BLESSセミナーの3つの質問に対する私の答え

①これまで成し遂げたことで、最もやり遂げた充実感が高かったことは何か?

 登山:槍ヶ岳、八ヶ岳縦走、雲取山、両神山、筑波山、谷川岳、剣山、石立山、鴻ノ森
ハクサンイチゲと槍ヶ岳

SKY WALKING

秋の八ケ岳

雲取山

ある晴れた春の日の午後

 水泳:自由型クラスマッチ一位
 英語:ESS スピーチコンテスト入賞
 空手道:瓦割り、昇段審査、組手
karate

 車 SUBARU:高知帰省ファミリーツーリング
 バイク:房総半島一周ツーリング、ビーナスラインツーリング、利根川ツーリング

 自転車:江戸川サイクリング、古利根川サイクリング、利根川サイクリング(神崎まで)

 魚釣り:シーバス、ブラックバス、キビレ、鯉、鮒
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Carp Fishing in Sugito

 カメラ:PENTAX 風景写真、ネイチャーフォト

 ビデオカメラ:Go Pro、シネマティック映像

 電気・電子工学:半導体結晶成長、コンピューター・スマホ・タブレット:Mac、iPhone、iPad
 インターネット:ホームページ、ブログ、
         SNS、YouTube、Facebook、Twitter、インスタ
 音楽:ギター、ドラムス、ストリートライブ、ゴスペルカフェ
 メッセージ:礼拝、ゴスペルカフェ、聖書と祈り会
 神学:卒業論文『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解
 伝道:魂の救いのために用いられること
 牧会:2組の夫婦を献身者として杉戸から送り出したこと
 国外宣教委員会:台湾ミッショントリップ、モンゴルミッショントリップ、南アフリカ和解の務め支援会、JAWS21 教会形成、アジア21、そして世界へ

 伝道部:国内宣教(教会開拓&教会形成) 鹿児島、熊本、宮崎 
九州鹿児島ビジョントリップ2017-05

 浜名湖バイブルキャンプ委員会 中高生キャンプ、小学生キャンプ、青年キャンプ

②私が現在、最も関心を持っているものは何だろうか?

 閉塞感からのブレークスルー そのための真剣な祈り

ブレークスルー・打ち破らせてくださるのは、私たちの王であり主であるイエス・キリスト!!!
打ち破る者=私たちの先頭に立って上って行かれる主イエス・キリストは勝利者!!!

ミカ書2章13節 打ち破る者は 彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、主が彼らの先頭を進む。」
Mic. 2:13 The One who breaks open the way will go up before them; they will break through the gate and go out. Their King will pass through before them, the LORD at their head.”

詩篇18篇29節
29 あなたによって 私は防塞を突き破り 私の神によって 城壁を跳び越えます。
29 With your help I can advance against a troop; with my God I can scale a wall.

王の王、主の主であれられ、勝利者であられる主イエス・キリストに対する真剣な祈り

③条件さえそろえば、他の人のためにどんなことをしたいか?

 閉塞感に囚われた人・教会がブレークスルーする働きに関わりたい

対抗文化(カウンター・カルチャー)を生み出すために働く存在

ウイリモンのこうした用語をもじって言えば、牧師とは「住み込みの異星人たち(レジデント・エイリアンズ)」と共に、この世とは異質な「対抗文化(カウンター・カルチャー)」を生み出すために働く存在であり、またそのための特定の責任を負わされた存在であると言えるだろう。

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきよりP568

牧師 その神学と実践

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の第13章より

牧師 その神学と実践

1、教会の奉仕(仕事)には終わりがない
 小学校の教師と一緒に仕事をしているある人物にインタビューをしたことことがある。「良き教師は、刈り取る者であるよりも、種蒔く者であることに満足しなければならない」と、彼は言った。「教師は自分の努力が、即座に、明確に、そして具体的に成果を上げるのを見ようと思ってはならない。もしそうした努力が生徒に何らかの影響を与えるとしたら、それは彼らのその後の人生においてであって、生徒たちが学校を去ってからずいぶんたった後のことなのだ。」牧師の働きにもこれと同じことが言える。パウロが記しているように、彼が植え、誰かが水を注ぎ、そしてまた、別な誰かがその収穫にあずかることになるのだが、いずれにしても成長させてくださるのは神なのである(1コリント3:6)。

2、教会が明確な「良い牧師像」を共有していない
 ひとりひとりの教会員の思い描く「良い牧師像」が漠然としており、彼らが牧師の果たすべきことがらとして期待するものがあまりにも多岐にわたりばらばらであるために、あわれにも、教会員に十分な仕事を果たしていないと感じる牧師があまりにも多く存在する。

3、教会は、非常に困窮している人々の港であり、避難所である
 よく言われるように、教会は「病人にとっての病院」のような存在である。病気のせいで痛みを抱えている人々は、往々にして気難しく、また要求過多になることがある。こうした人々は、空虚さや混乱、困窮、そして期待を抱えながら、教会にやって来る。多くの場合、人間は傷ついているときに敵対的な姿勢を示すことがある。一方では助けが欲しいと感じているにもかかわらず、助けを拒み、かえって、助けようとしている人に向かって非難を浴びせることすらある。もし教会がこうした仕事を引き受けようとするなら、おそらく教会の中には、他のいろいろな施設よりも高い割合で、このような傷つき困窮した人々が存在することになるだろう。

