息子が離乳食を食べ始めています。感謝。
タグ: 聖書
母の日歓迎礼拝メッセージ「腹の中から」
母の日歓迎礼拝メッセージ「腹の中から」(クリックで聴けます)
聖書箇所:ヨナ2章
ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。ヨナ2章1-2節
「この抒情的な中間章が風刺に役立っていることは確かである。ヨナを神の憐れみと救いを明らかに奇蹟的に受けた者に仕立て上げることによって、この挿話はあとで神の救いが他の人々に差し出されたとき、それを拒否したヨナの態度を弁解の余地のない、嫌悪すべきものにして見せるという効果をもっている。
・・・ヨナの口を通して魚の腹のなかから聞こえてくる美しい詩とも呼べる祈りの主題は、神の力による水死からの救いである。物語の代わりに抒情詩が大魚の腹のなかでのヨナの経験を描写するのにもちいられる。この詩の筆は巨匠のそれである。読者は、主人公であるヨナが危険にさらされているあいだ、ずっとヨナの内なる意識の底へと連れて行かれるからである。この章の根底にある大きな枠組は大切な原型である。これは、死=復活の原型の一形式としてよく人に知られている。海底に下降して窒息するのは、明らかに死に似た経験を描き、深海から上昇するという原型的比喩は、下降上昇運動の再生の面を描いている。深い地底での三日間という枠組みも、イエスが認めている(マタイ12章39-40節)ように、一つの原型である。」
リーランド・ライケン『聖書の文学』すぐ書房、
1990年、403-404頁より引用
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礼拝メッセージ「逃亡生活」
聖書箇所:ヨナ1章
アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。ヨナ1章1-3節
「謎めいた「ヨナ書」を風刺作品として読んでもその細部は説明し尽くせないであろうが、ヨナ物語の他のどんな読み方よりも多くの点を解明するであろう。物語作者がやっつけようとする相手の態度を擬人化したものが主人公なのである。つまり、作品の風刺攻撃のおもな手段がヨナ自身なのである。ヨナ物語はおしゃれな風刺と呼べる文学形式に属する。風刺作家は見事な腕前で自分の物語を話し、そのなかに自分の風刺を完全に具現化している。彼は自分の怒りを露骨に示し、腹にあることをすぐ口にするような男ではない。そうする代わりに彼は、物語中にすっかり身を隠す。それとすぐわかる人物として登場することはない。
風刺の攻撃対象は、神をイスラエルの独占物とし、神の恩寵の普遍性を認めようとしない熱心な国粋主義である。ヨナのいちばんの問題点は神学的と言える。つまり、彼は神の普遍的愛という事実を認めようとしない。それゆえヨナ物語は、神を信じながらも、異邦人を神の怒りの対象と見るだけで、異邦人もまた神の救いに値する罪人であるとは考えないイスラエルへの、矯正手段なのである。」
リーランド・ライケン『聖書の文学』すぐ書房、
1990年、401頁より引用
イースター歓迎礼拝メッセージ「勝利者なる神」
イースター歓迎礼拝メッセージ「勝利者なる神」(クリックで聴けます)
聖書箇所:イザヤ53章10−12節
彼(イエス・キリスト)は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。イザヤ53章11節
イエス・キリストは、勝利者です。主イエスが勝利者であるということを、順番に考えてみましょう。
1、死に打ち勝たれた勝利者
私たちのため十字架で死なれたイエス・キリストは、墓に葬られよみにくだられましたが、3日目(日曜日)によみがえられ、今も生きておられます。イエス・キリストは、死に勝利されたのです。主イエスを信じる時、私たちも死に勝利することができます。その時、死は終わりではなく、新しいいのちの始まりとなります。
2、悪魔に打ち勝たれた勝利者
イエス・キリストは、私たちのすべての罪を背負って十字架で死なれ、復活されたことを通して、悪魔に勝利されました。主イエスを信じる時、私たちも悪魔に勝利することができます。
3、罪(虚偽、高慢、怠惰)に打ち勝たれた勝利者
イエス・キリストは、罪(虚偽、高慢、怠惰)に打ち勝って十字架で死なれました。それは私たちのすべての罪を十字架に釘付けにし、葬り去るためでした。主イエスを信じる時、私たちも新しく生まれて、罪に勝利することができます。
Because He Lives 主イエスが生きておられるから
Because He Lives ~ William and Gloria Gaither ~
日本語訳歌詞(1番)
神は人を 愛されて そのひとり子を この世におくり
私たちの 罪のために 十字架につけて くださった
主は今 生きておられる 我が内に おられる
すべては 主の御手にあり 明日も生きよう 主がおられる
英語の歌詞と試訳
God sent His son, they called Him Jesus. He came to love, heal, and forgive.
