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タグ: 伝道
あなたに ウクレレ弾き語り
松原湖伝道懇談会2017-10
聖書が語る伝道と教会形成を目指して
聖書が語る伝道と教会形成を目指して
杉戸キリスト教会牧師 野町 真理
1、私の個人的体験から
個人伝道は決して個人プレーではない。チームワーク・教会の働き。名前が真理なのに、未信者家庭で生まれ育った私。フィリピンから日本の高知県に来た留学生による個人伝道(友人伝道)で救われた私。私の救いと受洗の背後にあった教会の祈り。洗礼式の時、初対面の方々に言われたこと➡「野町さん、おめでとうございます!あなたのために祈ってましたよ!」
2、伝道する動機について:実利的プレッシャーに対する処方箋
近年、伝道者・牧会者のメシア・コンプレックスや燃え尽き症候群という言葉を耳にする。もともと燃え尽き症候群という言葉は、対人関係を中心とする仕事に就いている人々の間で生まれた言葉。なぜなら対人関係においては自分の思いどうりにならないことが多く、また目に見える形ではなかなか結果が見えてこないから。伝道者や牧会者もこの例にもれず、実利主義的に受洗者の数や礼拝出席者の数でその働きを人間的に評価されやすい中にあって、その意義と安全を何に置くかが予防の鍵となる。即戦力、スピーディーな結果が求められる中にあって、神ご自身の中に働きの意義と安全を見いだすことは、牧会伝道をする動機と目的、つまり何のために、何が見たくてそれをするのかという動機を健全なものとし、私たちを同労者同士の妬み合いなどからも解放し、私たちの働きをただ神にのみ栄光を帰するものとする。
★「意義」と「安全」を神によって得る。(存在の喜び)
★人の評価でなく神の評価を求める
★週に一度、できる限り家族で普段の生活から離れて安息の時を持つ。
美しい自然の中に出かけるのが一番。特に教会堂と牧師館が一体になっているような教会で奉仕している場合は要注意。休日も夜も四六時中ずっと職場に居続ける異常さ。休まないで働き続けることこそ深刻な罪!休まなければいい奉仕ができない!
★洗礼に導くこと・洗礼を受けることをゴールにしないことが大切
入門クラス、求道者会、洗礼準備会。受洗後クラス(アフターバプテスマクラス)。一人を大切にすること。リプロダクション伝道。寄り添う牧会伝道。タオル一本分の間合い
3、ヨハネ福音書1章1−18節と4つの法則による福音提示
イエス・キリストを信じ受け入れる時に与えられる「神の子どもとされる特権」
1、神を私のお父さんと呼べる特権
2、神のものをすべて相続する特権(永遠のいのち、復活のからだ、新しい天地)
3、キリストに似た者に変えられる特権
聖霊に祈りつつ、みことばを伝えていく
創造主というイメージの大切さ
日本語の「神」という言葉が持つイメージを越えて
母の胎の中で私たちを組み立てられたメーカー(詩篇139篇)
受肉前のキリスト、受肉(クリスマス)、
私たちのための十字架の死、復活(イースター)
信じるとは、神と神の約束を信頼して、受け入れること(飲食と同じ)
黙示録3:20が約束している素晴らしいことは、クリスマスの家畜小屋のような私たちの心の中に入ってくださり、一緒においしく食事ができるほどに心の洗濯をしてくださるということ。イエス様を信頼して心の扉を開き、心の王座に迎える祈りをされませんか?
