祈りによる力 POWER THROUGH PRAYER by E. M. BOUNDS

祈りによる力

祈りによる力 POWER THROUGH PRAYER by E. M. BOUNDS
E. M. バウンズ著 羽鳥純二訳 いのちのことば社 より

教会は、もっとよい方法はないかと求めていますが、神はさらにすぐれた人を求めておられます。p6

「手早く祈りをすましてしまうことによって、信仰は弱まり、罪を感じることが鈍くなり、敬虔さはいかがわしいものになってしまいます。神とともに過ごすことが少ないならば、神のために少ししか役にたたなくなってしまいます。祈りを短く切り上げてしまうことによって、すべての信仰的な性格が小さくけちくさく、そしてだらしないものとなってしまうのです。」p115

もし、自分の牧師のことに不満ばかり言いつづけているクリスチャンが、人まえでそんなことを言うのをやめて、神の前でその牧師のために全力を尽くして祈ってさえいたならーへりくだった熱心な絶え間ない祈りによって、いわば天の御国を激しく攻めたてていさえしていたらーその牧師たちはもっともっと成功していたことでしょう。ージョナサン・エドワーズ p105

説教者は祈らなければならず、また人々は説教者のために祈らなければならないのです。説教者がその恐るべき責任を果たすために、またその重大な働きにおいて最大のそして最も真実な成功を得るために、彼はあらんかぎりの力をふりしぼって祈らなければなりませんし、また彼のためにあらんかぎりの力で祈らなければならないのです。ほんとうの説教者は、まず第一に自分自身で祈りの精神を養い育て、また実際に祈ることを学んでいくものです。しかし、次に神の民である人々の祈りを心からせつに求めています。p106

祈らない信徒は、信徒の中で実にみじめであって、そういう人は、聖徒としての熱心さも美しさも力も持っていないのです。いったいだれがこの破壊の傷口をなおすのでしょう。教会を祈るようにできる人こそ、最大の改革者であり、使徒でありましょう。個人また教会の生涯に、新時代を画するほどの霊的革命を起こしうるような、根源的で意欲的な祈り・信仰・生涯・奉仕をもたらす、力強い信仰と汚れのないきよさと著しい活力と燃えるような熱心を備えている人こそ、現代の、またあらゆる時代の教会が大いに必要としている人たちなのだということが、私たちが真剣に考えた末の判断です。p121

主日礼拝(日曜礼拝)に関するお知らせ

礼拝のご案内

主日礼拝(日曜礼拝)に関するお知らせ

愛する皆様へ

いつもありがとうございます。杉戸キリスト教会牧師の野町です。

新型コロナウイルス感染症の広がりの中、これまで様々なことを配慮し、主日礼拝だけは集まり続けたいと願い、日々祈って参りました。けれども、私を含めて、共に集うことへの不安や恐れを覚えておられる方々が増えていることを深慮し、4月12日からしばらく、主日礼拝のために集まることを控えることにいたしました。

教会のホームページにて、日曜午前10時半から動画と音声で礼拝メッセージを配信致します。それぞれ生活の場において、礼拝を捧げてください。なお、祈祷会などは、有志でと考えています。献金は、郵便振替をご利用ください(00110-3-177729 杉戸キリスト教会)。

キリスト教会にとって、集まること、一緒に礼拝すること、一緒に祈り賛美すること、一緒に食事することは、教会そのものです。コロナウイルスの脅威が取り除かれ、再び皆様と、喜びのうちに共に集うことができる日が、1日も早く来ますようにと切に祈りつつ。

2020年 4月17日
野町 真理

なぜ杉戸キリスト教会は、2020年4月12日から、集まる礼拝を一時的に止めたのか?

理由1、弱さを覚えている隣人を、自分にしてもらいたいように愛するため
この状況で集まる礼拝を続け、そこに大切な未信者の方々を喜んでお招きできるのか?
無自覚・無症状の人が感染を広げる怖さ、自分自身が保菌者である可能性が高い怖さ
礼拝出席者に高齢者や持病持ちの方が多い怖さ
教会員の背後におられる家族、学校、職場(高齢者施設等含む)、地域の方々のために
信仰の強い人が信仰の弱い人を裁く怖さ
(3度主を裏切る前のペテロと主のとりなし。ルカ福音書22章31ー34節参照)

