神の国の証人ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ

神の国の証人ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ

それが、そのような困難は承知の上で、やはり書かずにいられない気持ちになったことには、日本のキリスト教会の現状についてのーことに一九六九年以降の日本基督教団の現状についての、私自身の認識が関係している。今そのことについて、ここに詳しく述べることはできない。ただ一言で言えば、私には、今日の日本の教会にもっとも欠けているもの、そして日本の教会が(自覚的ではないにしても)今日もっとも必要としているものは、ブルームハルト的なものだと、思われてならない。ブルームハルト父子におけるような「活ける神」への立ち返りと素朴な信仰のリアリティの快復なしには、日本の教会の新しい出発はないと思われてならない。(あとがきより)

「イエスの出現によって、単に心情の問題が提出されたのではなくて、力の問題が提出された。」と言っている。これは重要な指摘である。ブルームハルトが、この出来事を通して、聖書が証しする事柄を、そしてわれわれの救いの問題を、単に心情の問題としてではなく、力の問題として捉え、「戦い」の問題として捉えたということ。これがブルームハルト父子を敬虔主義から区別する中心的なものであると共に、彼らがカール・バルトらに教えたもっとも重要なものの一つであり、今日のわれわれが自分自身の信仰の問題としてもっとも緊急に聞かなければならない事柄だと、私は思う。ド・ヴァレンティ博士に対する「弁明書」の中で語っているように、彼がゴットリービンの悲惨の中に見たものは、今も力を振るっている闇の力の支配のもとにある人間の姿であった。そのような事実に直面して、彼が覚えたのは、「憤怒」であった。彼が子どものころから聖書で読んだように、神が主イエスにおいてすでに勝利し給うたということがもし事実であれば、このような人間の悲惨に対して、どうして神の力の介入がないはずがあろうか。そのような焦燥が彼を捉えた。その場合、彼は、神の力の介入を、史的イエスの時代や使徒たちに限定することに堪えられなかった。主イエスの高挙の後の時代の有様が、それ以前と同じであって良いはずはないのであった。したがって、彼の問題は、主イエスの支配か、それとも彼に逆らう者の支配か、というまさに「力の問題」であった。p78-79

凍 沢木耕太郎

凍 沢木耕太郎著
凍 沢木耕太郎
この本の解説を池澤夏樹氏が「最も自由なクライマー」と題して書いているが、核心部分を少し引用する。

彼らが確保している自由の中で大事なのは名声からの自由である。つまり名声を求めないこと。そういうものに振り回されないこと。(日本人の自由観には「何々からの自由」というのがない。みんな自由とは何かしたいことを邪魔されずにできることだと思っているが、しかし、したくないことをしない自由もあるのだ。例えば、徴兵制は人を殺さない自由を奪う。)

キリスト者であっても、なかなか「名声からの自由」に生きることは難しいと思う。だからこそ、この本を読む必要を私は感じる。

先行する引き渡しと使徒的引き渡し

主イエスに対して、高価なものを捧げるのはもったいないと思う人がいるなら、
その人はやがて、主イエスを売り渡すことになるでしょう。
イスカリオテ・ユダに代表される12使徒たちがそうであったように、
主イエスはあなたにとって売り物となるでしょう。
イスカリオテのユダ
カール・バルト教会教義学神論Ⅱ/2 神の恵みの選び<下>

いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。われわれは、ここで明らかに、すべてのそのほかの引き渡しに対して、威厳、重要さ、意味深さにおいて、先行する引き渡しとかかわらなければならない。ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8・32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡しーその中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡しーの中に基礎づけられている。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p338-339

パウロは、正確に、ユダが、その後悔によれば、逆転させたいと思い、また既に起こったことを撤回させたいと願ったそのところで、業を継続する。ーすなわち、ユダが気も転倒せんばかりに恐れたことであるが、大祭司と長老たちが、あの悪い系列の中の第二の輪としてなしたことをなすことによって、継続する。換言すれば、パウロは、まさに異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。しかも、イスラエルの召命と派遣に対する不真実をもってではなく、それらに対する真実をもって、もはやイエスを殺すためではなく、むしろ、この殺されたが、しかしまた甦らされた方の支配を全世界にわたってうち立てるために、異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。そのようなわけで、ユダが、使徒職の任命と樹立を無にしてしまうなどということは全くなかったのであり、十二使徒の円は、ただ単にすぐに再び塞がれるだけでなく、むしろそのことを越えて、この定員外の人物の中で、マタイ28・19の意味で、まことの使徒行伝が、すなわち、イエスを異邦人に正しく引き渡す〔伝えていく〕ことが、いまこそ始まるのである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p319-320