4、洗礼・バプテスマとは何か
洗礼は本来、信仰を持って救われた人が、自発的に自分の意志で受けるものです。
A、お葬式と誕生式 イエス・キリストの十字架の死、墓への葬り、3日目の復活
B、誓約と入会式 教会につながることの大切さ
C、任命と派遣式
洗礼は、スタートであってゴールではありません。教会(神の家族)といっしょにゴールを目指して歩み始めるスタートラインです。ゴールは、私たちがキリストのように変えられることです。
5、洗礼・バプテスマを受ける者への3つの指針
A、主の祈り=神の国とその義をまず第一に求める祈り⇔罪人の自己中心な祈り
罪人の的外れな祈り(主の祈りをひっくり返すと恐ろしい祈りに・・・)
私の名前があがめられますように。私を中心とした私の国が来ますように。
私が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。
わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。
主の祈り=神中心の祈り=的を射た祈り=義人の祈り=罪人にとっては不自然な祈り=神の国とその義とをまず第一に求める祈り
自己中心の祈り=的外れな祈り=罪人の祈り=罪人にとっては自然な祈り =自分の国とその義とをまず第一に求める祈り
B、十戒=先行する神の愛によって救われ、赦され、自由へと解放された者に語られる神と隣人を愛する人生の指針 。前文がとても大切。神のものを盗んではならない 。
十戒をひっくり返すと恐ろしい指針に
あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってもいい。
自分のためにご利益のあるいろんな偶像を造って拝んでもいい。
自分の欲望を満たすために偶像に仕えてもいい。
神の御名をみだりに唱えてもいい。
安息日も覚えなくていい。休まず働いていい。
私の父と母は敬わなくてもいい。利用出来るだけ利用して後は姥捨山へ。
殺してもいい。気に入らない者や厄介者はすべて死ねばいい。
姦淫してもいい。相手を自分の欲望を満たす道具として惜しみなく利用する。
盗んでもいい。欲しいものがあったら神のものでも他人のものでも。
偽証してもいい。嘘をつくことはいい。
隣人のもの、隣人の家や妻や夫、財産や不動産を欲しがってもいい。
収入を得るために必要な4つの預かりもの
A、健康
B、才能・能力
C、職場・仕事
D、やる気
➡溢れるほどの祝福を注ぐかどうかを試してみよ!収入の十分の一によって
C、使徒信条=三位一体の神=天地万物を創造された神を信頼する信仰
メーカー、デザイナー、クリエイターであられる神
父なる神、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神(御霊)
6、線香花火にならないために・残る実を結ぶために
➡教会形成:個人の生活習慣の改善、教会の体質改善
7、人生を導く5つの目的(THE PURPOSE DRIVEN LIFE)リック・ウォレン著
あなたの人生をドライブしているものは何でしょうか?
本来造られた目的・デザインにドライブされて生きるなら、
世界で一人だけのあなたが、一番あなたらしく生きることができます。
礼拝、交わり、成長、奉仕、宣教
来会者数、礼拝出席者数、受洗者数、弟子の数、奉仕者数、宣教者数
1、神を愛し神を喜ぶ礼拝に招く
2、神の家族の交わりに招く
3、キリストを目指す成長に招く
4、ユニークな賜物の形(SHAPE)を用いた奉仕に招く
5、伝道、世界宣教に招く
8、健康な教会へのかぎ(THE PURPOSE DRIVEN CHURCH)
教会をドライブしているものは何でしょうか?
神が命じておられる5つのことをバランス良く大切にすることが大切です。
9、閉塞感を突き破るもの・ブレイクスルー信仰
人間の不信仰を越えて約束を成就される神の真実=閉塞感を突き破るもの
10、閉塞感から涙の祈りによる種まきへ!
天国に入れる人、救われる人は少ない???
収穫は多いが働き手が少ない。目を上げて畑を見なさい。
星の数ほどのだれにも数えきれないほどの人々!
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう
11、健全な聖霊の教えと世界的視野の大切さ
WWW:World Wide Witness(使徒1:8より)
ワールドワイドなキリスト者、世界に通用する、世界標準のキリスト者を目指そう!
関東宣教区における開拓伝道の可能性
野町真理(ノマチシンリ) 関東宣教区長、杉戸キリスト教会牧師
関東宣教区は、群馬、埼玉、そして東京都内にまたがっています。
群馬には安中聖書教会と高崎福音キリスト教会があり、太田などにもう一つ開拓できると面になります。
埼玉では、先日、西部にある原市場聖書教会が独立記念礼拝を行うことができました。原市場聖書教会は、高麗聖書教会の教会レベル開拓によって生み出されました。続く足立愛の教会は、埼玉の越谷にて伝道を始めています。
また、TEAM宣教師のスティーブ・バーン師が和光に移り住み、開拓伝道の導きを祈り求めておられます。大宮や新都心といった埼玉中心部には同盟の教会がまだありませんが、都市伝道の必要があります。
都内では豊洲に近い枝川愛の教会において都市伝道の可能性が大です。都内には北区と練馬区にそれぞれ2つ、足立区、江東区、中野区、豊島区、板橋区にそれぞれ1つ、各区の拠点として教会が建てられています。
(世の光のために書いた内容です。)
九州鹿児島ビジョントリップ2017-05
先行する引き渡しと使徒的引き渡し
主イエスに対して、高価なものを捧げるのはもったいないと思う人がいるなら、
その人はやがて、主イエスを売り渡すことになるでしょう。
イスカリオテ・ユダに代表される12使徒たちがそうであったように、
主イエスはあなたにとって売り物となるでしょう。
いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。われわれは、ここで明らかに、すべてのそのほかの引き渡しに対して、威厳、重要さ、意味深さにおいて、先行する引き渡しとかかわらなければならない。ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8・32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡しーその中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡しーの中に基礎づけられている。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p338-339