理由2、教会の礼拝式が集団感染の場(クラスター)にならないため
もし教会がクラスターになったら、福音宣教の前進になるのか?
無理心中や集団自殺をするカルト集団と見られる可能性は?
集まる礼拝を持つと、社会的距離(ソーシャル・ディスタンス)を保つことが困難
(近距離でマスクなしの長時間会話などを避けるのは、現実的には非常に難しい)
マスクやアルコール消毒液が入手困難な状況が続いている。受付の消毒液は残りわずか
短距離走ではなくマラソンに例えられる長期戦

★プロセス:時間をかけて祈りつつ、段階的に役員会で決めたこと。
 3月 1日(日)役員会で以下のことを決定し、役員会報告に掲載。
「教会で感染者が出た時、杉戸宮代で感染者が出た時や、他に礼拝中止などの措置が必要と認めた場合は、牧師が幾人かと相談の上、指示を連絡網で知らせる。緊急時は牧師に一任。」
 3月22日(日)臨時役員会でも上記のことを再度確認し、役員会報告に再度掲載。
 3月29日(日)及び4月5日(日)は以下のアナウンスを事前に連絡網で回して礼拝を行う。
  礼拝に参加される方へ 新型コロナウイルス感染症を覚えて
 4月 5日(日)役員会で審議し、杉戸、宮代で発生したらオンライン礼拝礼拝も考える。
 4月 7日(火)夜に埼玉県にも緊急事態宣言が出される。5月6日までの予定。
 4月 8日(水)役員全員に打診する。
 4月 9日(木)朝に全員から了承の返事をいただく。午前に教会ホームページに掲載し、教会員や来会者に連絡網を回す。夜に杉戸町から2名の感染者、幸手市から1名の感染者が出たことを知る。
 4月12日(日)最初のオンライン礼拝を行う。当日朝に収録した動画と音声を通常の礼拝時間の午前10時半にホームページで配信する。

新型コロナウイルス感染症に関する資料2020

閉塞感からの脱却 日本宣教神学 山口勝政

それゆえ神は神の国の不思議な業をなすためにあえて地方の弱小教会を選ばれたのである。p44

地方伝道は霊性の集約である。いわば霊性のテストでもあるのだ。p50

閉塞感からの脱却 日本宣教神学 山口勝政

使徒的共同体 芳賀力

使徒的共同体 芳賀力

1、悔い改めと赦しの神的制度
 教会共同体は、悔い改めのない、また赦しのない社会の中で、真実に悔い改める機会と場所を提供し、罪の赦しを伝達する制度として、神によって建てられている。

2、慰めと癒しの神的制度
 教会共同体は、安易な慰めと手軽な癒ししかなく、本当は慰めも癒しも存在しない社会の中で、真実の慰めをもたらし、魂の霊的癒しを与える制度として、神によって建てられている。

3、文脈創出(啓示的語り)の神的制度
 教会共同体は、文脈を喪失し、断片化した小さな物語群によって翻弄される社会の中で、文脈としての大きな物語(グランド・ストーリー)を提供し、善き生についてのヴィジョンを提示して、生きる望みと力を創出する制度として、神によって建てられている。

4、美徳育成の神的制度
 教会共同体は、美徳なき時代に聖書的美徳に生きることを喜んで選び取り、聖書的な神の属性に対応する聖書の民の特性を育成する制度として、神によって建てられている。

5、公同礼拝(祈りと讃美)の神的制度
 そして何よりも教会共同体は、もろもろの民の中より呼び集められ、まことの神を讃美し、共に御名を崇める公の制度として、神によって建てられている。
p88-91

慰めの共同体・教会 クリスティアン・メラー

慰めの共同体・教会 クリスティアン・メラー

今日は、何が何でも若者を崇め奉っているような時代であるが、そのような時代にあっても、高齢者たちに目も留めず、教会堂を埋めているのは、「ほんの僅かな年寄り」ばかりだという言葉でしか、自分の不満を言い表すことができないような人間には、真実の意味で、若者を大切にする姿勢も見られないのである。若い人びとが日常の家庭生活から知っているのは、自分たちの問題が、自分の立場の弁護ばかりしている父親たちよりも、自分の生活をよく考え続けている祖父たちによって、よく理解されているということなのである。このような「社会の支え手である世代」を飛び越えて、孫たちと祖父母たちの間に架けられている、このまことに不思議な橋が、キリスト者の共同体全体が、それによって生かされる財産であることが、既に十分に認識されているであろうか。あるアフリカの賛美の歌において語られているのは、まさにこの財産に関わる祝福にほかならないのである。

