キリエ KYRIE 宗教詩集よりクリスマスの歌

キリエ KYRIE 宗教詩集
ヨッヘン・クレッパー 著
富田恵美子・ドロテア 富田裕 訳
キリエ宗教詩集 ヨッヘン・クレッパー
p46-49より

クリスマスの歌

やめなさい、あなたの罪と弱さの中で
あなたが何者かを見つめるのは。
あなたの弁護のために来られた
御子に目をとめなさい、
見なさい、今日あなたの身に起こることを。
今日救い主があなたを訪れ、
あなたを再び故郷へ導いていく、
鷲のように力強い翼に乗せて。
自ら己のものを奪い去る
罪人である自分の貧しいさまを見つめるのは、やめなさい。
助け主イエス・キリストを見上げなさい。
御子のことばにひたすら依り頼みなさい。
御子の慈しみのほかは何ものも助けをもたらさず、
御子こそがあなたを救うために来られると信じるなら、
いかに大きな罪であれ、あなたは忘れてかまわないのだ。
あなたが信じなくとも、御子は誠実を保ち、
宣べ伝えたことを変わらず守られる。
御子は自ら造られたものとなって
災いの只中にいるあなたを探し出し、
新たに創造する。
御子は自らに背くことはないから、
御子を見なさい、いつまでもあなたの罪を見ていてはならない。
御子は自ら堅く約束した。
御子は探し求め、あなたは見出される。
あなたが誰であれ、もう自分をみつめてはならない。
あなたはあなた自身からすでに解き放たれた。
神自らが来られた、
これを知ること以上に、今あなたに必要なものはない。
御子の名は不思議な助言者、力の君、永遠の平和をもたらす主。
あなたの罪を見つめる眼差しから
御子自らがあなたを解き放たれる。
御子の産着がどんなに粗末でも、
たゆまず望みなさい。
なおも神の子、人の子が
それに包まれているのだから。
ここであなたを解き放とうと、御子は待ち焦がれている。
御子の耳に届く叫びがいかに底知れぬ罪のものであっても、
御子はそれをもう帳消しにされた。
嘆くのは、やめなさい。むしろ讃えなさい。

父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て

父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て

「主は愛する者を懲らしめる」とあるように、父の真実な愛は子どもの幸せを願い、「懲らしめ」を与える。懲らしめを与えることには精神的苦痛が伴う。懲らしめを与える者は愛されず、憎まれる。懲らしめを与えることで、築いてきた関係が一時的に損なわれることがある。しかし、父の愛は子どもの将来を見据えている。今、子どもに喜ばれることよりも、将来、いつの日にか感謝されることを選び取る。父なる神の愛が、その模範である。神が私たちの人生に試練を許されるのも、同じ愛からである。p48

人生の分岐点

分岐点
写真は東武鉄道東武動物公園駅から下り方面に伸びる線路です。右側は伊勢崎線、左側は日光線です。
日光線は、杉戸高野台、幸手、南栗橋、栗橋、新古河、柳生、板倉東洋大前、藤岡、静和、新太平下、栃木、そして新栃木へと向かいます。新栃木からは宇都宮線も出ています。下今市からは鬼怒川線も出ています。
伊勢崎線は、和戸、久喜、鷲宮、花崎、加須、南羽生、羽生、川俣、茂林寺前、そして館林へと向かいます。館林からは小泉線と佐野線も出ています。太田からは桐生線も出ています。
tobu railway map
人生にも、鉄道路線と同じように、至る所に分岐点があります。
どこの幼稚園・保育園に行くか。どこの小学校に行くか。どこの中学校に行くか。どこの高校に行くか。どこの大学、短大、専門学校に行くか。どこに就職するのか。誰と結婚するのか。どこに住むのか。転職するのかしないのか。退職後はどうするのか。などなど。
けれども、人生において最も大切な分岐点は、「どのような信仰の道を歩むのか」ということではないでしょうか。それにおいて死の向こうの永遠を過ごす終着駅が変わってしまうからです。
私は20歳の時、キリスト信仰の道、キリスト教会へと導かれ、もう45歳になりました。信仰の分岐点でこの道へと導かれていなければ、私は今も死へと急ぎ、永遠の滅びに向かって暴走していたことでしょう。今あるはただ主イエス・キリストの恵みです。感謝。
杉戸キリスト教会牧師 野町真理