4、牧師はペルソナのもとで多くの時間を過ごさなければならない(仮面の道化師の心理)
 ペルソナ(仮面)は、必ずしも演技でもなければ、欺瞞的なゼスチャーということでもない。それは、私たちの中のある部分を隠すことによって、自分自身を守る手段である。それは、私たちが自分の責任を果たすために世の中に出て行くときの職業上の顔なのだ。牧師がジェームズ・スミス氏のところに行ってお悔やみを言い、そのケアをするとき、それは決して彼を欺いているわけではない。そうしたとき、牧師は悲嘆にくれている人間に対して牧師としての心遣いを示すという、より大きな善を行うために、自分の個人的感情を脇においているだけなのである。

 けれどもペルソナがうまく機能しないときもある。牧師の役割から離れる機会を拒む牧師はひじょうに多い。そうした人々はつねに牧師であろうとする。彼らは、マスクをはずし、足を投げ出して休むような時を、片時も持たない。・・・このマスクをつけっぱなしにして、あまりに多くのエネルギーを使いすぎると、すなわち、牧師という役を降りてマスクをはずし、自分自身の姿に戻る機会が失われてしまうと、本当の自己と私たちが演じている役割との間に根本的な分離が生じることになる。

5、困難な状況のストレスで、疲労困憊する
 「あなたは外科医に何を期待しますか」と、彼女は答えた。「私たちのする仕事の90パーセントは、ただ患者のそばに立って、自然の成り行きによって状態が好転するか、それともまったくの機能不全に陥るかを見守っているだけなのです。重い脳の障害や損傷に対して、実際に対処できることはほとんどありません。無力なまま、どうすることもできずに、何日間もそばに立ったまま、その人の寿命が尽きるのを見ているだけです。それが、私たちがその人にしてあげれることなのです。」

 教会の牧師もまた、人々が死んでいくのを、彼らの結婚が失敗に終わるのを、彼らの癌が治らないのを、彼らの情熱が衰えていくのを、そして、彼らの以前からの自殺願望がふたたび頭をもたげてくるのを、どうすることもできないまま、ただそばに立っているしかないという経験を、何度も何度も繰り返すことになる。それが牧師のしなければならないことなのだ。だからこそ、アクィナスは、牧会者の徳目表の最初に「弱っている人々のために忍耐すること」と挙げたのである。

6、物質主義の時代的・文化的背景との大きなギャップ
 現代の私たちは、金銭に価値を置き、給料の額で人の値打ちを決めるような文化の中に暮らしている。脳外科医の仕事は難しく、緊張の連続で、きつい仕事である。そして、それに相応して、外科医は高給取りでもある。他方、牧師の仕事は、人々から賞賛されはするものの、その給料のことを考えてみると、物質主義的な階級制度の中で自分がどの辺りに位置するかを、牧師ははっきり知らされることになる。もっとも愛他主義の精神に満ちた牧師であっても、この給料の低さでは、自分の値打ちが十分に測られていると実感することは困難である。

7、「教勢の低下」という状況の下で失望する
 ふたりの宗教社会学者が著した『アメリカの主流派宗教ー変わりゆく形態と未来』の中で、著者たちは、教会に属する人々の動向を包括的に研究し、以下のような予言を記している。

 主要なプロテスタントの諸教派は、長期にわたって減衰の一途をたどってきたが、数的な面においても、社会的な実力や影響力においても、今後も引き続きその地盤を失い続けていくことになるだろう。プロテスタントに属する人口の割合は、来る数十年の間に徐々に低下し続けるだろう。

8、教会の働きの多くは「頭中心」のデスクワークになりがち
 感情的な問題や人間関係の問題は、肉体を無視した結果だったということがよくあるものだ。多くの研究が、肉体の運動はストレスを大いに軽減することを示している。一般的に言って、仕事の内容が頭脳に関わるものであればあるほど、身体に養分を補給する必要がある。人は、脳だけの存在でもなければ、肉体を持たない魂というわけでもない。私たちは被造物であり、その行動のすべてにおいて心身の相関性を備えた動物なのである。人間の生き物としての被造性を忘れることは危険である。

9、時間管理の不手際による精神的消耗
 故ヘンリ・ナウエンが語ったように、「もし、牧師が自らの職務における絶対的本質が何であるかを知らないなら、その牧師は、『いわゆる大切とみなされること』を行うようになっていく。」牧師の行うことの大半はいずれも「大切なこと」なのだから、本質的なことを見分けることができないとすれば、任職された牧師の上には、飽き飽きするほどの達成不能な重荷の数々が負わされることになるだけである。

