<ねばならぬ>いのちではなく、<許された>いのち

「生きねばならないと考えているような人は、いのちを根本的には尊敬することができない。自分のいのちも、他人のいのちも。いわんやまだ生まれてこない子どものいのちにいたっては、なおさらのことである。・・・その人に欠けているものは、いのちとは何かということに対する尊敬、また理解である。・・・人間のいのちは、決して<ねばならぬ>いのちではなく、<許された>いのちである。それは自由であり、恵みなのである。・・・憐れみによって生きている人は、それに比例してまた憐れみを用いるようになるであろう。」(教会教義学Ⅲ/4より)

香港2020福音宣言

香港2020福音宣言

第一項 イエス・キリストこそ、福音そのものである。

 イエス・キリストは救い主、王であり、そして福音の土台である(マルコによる福音書1・1)。この福音は、神の国の到来と現臨、また罪と悪の闇の力に対する勝利を宣言し、それによって世界のすべてのものに変革をもたらす。したがって、この福音は、単に死後における個人の魂の救いだけに関するものではなく、御国の到来、世の闇の根絶、悪の権威の打倒に関するものでもある。さらにこの福音は、今ここにある世の命を配慮し、癒し、保護するものであり、また人類の政治的解放と社会的配慮にまでおよぶ、具体的で行動的、かつ全包括的なものである。

第二項 イエス・キリストこそ、教会の唯一の主である。

 教会はキリストの体であり、頭であるキリストに連なり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である(エフェソの信徒への手紙1・23)。したがって、教会は、最終的には、地上のいかなる政治的・経済的支配者や権力者に服従するにもまして、天の御国の王であり救い主であるキリストのみに服従し、忠実でなければならない。教会はこの世のいかなる権力にも依り頼んで存続を図ってはならず、またそれらによって支配されてはならない。特に、経済発展が他のあらゆることよりも優先されてしまいがちな香港社会において、教会は歴史を鑑とし、すべての偶像を拒否しなければならない。教会は、主イエスの「あなたがたは神と富(マモン)とに仕えることはできない」という教えと、「十戒」第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という御言葉を心に刻み、これに生きなければならない。教会はイエス・キリストのほかに救いはないことを、確信するからである。

凍 沢木耕太郎

凍 沢木耕太郎著
凍 沢木耕太郎
この本の解説を池澤夏樹氏が「最も自由なクライマー」と題して書いているが、核心部分を少し引用する。

彼らが確保している自由の中で大事なのは名声からの自由である。つまり名声を求めないこと。そういうものに振り回されないこと。(日本人の自由観には「何々からの自由」というのがない。みんな自由とは何かしたいことを邪魔されずにできることだと思っているが、しかし、したくないことをしない自由もあるのだ。例えば、徴兵制は人を殺さない自由を奪う。)

キリスト者であっても、なかなか「名声からの自由」に生きることは難しいと思う。だからこそ、この本を読む必要を私は感じる。

Jackson Browne – For America 日本語和訳付き

礼拝メッセージ「真理」

礼拝メッセージ「真理」(クリックで聴けます)
聖書箇所:ヨハネ福音書14章1ー11節

1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。ヨハネ福音書14章1−11節

礼拝メッセージ「神の主権」ローマ22

礼拝メッセージ「神の主権」ローマ22(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙9章6ー18節

10 このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。 11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、12 「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。13 「わたしはヤコブを愛し、 エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。14 それでは、どういうことになりますか。 神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。 15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。ローマ人への手紙9章10-18節

1、神は主権を持って人間を選ばれる
2、人間には神に選ばれる条件など何もない
3、救いはあわれんでくださる神による
  人間の願いや努力(行い)によるのではない

礼拝メッセージ「獣の刻印」

礼拝メッセージ「獣の刻印」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録13章1ー18節

それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。黙示録13章15-18節

「買うこと」と「売ること」。この二つの行為は、人間が社会の中で生きていくために必要なことです。もし売買が悪意をもってコントロールされたとすれば、役割分担をしながら生活を営んでいるすべての人が、その影響を受けることになります。

右手か額かに獣の刻印がない者は、スーパーマーケットに行っても、食料品や生活用品でさえ買うことができない社会。電気、ガス、水道さえも利用できない社会。信教の自由がそのような形で剥奪される社会。

黙示録は、そのような大変恐ろしい社会が、やがて訪れることを明確に預言しています。情報化、デジタル化、ネットワーク化、グローバル化が急速に進められている今、その暗雲はさらに近づいています。

礼拝メッセージ「真の自由」

礼拝メッセージ「真の自由」

聖書箇所:出エジプト記20章1ー17節

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。出エジプト20章2-3節

イスラエルは、ただ主なる神のあわれみによって、自由へと解放されました。しかしイスラエルは、神に反逆し続け、ほかの神々と共に歩み続けました。その結果イスラエルは、再び奴隷となり、バビロンやアッシリアに捕囚として強制連行されました。

イスラエル民族は、すべての民族を代表しています。旧約聖書を読み、イスラエルの姿を見るということは、本当の自分を映し出す鏡の前に立たされるということです。イスラエルの歴史が中心的に記されている旧約聖書に、なぜ全世界の人々が真剣に耳を傾ける必要があるのか。その理由がここにあります。

仮に日本民族が神の民として選ばれていたとしても、イスラエルとまったく同じように、神の愛を裏切り続けたことでしょう。救い主として来られた主イエスを拒み、十字架につけて殺したことでしょう。日本の教会の歴史を見るなら、そのことを覚えることが出来ます。

日本の教会にも、真の神だけを神とすることをやめて、天皇と天照大神(太陽)を拝んだ歴史、そしてアジア諸国に神社参拝を強制した歴史があります。与えられた真の自由を失わないために、主イエスの十字架と復活による赦しの宣言をしっかりと聴き、赦された過去を心に刻みましょう。

iTunesのようなポッドキャストの受信ソフトにこのバナーをドラッグ&ドロップすることで、番組を登録できます。詳しくはこちら

礼拝メッセージ「自由への解放」

礼拝メッセージ「自由への解放」

聖書箇所:出エジプト記20章1ー17節

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。出エジプト20章2節

主の祈りに続いて、少しずつ十戒を学びます。まずは上記の、見過ごされやすい大切な部分を、共に心に刻みましょう。ここには、誰に対して十戒が語られているのかが記されています。

十戒は、奴隷の家、エジプトの国から連れ出された人々、つまり救われた人々に対して語られています。ですから十戒を守れば救われるということではありません。今日で言うなら、信仰によって救われたクリスチャンに対して語られている言葉、それが十戒です。十戒は、神によって救われ、自由へと解放された神の民が、本当の自由の中を歩み続けるために、どうしても必要な指針です。

新約聖書には、『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』(ガラテヤ5:1)とありますが、十戒の一つ一つの御言葉こそ、再び奴隷のくびきを負わせられないための明確な指針です。

十戒は、主イエスが一番たいせつな戒めとして教えて下さった命令(マルコ12:28-31)を具体化した、神と隣人を本当に愛するための指針です。

iTunesのようなポッドキャストの受信ソフトにこのバナーをドラッグ&ドロップすることで、番組を登録できます。詳しくはこちら