私のよろめく足
萎えた手に
理解を示してくれる人びとは、祝福されています
私の耳が苦労しないと
ひとが語りかける言葉を聴き取ることができないことを
よくわかってくれる人びとは、祝福されています
私の目がかすみ
ゆっくりでなければ考えることができなくなっているのを
わかってくれる人びとは、祝福されます
親しい微笑を交わし
しばらくのおしゃべりを楽しんでくれる人びとは、祝福されます
「今日、そのことを二度も口になさいましたよ」と
決して言うまいとしてくれている人びとは、祝福されます
私のこころのうちに、遠い昔の思い出を呼び覚ますすべを
心得ている人びとは、祝福されます
私が愛されており、尊敬されており、ひとりぼっちではないことを
経験させてくださる人びとは、祝福されます
私になお残されている日々を
その優しさで、軽やかな者にしてくれる人びとは
祝福されます
p316-318

ワンピース名言メモ

世界累計4億4千万部突破!杉戸キリスト教会一階の図書室に、ワンピース(ONE PIECE)1巻から90巻(最新刊)まであります。どなたでもお立ち寄りください。

アマゾンプライムでシーズン1は無料で見れます。
http://amzn.asia/d/bOzOZf1

ONE PIECE 90 世界累計4億4千万部突破!

ONE PIECE 1

ワンピース名言メモ(更新中)

ノジコ!ナミ!誰にも負けるな!女の子だって強くなくちゃいけない!何があっても、生まれてきたこの時代を憎まないで!人に褒められなくたって構わない!いつでも笑ってられる強さを忘れないで。生き抜けば必ず楽しいことが・・・たくさん起こるから・・・!
巻九 第79話「生きる」より ベルメールの言葉

「おれは剣術を使えねぇんだコノヤロー!航海術も持ってねぇし!料理も作れねぇし!ウソもつけねぇ!おれは助けてもらわねぇと生きていけねぇ自信がある!」
巻十 第90話「何ができる」よりモンキー・D・ルフィーの言葉

己の行動に罪を感じた時、人は最も弱くなる。
巻二十七 第255話「うわばみと探索組」より ガン・フォールの言葉

傷つけるのはお前じゃねぇだろ?政府の人間もお前の存在を罪というが、どんな凶器をかかえてようとも、そこにいるだけで罪になるなんて事はねぇ!存在することは罪にならねぇ!!!
巻三十九 第375話「エニエス・ロビーの超人達」より フランキーの言葉

あなた達の生きる未来を、私達が諦めるわけにはいかない!
巻四十一 第396話「サウロ」より ニコ・オルビアの言葉

”歴史”は・・・人の財産。あなた達がこれから生きる未来をきっと照らしてくれる。だけど過去から受け取った歴史は、次の時代へ引き渡さなくちゃ消えていくの。
巻四十一 第396話「サウロ」より ニコ・オルビアの言葉

よく聞けロビン・・・。今は一人だけどもよ、いつか必ず”仲間”に会えるでよ!海は広いんだで・・・いつか必ず!!!お前を守ってくれる”仲間”が現れる!この世に生まれて一人ぼっちなんて事は絶対にないんだで!!!
巻四十一 第397話「未来へ届くように」より ハグワールの言葉

ごめんね。ーもっとみんなを遠くまで運んであげたかった・・・ごめんね。ずっと一緒に冒険したかった・・・だけどぼくは、だけどぼくは、幸せだった。今まで大切にしてくれてどうもありがとう。ぼくは本当に幸せだった。
巻四十四 第430話「降りそそぐ追想の淡雪」より ゴーイング・メリー号の言葉

船長が”威厳”を失った一味は必ず崩壊する!!!
巻四十五 第438話「プライド」より ロロノア・ゾロの言葉

災難ってモンはたたみかけるのが世の常だ。言い訳したらどなたか助けてくれんのか?死んだらおれはただそこまでの男・・・!
巻五十 第484話「ぷに」より ロロノア・ゾロの言葉

能力や技じゃない。ーその場にいる者達を次々に自分の味方につける。この海において、あの男は最も恐るべき力を持っている・・・!
巻五十七 第561話「ルフィVSミホーク」より ジュラキュール・ミホークの言葉

今は辛かろうがルフィー・・・!それらを押し殺せ!失った物ばかり数えるな!無いものは無い!確認せい!お前にまだ、残っておるものは何じゃ!!!
巻六十 第590話「弟よ」より ジンベイの言葉