U2の歌「SONG FOR SOMEONE」の意訳

U2の歌「SONG FOR SOMEONE」の意訳
You got a face not spoiled by beauty
I have some scars from where I’ve been
イエス様、あなたは美しさでだめになってない顔を持っておられ、
僕はこれまでほんと大変なことだらけで、深い傷を負っていた。
You’ve got eyes that can see right through me
You’re not afraid of anything they’ve seen
あなたは僕の本当の姿を見抜くことができる目を持っておられ、
あなたは恐れないで僕のすべてを受け止めてくれた。
I was told that I would feel nothing the first time
I don’t know how these cuts heal
But in you I found a rhyme
最初は何も感じないでしょうと言われ、
どのように癒されるのかわからなかった。
だけど、僕はあなたの中に歌を見つけたんだ。
If there is a light you can’t always see
And there is a world we can’t always be
もし光があるなら、それはいつも見えるわけじゃない。
それでも神の国という霊的な世界が存在する。僕らはいつもそちら側にいることはできないが。
If there is a dark that we shouldn’t doubt
And there is a light, don’t let it go out
もし僕らが疑うべきでない闇があるとしても、
それでも光はやみの中に輝いている。だからその光を消しちゃいけない。
And this is a song, song for someone
This is a song, a song for someone
この歌は誰かのための歌。
この歌は、誰かのための歌。
You let me in to a conversation
A conversation only we could make
イエス様、あなたは僕を会話に招いてくださる。
僕らだけができる会話の中に。
You break and enter my imagination
Whatever’s in there it’s yours to take
あなたは僕の空想の中に割って入られる。
だから僕の中に何があろうと、どう受け止めるかはあなた次第。
I was told I’d feel nothing the first time
You were slow to heal but this could be the night
最初は何も感じないでしょうと言われた。
でもあなたはゆっくりと癒された。時間がかかったのは夜の闇が深かったからでしょう。
If there is a light you can’t always see
And there is a world we can’t always be
もし光があるなら、それはいつも見えるわけじゃない。
それでも神の国という霊的な世界が存在する。僕らはいつもそちら側にいることはできないが。
If there is a dark within and without
And there is a light, don’t let it go out
闇が心の内にも外にも存在したとしても、
それでも光はやみの中に輝いている。だからその光を消しちゃいけない。
And this is a song, song for someone
This is a song, a song for someone
この歌は誰かのための歌。
この歌は、誰かのための歌。
And I’m a long long way from your Hill of Calvary
And I’m a long way from where I was and where I need to be
そして僕は長い長い道の途上にある。イエス様、あなたが十字架にかけられたカルバリの丘からの道に。
僕は長い旅の途上にある。かつていた場所、僕がいなければならなかったあの場所からの道に。
If there is a light you can’t always see
And there is a world we can’t always be
もし光があるなら、それはいつも見えるわけじゃない。
それでも神の国という霊的な世界が存在する。僕らはいつもそちら側にいることはできないが。
If there is a kiss I stole from your mouth
And there is a light, don’t let it go out
もし口づけがあるなら、僕があなたから奪った裏切りの口づけ。あのイスカリオテ・ユダのように。
それでも光はやみの中に輝いている。その光を消しちゃいけない。

先行する引き渡しと使徒的引き渡し

主イエスに対して、高価なものを捧げるのはもったいないと思う人がいるなら、
その人はやがて、主イエスを売り渡すことになるでしょう。
イスカリオテ・ユダに代表される12使徒たちがそうであったように、
主イエスはあなたにとって売り物となるでしょう。
イスカリオテのユダ
カール・バルト教会教義学神論Ⅱ/2 神の恵みの選び<下>

いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。われわれは、ここで明らかに、すべてのそのほかの引き渡しに対して、威厳、重要さ、意味深さにおいて、先行する引き渡しとかかわらなければならない。ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8・32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡しーその中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡しーの中に基礎づけられている。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p338-339

パウロは、正確に、ユダが、その後悔によれば、逆転させたいと思い、また既に起こったことを撤回させたいと願ったそのところで、業を継続する。ーすなわち、ユダが気も転倒せんばかりに恐れたことであるが、大祭司と長老たちが、あの悪い系列の中の第二の輪としてなしたことをなすことによって、継続する。換言すれば、パウロは、まさに異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。しかも、イスラエルの召命と派遣に対する不真実をもってではなく、それらに対する真実をもって、もはやイエスを殺すためではなく、むしろ、この殺されたが、しかしまた甦らされた方の支配を全世界にわたってうち立てるために、異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。そのようなわけで、ユダが、使徒職の任命と樹立を無にしてしまうなどということは全くなかったのであり、十二使徒の円は、ただ単にすぐに再び塞がれるだけでなく、むしろそのことを越えて、この定員外の人物の中で、マタイ28・19の意味で、まことの使徒行伝が、すなわち、イエスを異邦人に正しく引き渡す〔伝えていく〕ことが、いまこそ始まるのである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p319-320

神がなし給うたイエス・キリストの引き渡しこそが、本来的な、実在の引き渡し(言い伝え)である。その引き渡しの中で、神の全能の愛が、人間に、力を発揮しつつ向けられた。この引き渡しの中で、神と人間の間の深淵に橋がかけられた。この引き渡しの中で、神は人間を探し求め、見出し給うた。この引き渡しの中で、人間が神の前に立ち、神と共に生きることができる可能性が造り出された。この引き渡しの中で、その点で人間を妨げていたこと、人間を神の敵として、神との契約から閉め出さなければならなかったことが、取り除かれた。この引き渡しの中で、人間が、その罪からきよめられることによって、神の国にはいる門が開かれ、永遠の生命へのその確かな希望の基礎づけにまできた。この引き渡しの中で、教会は、誰かの人間的な手が、それに対してただ指一本だけでもふれる前に、基礎づけられたし、また基礎づけられている。その引き渡しの中で、神はわれわれのために危険におもむき給うた。なぜといって人間と、神ご自身人間となり、人間としてほかの人たちの間にまじって、彼らのもとでご自分の事柄をなしてゆくという仕方で、人間と、かかわることは、どうして神にとって危険で、迷惑となることでなく、人間の栄誉を脅かすものでないはずがあろうか。この引き渡しの中で、神は、この危険に、事実、屈し、人間としてほかの人間たちによって無力にされ、捨てられ、殺されることを進んで身にうけ給うたのである。しかし、まさにこの引き渡しの中で、神は人間にかかわるそのよき意志を、まさに次のことー神がこの危険に身をさらし、まさにこの危険に屈することの中でこそ、人間のため、その益のため、その救いのため、永遠の生命の希望の基礎づけのために、決定的な一歩をなすことーによって、実行に移し給うた。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p356

しかし、そのことでもって、また、神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間、に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、必要なすべてのことが語られたのである。答えは、ただ次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望ー彼に対して、福音の中で与えられている希望ーをつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。彼は神の前で、捨てられた者としての独立した存在をもっていない。彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者である。すなわち、その棄却の中で、棄却からして、選ばれた捨てられた者ーそのものたちの中にユダが生きていたが、しかしまた、(パウロにおいてそのことが起こったように)殺された、捨てられた者ーである。彼らは捨てられた者ーそのようなものとして、信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者ーである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p372