神がなし給うたイエス・キリストの引き渡しこそが、本来的な、実在の引き渡し(言い伝え)である。その引き渡しの中で、神の全能の愛が、人間に、力を発揮しつつ向けられた。この引き渡しの中で、神と人間の間の深淵に橋がかけられた。この引き渡しの中で、神は人間を探し求め、見出し給うた。この引き渡しの中で、人間が神の前に立ち、神と共に生きることができる可能性が造り出された。この引き渡しの中で、その点で人間を妨げていたこと、人間を神の敵として、神との契約から閉め出さなければならなかったことが、取り除かれた。この引き渡しの中で、人間が、その罪からきよめられることによって、神の国にはいる門が開かれ、永遠の生命へのその確かな希望の基礎づけにまできた。この引き渡しの中で、教会は、誰かの人間的な手が、それに対してただ指一本だけでもふれる前に、基礎づけられたし、また基礎づけられている。その引き渡しの中で、神はわれわれのために危険におもむき給うた。なぜといって人間と、神ご自身人間となり、人間としてほかの人たちの間にまじって、彼らのもとでご自分の事柄をなしてゆくという仕方で、人間と、かかわることは、どうして神にとって危険で、迷惑となることでなく、人間の栄誉を脅かすものでないはずがあろうか。この引き渡しの中で、神は、この危険に、事実、屈し、人間としてほかの人間たちによって無力にされ、捨てられ、殺されることを進んで身にうけ給うたのである。しかし、まさにこの引き渡しの中で、神は人間にかかわるそのよき意志を、まさに次のことー神がこの危険に身をさらし、まさにこの危険に屈することの中でこそ、人間のため、その益のため、その救いのため、永遠の生命の希望の基礎づけのために、決定的な一歩をなすことーによって、実行に移し給うた。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p356

しかし、そのことでもって、また、神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間、に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、必要なすべてのことが語られたのである。答えは、ただ次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望ー彼に対して、福音の中で与えられている希望ーをつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。彼は神の前で、捨てられた者としての独立した存在をもっていない。彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者である。すなわち、その棄却の中で、棄却からして、選ばれた捨てられた者ーそのものたちの中にユダが生きていたが、しかしまた、(パウロにおいてそのことが起こったように)殺された、捨てられた者ーである。彼らは捨てられた者ーそのようなものとして、信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者ーである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p372

アイルランド出身のロックバンドU2は、イスカリオテ・ユダである私たちのことを幾つかの歌にしている。

キリスト論と三位一体論について

イエス・キリストは、ナザレのイエスとして処女マリヤの胎内で受胎し、出生した時(クリスマス)に、はじめて存在するようになった方ではありません。永遠のはじめから神とともにおられ、父のふところにおられ、永遠のはじめから父との愛の交わり、聖霊の交わりの中におられる方です。永遠の神の内的生命の中におられるのは、単に永遠なるロゴスではなく、肉となった永遠のロゴス、人間イエスです。このことは教会の教理の中で、三位一体論と呼ばれています。

John 1:1  初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2 この方は、初めに神とともにおられた。 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 6  神から遣わされたヨハネという人が現れた。 7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。 8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。 9  すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 14  ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」 16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

三位一体の神の内部において、イエス・キリストだけを切り離し、父および聖霊との関係をぬきにして考えることはできません。それ故、私たち人間の間でも、人間を他者との関係から切り離して考えたり、男性と女性という関係をぬきにして人間とは何かを考えてはならないのです。

日本近代史に見る教会の分岐点 岩崎孝志著

日本近代史に見る教会の分岐点 岩崎孝志著

しかし、どんなに罪責を隠蔽し、見て見ぬふりをして、美談を並べ立てたとしても、罪は罪である。神の前にも、そして人の前にも隠しおおせるものではない。神は生きておられる。生きて働いて、人の悪をさばかれる。その神の前に私たち罪人がなし得る唯一の意味あることは、その罪を認め、正直に告白して悔い改めることしかない。そして、二度と同じ過ちを犯さぬよう、今度は罪と戦って生きることではないだろうか。悪魔の力に屈して沈黙したかつての失敗を悔い改め、神に立てられた預言者として、教会は声をあげ続けなければならない。・・・「おわりに」より引用

私とバイクその10なかなか思うように治らない辛さが続きます

お祈りありがとうございます。昨年7月にバイクで転倒し、左鎖骨遠位端を骨折してから約7ヶ月が経ちました。昨日は生まれて初めてCT検査を受けました。けれどもCT検査の結果、思ったようには骨がくっついておらず、完治にはまだもう少し時間がかかるようです。なかなか思うように治らない辛さが続きます。チタンプレートが入った筋金入りの状態がまだしばらく続きます。
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チェルノブイリの祈り 未来の物語

チェルノブイリの祈り
ベラルーシの歴史は苦悩の歴史です。苦悩は私たちの避難場所です。信仰です。私たちは苦悩の催眠術にかかっている。しかし、私はほかのことについても聞きたかったのです、人間の命の意味、私たちが地上に存在することの意味についても。訪れては、語り合い、記録しました。この人々は最初に体験したのです。私たちがうすうす気づきはじめたばかりのことを。みんなにとってはまだまだ謎であることを。でも、このことは彼ら自身が語ってくれます。何度もこんな気がしました。私は未来のことを書き記している・・・・。

Shine Jesus Shine 輝け主の栄光 教会福音讃美歌156


愛の光輝き 暗闇を照らし出す
わが主イエス世の光 自由を与える力
いのちのみことば
輝け 主の栄光 地の上に
心を燃やしたまえ
あふれよ 主の恵み 憐れみ
この地を生かしたまえ

人生の海の嵐に 教会福音讃美歌443


人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
ふしぎなる神の手により 命びろいしぬ
いと静けき港に着き われはいま安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し