ONE PIECE STRONG WORDS

杉戸キリスト教会地図2016

万引き家族と神の家族

井上貴詞先生

井上貴詞先生(東京基督教大学国際キリスト教福祉学科准教授)の講演「神の家族の新たな『かたち』を求めて」を月曜日に聴いた後、気になっていた映画「万引き家族」をどうしても観なければという思いになり、火曜日に観て来ました。

「万引き家族」は、結婚関係にない大人たちと血のつながりのない子どもたちが、生きていくために互いを必要とし、一緒に集まり、本当の家族のように毎日共に生きるという映画です。一緒に住んでいる家族に捨てられたおばあちゃんの年金をあてにしながら、日雇い労働者の大人と親に捨てられた子どもが協力して万引きをし、何とか食いつないでいます。それでも、血のつながりのある家族から虐待され、寒い中ベランダでお腹を空かして凍えている女の子を見た時、見て見ぬ振りができず、思わず一緒に連れて帰り、アイロンで焼かれた火傷の痛みを共有する優しい家族です。

全体を通して、「血のつながりのある家族が、果たして本当の家族になっているのか?」「血のつながりのある家族の元に帰れば、本当に幸せに暮らせるのか?」という真剣な問いかけがなされていました。この映画が世界に認められたということは、世界中で血のつながりのある家族が崩壊しているということでしょう。DV、虐待、遺棄、ネグレクトなどによって。そして、何とかその日を生き抜くために、血のつながりはないけど共に生活しながら、本当の家族を切に求めている人々が多くいることでしょう。講演で聴いた真剣な問いかけ、「世界中の人々が必死になって、本物の家族や人間の尊厳を切に求めているのに、教会は神の家族に本当になっているのか?その必要に応えているのか?」が、改めて重く響きます。

子どもに対する優しい一声が、すべてを変え始める

万引き家族に転機となった出来事がある。駄菓子屋のおじさんが、万引きをして立ち去ろうとする子どもに声をかけ、商品をプレゼントしながら、「妹にはさせるなよ。」とお兄ちゃん役の子どもに優しい声をかける場面だ。それまで見て見ぬ振りをしていた店のおじさんの、子どもに対する優しい一声が、すべてを変え始める。

その後、父親役が駐車してある車のガラスを割って、中のものを盗もうとした時、その子は幼く尋ねる。「これは店に並べてあるものじゃないから、誰かのものだよね。」そして一緒に犯罪を続けることから距離を置こうとする。「店に並べてあるものはまだ誰のものでもない。だから万引きすることは悪いことではない。」と父親役に教えられ、万引き常習犯として生きていた少年の方向転換が始まった。

その後、妹を外で待たせ、自分だけ店に入って万引きをしようとした時、妹が店に入ってきてまた万引きをしようとする。恐らくその時、「妹にはさせるなよ。」というあの優しい言葉が少年の心に響いたのだ。そして「こんなことしてちゃダメだ!」と心の中で叫んだのだろう。だからその時、妹をかばうように、わざと商品を落として店員の注意を引きながら、商品を持って逃げるという行動に出た。わざと捕まることで、少年は終止符を打ちたかったのだ。子どもに対する優しい一声が、すべてを変え始める。

福祉が教会に近づいている

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の第13章より

牧師 その神学と実践

1、教会の奉仕(仕事)には終わりがない
 小学校の教師と一緒に仕事をしているある人物にインタビューをしたことことがある。「良き教師は、刈り取る者であるよりも、種蒔く者であることに満足しなければならない」と、彼は言った。「教師は自分の努力が、即座に、明確に、そして具体的に成果を上げるのを見ようと思ってはならない。もしそうした努力が生徒に何らかの影響を与えるとしたら、それは彼らのその後の人生においてであって、生徒たちが学校を去ってからずいぶんたった後のことなのだ。」牧師の働きにもこれと同じことが言える。パウロが記しているように、彼が植え、誰かが水を注ぎ、そしてまた、別な誰かがその収穫にあずかることになるのだが、いずれにしても成長させてくださるのは神なのである(1コリント3:6)。

2、教会が明確な「良い牧師像」を共有していない
 ひとりひとりの教会員の思い描く「良い牧師像」が漠然としており、彼らが牧師の果たすべきことがらとして期待するものがあまりにも多岐にわたりばらばらであるために、あわれにも、教会員に十分な仕事を果たしていないと感じる牧師があまりにも多く存在する。