アイルランド出身のロックバンドU2は、イスカリオテ・ユダである私たちのことを幾つかの歌にしている。

キリスト論と三位一体論について

イエス・キリストは、ナザレのイエスとして処女マリヤの胎内で受胎し、出生した時(クリスマス)に、はじめて存在するようになった方ではありません。永遠のはじめから神とともにおられ、父のふところにおられ、永遠のはじめから父との愛の交わり、聖霊の交わりの中におられる方です。永遠の神の内的生命の中におられるのは、単に永遠なるロゴスではなく、肉となった永遠のロゴス、人間イエスです。このことは教会の教理の中で、三位一体論と呼ばれています。

John 1:1  初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2 この方は、初めに神とともにおられた。 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 6  神から遣わされたヨハネという人が現れた。 7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。 8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。 9  すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 14  ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」 16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

三位一体の神の内部において、イエス・キリストだけを切り離し、父および聖霊との関係をぬきにして考えることはできません。それ故、私たち人間の間でも、人間を他者との関係から切り離して考えたり、男性と女性という関係をぬきにして人間とは何かを考えてはならないのです。

ペット、動物、鳥、生き物は天国に行けるのか?

ペット、動物、鳥、生き物は天国に行けるのか?
登山する犬
家族と同じように、時に家族以上に寄り添っていっしょに生きている「わんちゃん」や「ねこちゃん」やペット。動物、鳥、生き物は天国に行けるのかを一緒に考えてみましょう。ポイントになるいくつかの聖書箇所を記します。
1、ノアの箱舟(救いの箱舟)の中に招かれたすべての動物や生き物たち(創世記6章18ー21節)
しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。また、すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」
Do not disturb
TOBU ZOO giraffe きりん
東武動物公園 TOBU ZOO
TOBU ZOO rhinoceros
  
2、ヨナ書の最後に記されている主なる神のことば
まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。ヨナ4章11節
3、イザヤ書11章6−9節と65章25節
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。 イザヤ書11章6−9節
狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と【主】は仰せられる。イザヤ書65章25節
4、ローマ書8章19−22節 被造物の救い
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。ローマ書8章19−22節
見つめられて
5、文脈から探る伝道者の書3章21節の意味
だれが知っているだろうか。人の子ら(=正しい人)の霊は上に上り、獣(=悪者)の霊は地の下に降りて行くのを。
6、文脈から探る黙示録22章15節の意味
犬ども(=以下のような悪者)、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
NEKO BUS
カメレオンねこ

愛し合いでも愛冷めて不倫へと、元の鞘だよ両成敗なら

「ゲスの極み乙女」の川谷絵音氏とベッキー氏の不倫ニュースで、またとても悲しい気持ちになっている。特に川谷氏の奥様の立場と気持ちを考えると、本当にやるせない。そして次のような歌が浮かんだ。「愛し合い でも愛冷めて 不倫へと 元の鞘だよ 両成敗なら」。
まるで結婚が、うまくいかなかったらすぐにリセット(卒業)できるゲーム感覚だ。相手さえ変えれば、自分は変わらなくても幸せになれるというオトナチックなイリュージョンの中で、一緒に支え合って生きてきた大切な伴侶を裏切り、別の誰かと新しい歩みをスタートさせるために離婚を試みる。でもまた問題が生じたら、またしてもそこから逃げ出し、すべてを放棄してしまう可能性は高い。
結婚は、デザイナーでありメーカーである神がデザインしてくださった特別な研磨機で、結婚した夫婦は、研磨機に入れられた2つの原石のようだと私はイメージしている。お互いに宝石だけれども原石のままで荒削り。そのような二人が一つ屋根の下に一緒に生活し始めると、たちまちささいなことでぶつかり合う。ガチンコの衝突を繰り返し、やりあい、傷つけ合う。でもそのプロセスの中で、あやまり合い、赦し合い、補い合い、支え合い、お互いに磨かれていくのだ。宝石だって磨かなければ光らない。だから、置かれた場所から逃げ出さないで、そこに留まり続ける必要がある。磨かれないまますぐリセット(卒業)していたら、いつまでたっても未熟なままで、自分の幸せしか考えることができない、本当のゲスの極みになりかねない。