聖餐礼拝メッセージ「大淫婦へのさばき」

聖餐礼拝メッセージ「大淫婦へのさばき」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録17章1ー18節

また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」黙示録17章1-2節

礼拝メッセージ「国家的悔い改め」

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聖書箇所:ヨナ3章

そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」ヨナ書3章5−9節

恵み深い主から、再びチャンスを与えられた預言者ヨナは、ニネベに行って主のことばを伝えました。そのとき津波のような衝撃が起こり、上記のような、「国家的悔い改め」が起こりました。

イエス・キリストは、以下のようにニネベの人々の悔い改めに太鼓判を押しておられます。

「ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。(マタイ福音書12章41節)」

聖書が語る「悔い改め」とは、向きを変えることです。それは、神に背を向けて生きることを止め、神の方に方向転換をし、神に向かって生きることを意味します。主なる神はあわれみ深い方ですから、向きを変える私たちを、大喜びで迎えてくださいます。

母の日歓迎礼拝メッセージ「腹の中から」

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聖書箇所:ヨナ2章

ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。ヨナ2章1-2節

「この抒情的な中間章が風刺に役立っていることは確かである。ヨナを神の憐れみと救いを明らかに奇蹟的に受けた者に仕立て上げることによって、この挿話はあとで神の救いが他の人々に差し出されたとき、それを拒否したヨナの態度を弁解の余地のない、嫌悪すべきものにして見せるという効果をもっている。

・・・ヨナの口を通して魚の腹のなかから聞こえてくる美しい詩とも呼べる祈りの主題は、神の力による水死からの救いである。物語の代わりに抒情詩が大魚の腹のなかでのヨナの経験を描写するのにもちいられる。この詩の筆は巨匠のそれである。読者は、主人公であるヨナが危険にさらされているあいだ、ずっとヨナの内なる意識の底へと連れて行かれるからである。この章の根底にある大きな枠組は大切な原型である。これは、死=復活の原型の一形式としてよく人に知られている。海底に下降して窒息するのは、明らかに死に似た経験を描き、深海から上昇するという原型的比喩は、下降上昇運動の再生の面を描いている。深い地底での三日間という枠組みも、イエスが認めている(マタイ12章39-40節)ように、一つの原型である。」

リーランド・ライケン『聖書の文学』すぐ書房、
1990年、403-404頁より引用

礼拝メッセージ「痛みと病を負う神 Pain of God」

痛みと病を負う神 Pain of God

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聖書箇所:イザヤ53章4−6節

まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。イザヤ53章4節

イザヤが語る神、イエス・キリストが、「悲しみ」、「痛み」、そして「病」を知っておられる理由。

それはイエス・キリストが、被災地に実際に赴かれた結果、もはや支援者ではなく、被災者になられたからです。

その時私たちは思いました。イエスは罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
私たちは思ったのです。イエスの上に天罰が下ったのだと。

しかしイエス・キリストが受けられた苦難の真相は、今日のみことばに明確に啓示されています。

『まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・しかし、彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼(イエス・キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(イエス・キリスト)に負わせた。』