3、教会は、非常に困窮している人々の港であり、避難所である
 よく言われるように、教会は「病人にとっての病院」のような存在である。病気のせいで痛みを抱えている人々は、往々にして気難しく、また要求過多になることがある。こうした人々は、空虚さや混乱、困窮、そして期待を抱えながら、教会にやって来る。多くの場合、人間は傷ついているときに敵対的な姿勢を示すことがある。一方では助けが欲しいと感じているにもかかわらず、助けを拒み、かえって、助けようとしている人に向かって非難を浴びせることすらある。もし教会がこうした仕事を引き受けようとするなら、おそらく教会の中には、他のいろいろな施設よりも高い割合で、このような傷つき困窮した人々が存在することになるだろう。

4、牧師はペルソナのもとで多くの時間を過ごさなければならない(仮面の道化師の心理)
 ペルソナ(仮面)は、必ずしも演技でもなければ、欺瞞的なゼスチャーということでもない。それは、私たちの中のある部分を隠すことによって、自分自身を守る手段である。それは、私たちが自分の責任を果たすために世の中に出て行くときの職業上の顔なのだ。牧師がジェームズ・スミス氏のところに行ってお悔やみを言い、そのケアをするとき、それは決して彼を欺いているわけではない。そうしたとき、牧師は悲嘆にくれている人間に対して牧師としての心遣いを示すという、より大きな善を行うために、自分の個人的感情を脇においているだけなのである。

 けれどもペルソナがうまく機能しないときもある。牧師の役割から離れる機会を拒む牧師はひじょうに多い。そうした人々はつねに牧師であろうとする。彼らは、マスクをはずし、足を投げ出して休むような時を、片時も持たない。・・・このマスクをつけっぱなしにして、あまりに多くのエネルギーを使いすぎると、すなわち、牧師という役を降りてマスクをはずし、自分自身の姿に戻る機会が失われてしまうと、本当の自己と私たちが演じている役割との間に根本的な分離が生じることになる。

5、困難な状況のストレスで、疲労困憊する
 「あなたは外科医に何を期待しますか」と、彼女は答えた。「私たちのする仕事の90パーセントは、ただ患者のそばに立って、自然の成り行きによって状態が好転するか、それともまったくの機能不全に陥るかを見守っているだけなのです。重い脳の障害や損傷に対して、実際に対処できることはほとんどありません。無力なまま、どうすることもできずに、何日間もそばに立ったまま、その人の寿命が尽きるのを見ているだけです。それが、私たちがその人にしてあげれることなのです。」

 教会の牧師もまた、人々が死んでいくのを、彼らの結婚が失敗に終わるのを、彼らの癌が治らないのを、彼らの情熱が衰えていくのを、そして、彼らの以前からの自殺願望がふたたび頭をもたげてくるのを、どうすることもできないまま、ただそばに立っているしかないという経験を、何度も何度も繰り返すことになる。それが牧師のしなければならないことなのだ。だからこそ、アクィナスは、牧会者の徳目表の最初に「弱っている人々のために忍耐すること」と挙げたのである。

6、物質主義の時代的・文化的背景との大きなギャップ
 現代の私たちは、金銭に価値を置き、給料の額で人の値打ちを決めるような文化の中に暮らしている。脳外科医の仕事は難しく、緊張の連続で、きつい仕事である。そして、それに相応して、外科医は高給取りでもある。他方、牧師の仕事は、人々から賞賛されはするものの、その給料のことを考えてみると、物質主義的な階級制度の中で自分がどの辺りに位置するかを、牧師ははっきり知らされることになる。もっとも愛他主義の精神に満ちた牧師であっても、この給料の低さでは、自分の値打ちが十分に測られていると実感することは困難である。

7、「教勢の低下」という状況の下で失望する
 ふたりの宗教社会学者が著した『アメリカの主流派宗教ー変わりゆく形態と未来』の中で、著者たちは、教会に属する人々の動向を包括的に研究し、以下のような予言を記している。

 主要なプロテスタントの諸教派は、長期にわたって減衰の一途をたどってきたが、数的な面においても、社会的な実力や影響力においても、今後も引き続きその地盤を失い続けていくことになるだろう。プロテスタントに属する人口の割合は、来る数十年の間に徐々に低下し続けるだろう。