He lived and died to buy my pardon, An empty grave is there to prove my Savior lives.
神はひとり子を遣わされ、その方はイエスと呼ばれた。愛するため、いやすため、そして赦すために、彼は来られた。彼は生きて死なれた。私の恩赦を買うために。そして空っぽになった墓は、私の救い主が、今も生きておられることを証明している。
Because He lives, I can face tomorrow. Because He lives, All fear is gone.
Because I know He holds the future, And life is worth the living just because He lives.
主イエスが生きておられるから、私は明日に立ち向かえる。主が生きておられるから、すべての恐れは逃げ去る。 主は生きておられ未来を御手の中に握っておられるから、人生は生きるに値する。
How sweet to hold a newborn baby, And feel the pride and joy he gives.
But greater still the calm assurance, This child can face uncertain days because He lives.
新しく生まれた赤ちゃんをだっこすることは、なんと嬉しいことだろうか。彼が与えてくれるプライドと喜びを、私は味わっている。しかしそれよりも素晴らしい静かな心と穏やかな確信。主イエスが生きておられるから、この子も不確かな日々に向かって生きていける。
Because He lives, I can face tomorrow. Because He lives, All fear is gone.
Because I know He holds the future, And life is worth the living just because He lives.
主イエスが生きておられるから、私は明日に立ち向かえる。主が生きておられるから、すべての恐れは逃げ去る。 主は生きておられ未来を御手の中に握っておられるから、人生は生きるに値する。
And then one day I’ll cross the river, I’ll fight life’s final war with pain.
And then as death gives way to victory, I’ll see the lights of glory and I’ll know He lives.
ある日私は、川を向こう岸に向かって横切ることになり、痛みを伴う人生最後の戦いを戦う。そして死が勝利への道を与えるその時、主の栄光を見て、主イエスが生きておられることを知るだろう。
Because He lives, I can face tomorrow. Because He lives, All fear is gone!
Because I know He holds the future, And life is worth the living just because He lives!
主イエスが生きておられるから、私は明日に立ち向かえる。主が生きておられるから、すべての恐れは逃げ去る。主は生きておられ未来を御手の中に握っておられるから、人生は生きるに値する。
2011年のイースター歓迎礼拝のために 杉戸キリスト教会牧師 野町真理
勝利者なる神
2011 イースター歓迎礼拝のご案内
礼拝メッセージ「悪者と共に葬られた神 A grave with the wicked」
礼拝メッセージ「悪者と共に葬られた神 A grave with the wicked」(クリックで聴けます)
聖書箇所:イザヤ53章7−9節
彼(イエス・キリスト)の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。イザヤ53章9節
今年もいよいよ受難週に入りました。聖書に記されているように、無罪のイエス・キリストが、私たちが受けるべき天罰を身代わりに受け、十字架で死なれたのが金曜日でした。それで受難週の金曜日は、「良い金曜日 GOOD FRIDAY」と呼ばれています。
東日本大震災が起こったのは、受難節に入ったばかりの3月11日金曜日14時46分でした。
イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られたのは、金曜日の15時すぎでした(マタイ福音書27章等参照)。あらゆる苦難の中に十字架が立っています。
預言者イザヤは、上記のみことばのように、救い主の墓は悪者どもとともに設けられることを預言しました。しかし福音書には、まだだれも葬られたことのない新しい墓にイエス・キリストは埋葬されたと記録されています(ヨハネ福音書19章等参照)。
実に信仰のスタートラインであるバプテスマ(洗礼)においてこそ、預言者イザヤが預言した神の言葉は出来事になるのです。
「私たち(悪者ども)は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」ローマ書6章4節
礼拝メッセージ「痛みと病を負う神 Pain of God」
礼拝メッセージ「痛みと病を負う神 Pain of God」(クリックで聴けます)
聖書箇所:イザヤ53章4−6節
まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。イザヤ53章4節
イザヤが語る神、イエス・キリストが、「悲しみ」、「痛み」、そして「病」を知っておられる理由。
それはイエス・キリストが、被災地に実際に赴かれた結果、もはや支援者ではなく、被災者になられたからです。
その時私たちは思いました。イエスは罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
私たちは思ったのです。イエスの上に天罰が下ったのだと。
しかしイエス・キリストが受けられた苦難の真相は、今日のみことばに明確に啓示されています。
『まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・しかし、彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼(イエス・キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(イエス・キリスト)に負わせた。』