パウロは、正確に、ユダが、その後悔によれば、逆転させたいと思い、また既に起こったことを撤回させたいと願ったそのところで、業を継続する。ーすなわち、ユダが気も転倒せんばかりに恐れたことであるが、大祭司と長老たちが、あの悪い系列の中の第二の輪としてなしたことをなすことによって、継続する。換言すれば、パウロは、まさに異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。しかも、イスラエルの召命と派遣に対する不真実をもってではなく、それらに対する真実をもって、もはやイエスを殺すためではなく、むしろ、この殺されたが、しかしまた甦らされた方の支配を全世界にわたってうち立てるために、異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。そのようなわけで、ユダが、使徒職の任命と樹立を無にしてしまうなどということは全くなかったのであり、十二使徒の円は、ただ単にすぐに再び塞がれるだけでなく、むしろそのことを越えて、この定員外の人物の中で、マタイ28・19の意味で、まことの使徒行伝が、すなわち、イエスを異邦人に正しく引き渡す〔伝えていく〕ことが、いまこそ始まるのである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p319-320
神がなし給うたイエス・キリストの引き渡しこそが、本来的な、実在の引き渡し(言い伝え)である。その引き渡しの中で、神の全能の愛が、人間に、力を発揮しつつ向けられた。この引き渡しの中で、神と人間の間の深淵に橋がかけられた。この引き渡しの中で、神は人間を探し求め、見出し給うた。この引き渡しの中で、人間が神の前に立ち、神と共に生きることができる可能性が造り出された。この引き渡しの中で、その点で人間を妨げていたこと、人間を神の敵として、神との契約から閉め出さなければならなかったことが、取り除かれた。この引き渡しの中で、人間が、その罪からきよめられることによって、神の国にはいる門が開かれ、永遠の生命へのその確かな希望の基礎づけにまできた。この引き渡しの中で、教会は、誰かの人間的な手が、それに対してただ指一本だけでもふれる前に、基礎づけられたし、また基礎づけられている。その引き渡しの中で、神はわれわれのために危険におもむき給うた。なぜといって人間と、神ご自身人間となり、人間としてほかの人たちの間にまじって、彼らのもとでご自分の事柄をなしてゆくという仕方で、人間と、かかわることは、どうして神にとって危険で、迷惑となることでなく、人間の栄誉を脅かすものでないはずがあろうか。この引き渡しの中で、神は、この危険に、事実、屈し、人間としてほかの人間たちによって無力にされ、捨てられ、殺されることを進んで身にうけ給うたのである。しかし、まさにこの引き渡しの中で、神は人間にかかわるそのよき意志を、まさに次のことー神がこの危険に身をさらし、まさにこの危険に屈することの中でこそ、人間のため、その益のため、その救いのため、永遠の生命の希望の基礎づけのために、決定的な一歩をなすことーによって、実行に移し給うた。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p356
しかし、そのことでもって、また、神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間、に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、必要なすべてのことが語られたのである。答えは、ただ次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望ー彼に対して、福音の中で与えられている希望ーをつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。彼は神の前で、捨てられた者としての独立した存在をもっていない。彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者である。すなわち、その棄却の中で、棄却からして、選ばれた捨てられた者ーそのものたちの中にユダが生きていたが、しかしまた、(パウロにおいてそのことが起こったように)殺された、捨てられた者ーである。彼らは捨てられた者ーそのようなものとして、信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者ーである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p372
アイルランド出身のロックバンドU2は、イスカリオテ・ユダである私たちのことを幾つかの歌にしている。
閉塞感という名の黒雲を突き破るものは何か?
閉塞感という名の黒雲を突き破るものは何か?それは決して、人間の信仰深さや熱心さではない。
キリステ(切り捨て)教では、人間の信仰深さや熱心さがブレイクスルーの鍵を握っていると教えられる。そしてキリステ教では、「願いかなわざることなし」、「願ったとおりに叶えられていく」と教えられる。けれども、いくら願っても願いがかなえられない状況で悩む人々を、「それはあなたの信心が足りないから。信仰のとおりにしかならないから、信じられなかったらもうおしまい」と切り捨てる。
以下に引用する新約聖書ルカの福音書1章20節は、閉塞感を突き破る鍵となるみことばであり、キリスト教がキリステ教にならないために、真剣に耳を傾けなければならないみことばである。
『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」』
主なる神が約束してくださったことは、たとえ人間が信じられなくても、信心が足りなくても、時が来ると必ず出来事になる。だから信じられなくても大丈夫。どんなことがあっても、人間の不信仰でさえも突き破って、神は約束を必ず守ってくださる。
閉塞感という名の不信仰を突き破るものは何か?それは、天地を創造され、万物を御手に統べ治めておられる主なる神の真実な御言葉である。