10、牧師の職務は通常混乱状態の中で行われることを認められない性格
 ある牧会カウンセラーから教えられたことだが、牧師という職務を幸いな形で成し遂げる上で欠くことのできない性格とは、「曖昧さに対する許容度の高さ」であるという。「几帳面であること。正確であること。そして秩序だっていることをとりわけ重視する正確の牧師は、その職務において悲惨な結果を迎える。人生とは混乱したものであり、人々は不可解な存在であり、(あなたが人々のことを知れば知るほど)牧師の望む基準に達するような人間はわずかしかいないことが分かるようになる。印刷関係の仕事や写真家のような仕事をしていた人々は、決して牧師になどなるべきではない。

 もちろん、この発言には冗談も含まれている。しかし、彼の示す禁止事項はなかなか興味深い。緻密であることを求められる印刷業者、読みやすく整然とした仕事を求められる印刷業者からすれば、教会生活は混乱したものに見えることだろう。また、もしあなたが人生というものを、ピントを合わせ、すべての動きを固定した上で、カメラの小さな穴を通して見えることがらに限定するような仕方で理解しているとすれば、教会の中で牧師は正気を失ってしまうことだろう。

11、所属教派の価値観、神学的立場、職制、規則などとの不一致
 牧師や信徒が教派の中のリーダーや計画のことであれこれと言い合っても構わないが、それでも、自分たちがその教派の一員であり、全体の方向性には共感を持っているという状態が保たれていなければならない。教派の方向性もしくは性格の転換、あるいは牧師や信徒の神学もしくは性格の転換は、個々人と教会組織の間に深刻な亀裂を生み出すことがある。

12、女性教職の受ける性差別的な意識の犠牲
 私たちが二十世紀の後半に学んだことは、単に女性の任職を実施し、女性にも牧師としての召命に応えることを認めるだけでは、彼女たちが牧師の職務を果たすことを支えるには不十分だということであった。女性教職に対する抵抗、偏見、敵意との絶えざる闘いが、彼女たちを疲弊させている。

13、「この世の諸々の支配と権威」が福音と説教者に敵対している
 これまでに列挙した多くの要因が示していることは、教会そのものが牧師の職務に対する敵となることがあるという事実である。否、聖書によれば(エペソ6:12)、福音は宇宙的な諸々の力と敵対するものなのだ。任職された牧師のリーダーシップに対する挑戦は、社会学的なものだけでなく、神学的なものである。サタンとその仲間は、私たち牧師の職務を打倒しようとして躍起になっているのだ。

閉塞感という名の黒雲を突き破るものは何か?

閉塞感という名の黒雲を突き破るものは何か?それは決して、人間の信仰深さや熱心さではない。
キリステ(切り捨て)教では、人間の信仰深さや熱心さがブレイクスルーの鍵を握っていると教えられる。そしてキリステ教では、「願いかなわざることなし」、「願ったとおりに叶えられていく」と教えられる。けれども、いくら願っても願いがかなえられない状況で悩む人々を、「それはあなたの信心が足りないから。信仰のとおりにしかならないから、信じられなかったらもうおしまい」と切り捨てる。
以下に引用する新約聖書ルカの福音書1章20節は、閉塞感を突き破る鍵となるみことばであり、キリスト教がキリステ教にならないために、真剣に耳を傾けなければならないみことばである。

『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」』

主なる神が約束してくださったことは、たとえ人間が信じられなくても、信心が足りなくても、時が来ると必ず出来事になる。だから信じられなくても大丈夫。どんなことがあっても、人間の不信仰でさえも突き破って、神は約束を必ず守ってくださる。
閉塞感という名の不信仰を突き破るものは何か?それは、天地を創造され、万物を御手に統べ治めておられる主なる神の真実な御言葉である。

牧師の召命を矮小化しようとする圧力に対する解毒剤


1999年の4月9日に購入した良書を改めて紹介します。
牧会者の神学
Working the Angles
The Shape of Pastoral Integrity
E・H・ピーターソン 著
越川弘英 訳
日本基督教団出版局

本書は、牧師の本来的な働きとは「聞くこと」であり、また「神が聖書において、祈りにおいて、そして隣人たちにおいて語る時、人々がその御言葉を聞きとる援助をすること」であると定義することによって、牧師の召命を教会運営という宗教的事業経営のごときものに矮小化しようとする強い圧力に対する解毒剤を提供する。(裏表紙のことばより)

この本は、「牧会とは何か?」、 「牧師の最優先すべき働きとは何か?」といった問いを投げかけている。
それらの問いを通して、 牧師のアイデンティティが再確認される。
この本の原題は「角度を調節する」である。
著者は牧会における大切な3つの行為として 「祈ること」、「聖書を読むこと」、そして「霊的導き」を挙げる。
それら3つを三角形の「角」と考え、 牧会の働きを三角形のモデルで提示している。
そのモデルによると、牧会とは、「祈り」「聖書」「霊的導き」という三つの角度を調節することによって、三角形、すなわち牧会のかたちを形成することである。
その際、三角形の3つの辺を、目に見える牧師の働きと考えている。
目に見える牧師の働きとは、説教、教育、事務的働きである。
三つの角度は目に見えてこないが、実は非常に大切な土台である。