8、教会の働きの多くは「頭中心」のデスクワークになりがち
 感情的な問題や人間関係の問題は、肉体を無視した結果だったということがよくあるものだ。多くの研究が、肉体の運動はストレスを大いに軽減することを示している。一般的に言って、仕事の内容が頭脳に関わるものであればあるほど、身体に養分を補給する必要がある。人は、脳だけの存在でもなければ、肉体を持たない魂というわけでもない。私たちは被造物であり、その行動のすべてにおいて心身の相関性を備えた動物なのである。人間の生き物としての被造性を忘れることは危険である。

9、時間管理の不手際による精神的消耗
 故ヘンリ・ナウエンが語ったように、「もし、牧師が自らの職務における絶対的本質が何であるかを知らないなら、その牧師は、『いわゆる大切とみなされること』を行うようになっていく。」牧師の行うことの大半はいずれも「大切なこと」なのだから、本質的なことを見分けることができないとすれば、任職された牧師の上には、飽き飽きするほどの達成不能な重荷の数々が負わされることになるだけである。

10、牧師の職務は通常混乱状態の中で行われることを認められない性格
 ある牧会カウンセラーから教えられたことだが、牧師という職務を幸いな形で成し遂げる上で欠くことのできない性格とは、「曖昧さに対する許容度の高さ」であるという。「几帳面であること。正確であること。そして秩序だっていることをとりわけ重視する正確の牧師は、その職務において悲惨な結果を迎える。人生とは混乱したものであり、人々は不可解な存在であり、(あなたが人々のことを知れば知るほど)牧師の望む基準に達するような人間はわずかしかいないことが分かるようになる。印刷関係の仕事や写真家のような仕事をしていた人々は、決して牧師になどなるべきではない。

 もちろん、この発言には冗談も含まれている。しかし、彼の示す禁止事項はなかなか興味深い。緻密であることを求められる印刷業者、読みやすく整然とした仕事を求められる印刷業者からすれば、教会生活は混乱したものに見えることだろう。また、もしあなたが人生というものを、ピントを合わせ、すべての動きを固定した上で、カメラの小さな穴を通して見えることがらに限定するような仕方で理解しているとすれば、教会の中で牧師は正気を失ってしまうことだろう。

11、所属教派の価値観、神学的立場、職制、規則などとの不一致
 牧師や信徒が教派の中のリーダーや計画のことであれこれと言い合っても構わないが、それでも、自分たちがその教派の一員であり、全体の方向性には共感を持っているという状態が保たれていなければならない。教派の方向性もしくは性格の転換、あるいは牧師や信徒の神学もしくは性格の転換は、個々人と教会組織の間に深刻な亀裂を生み出すことがある。

12、女性教職の受ける性差別的な意識の犠牲
 私たちが二十世紀の後半に学んだことは、単に女性の任職を実施し、女性にも牧師としての召命に応えることを認めるだけでは、彼女たちが牧師の職務を果たすことを支えるには不十分だということであった。女性教職に対する抵抗、偏見、敵意との絶えざる闘いが、彼女たちを疲弊させている。

13、「この世の諸々の支配と権威」が福音と説教者に敵対している
 これまでに列挙した多くの要因が示していることは、教会そのものが牧師の職務に対する敵となることがあるという事実である。否、聖書によれば(エペソ6:12)、福音は宇宙的な諸々の力と敵対するものなのだ。任職された牧師のリーダーシップに対する挑戦は、社会学的なものだけでなく、神学的なものである。サタンとその仲間は、私たち牧師の職務を打倒しようとして躍起になっているのだ。

神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか

神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか。それを知るためには、書き記された神のみことばである聖書に、静まって耳を傾けなければならない。あなたがもし他の教会に転入会すべきかどうかと迷っておられるなら、ぜひコリント人への手紙の第一と第二に静かに耳を傾けてほしい。
これが神の教会なのだろうかと思うような問題だらけのコリント教会に対して、主イエスはパウロを通して、「コリントにある神の教会へ」と呼びかけられた。今あなたが置かれている○○教会に対しても、主イエスは「○○にある神の教会へ」と呼びかけておられる。
そして主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ福音書13章34−35節)と命じておられる。

礼拝メッセージ「焼けない建物」

礼拝メッセージ「焼けない建物」(クリックで聴けます)
聖書箇所:1コリント3章10−17節

10与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。
そして、ほかの人がその上に家を建てています。
しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。
12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。
というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
14 もしだれかの建てた建物が残れば、
  その人は報いを受けます。
15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、
自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。
神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
1コリント3章10−17節