切とみなされること』を行うようになっていく。」牧師の行うことの大半はいずれも「大切なこと」なのだから、本質的なことを見分けることができないとすれば、任職された牧師の上には、飽き飽きするほどの達成不能な重荷の数々が負わされることになるだけである。

10、牧師の職務は通常混乱状態の中で行われることを認められない性格
 ある牧会カウンセラーから教えられたことだが、牧師という職務を幸いな形で成し遂げる上で欠くことのできない性格とは、「曖昧さに対する許容度の高さ」であるという。「几帳面であること。正確であること。そして秩序だっていることをとりわけ重視する正確の牧師は、その職務において悲惨な結果を迎える。人生とは混乱したものであり、人々は不可解な存在であり、(あなたが人々のことを知れば知るほど)牧師の望む基準に達するような人間はわずかしかいないことが分かるようになる。印刷関係の仕事や写真家のような仕事をしていた人々は、決して牧師になどなるべきではない。

 もちろん、この発言には冗談も含まれている。しかし、彼の示す禁止事項はなかなか興味深い。緻密であることを求められる印刷業者、読みやすく整然とした仕事を求められる印刷業者からすれば、教会生活は混乱したものに見えることだろう。また、もしあなたが人生というものを、ピントを合わせ、すべての動きを固定した上で、カメラの小さな穴を通して見えることがらに限定するような仕方で理解しているとすれば、教会の中で牧師は正気を失ってしまうことだろう。

11、所属教派の価値観、神学的立場、職制、規則などとの不一致
 牧師や信徒が教派の中のリーダーや計画のことであれこれと言い合っても構わないが、それでも、自分たちがその教派の一員であり、全体の方向性には共感を持っているという状態が保たれていなければならない。教派の方向性もしくは性格の転換、あるいは牧師や信徒の神学もしくは性格の転換は、個々人と教会組織の間に深刻な亀裂を生み出すことがある。

12、女性教職の受ける性差別的な意識の犠牲
 私たちが二十世紀の後半に学んだことは、単に女性の任職を実施し、女性にも牧師としての召命に応えることを認めるだけでは、彼女たちが牧師の職務を果たすことを支えるには不十分だということであった。女性教職に対する抵抗、偏見、敵意との絶えざる闘いが、彼女たちを疲弊させている。

13、「この世の諸々の支配と権威」が福音と説教者に敵対している
 これまでに列挙した多くの要因が示していることは、教会そのものが牧師の職務に対する敵となることがあるという事実である。否、聖書によれば(エペソ6:12)、福音は宇宙的な諸々の力と敵対するものなのだ。任職された牧師のリーダーシップに対する挑戦は、社会学的なものだけでなく、神学的なものである。サタンとその仲間は、私たち牧師の職務を打倒しようとして躍起になっているのだ。

国内宣教と国外宣教の関係について

国内宣教と国外宣教の関係について

スカンヂナビア人宣教師の日本伝道事始

1、国内宣教の原点、私たちの救いの原点は何か?それは国外宣教である。

 国外から宣教師が外国に派遣され、海や国境を越えて国外宣教がなされる。宣教師は、外国に住み、外国の言葉を覚え、そして外国の文化の中で生活する。宣教師は、現地の人々を愛し、現地の人々のために祈り、現地の人々に仕え、聖書を翻訳する。宣教師は、肌の色、目の色、髪の毛の色を越えて、言葉や文化の壁を越えて、福音を宣教する。宣教師は、現地の魂の救いから人育てに深く関わり、現地の教会を形成をする。

2、国外宣教は、現地の働き人にバトンタッチされる時、国内宣教となる。

 自分たちがやった働きだと思わせる宣教、それが最高の宣教。新しい教会を生み出していくことのできる教会。そのような生殖健康(リプロダクティブ・ヘルス)を持った教会を、現地に建て上げる。

3、国外宣教と国内宣教はコインの裏表である。

 国外宣教と国内宣教はコインの裏表の関係にある。どちら側から見るかによって、国外宣教も国内宣教も入れ替わってしまう。

教会は全地に 国外宣教50周年記念誌

神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか

神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか。それを知るためには、書き記された神のみことばである聖書に、静まって耳を傾けなければならない。あなたがもし他の教会に転入会すべきかどうかと迷っておられるなら、ぜひコリント人への手紙の第一と第二に静かに耳を傾けてほしい。

これが神の教会なのだろうかと思うような問題だらけのコリント教会に対して、主イエスはパウロを通して、「コリントにある神の教会へ」と呼びかけられた。今あなたが置かれている○○教会に対しても、主イエスは「○○にある神の教会へ」と呼びかけておられる。

そして主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ福音書13章34−35節)と命じておられる。

礼拝メッセージ「忍耐と励ましの神」ローマ38

礼拝メッセージ「忍耐と励ましの神」ローマ38(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙15章1ー6節

1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。ローマ人への手紙15章1−6節

礼拝メッセージ「一つのからだ 互いに器官」ローマ31

礼拝メッセージ「一つのからだ 互いに器官」ローマ31(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙12章3ー8節

3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。ローマ12章3−8節

礼拝メッセージ「あなたがたのゆえに」ローマ6

礼拝メッセージ「あなたがたのゆえに」ローマ6(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙2章17ー29節

これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。ローマ2章24-29節

3.11からちょうど一年が経ちました。被災された方々の上に、深い慰めと守りが豊かにありますようにと、心から祈ります。今なお揺れ動く苦しみと悲しみの地で、神があなたと共におられますように。

東日本大震災は、見せかけだけの偽物を暴き出し、人目に隠れた本物を明らかにしました。ローマ教会に呼び集められたメンバーにも、見せかけだけのユダヤ人がいて、深刻な問題を起こしていました。パウロは心痛めながら、祈りつつ、上記のような厳しい言葉を書き送っています。

本物のユダヤ人、本物の信仰者になるためには、心の扉を開き、主イエス・キリストを全面的に信頼して受け入れることがどうしても必要です。