聖書 新改訳2017

聖書新改訳2017

宗教改革500周年記念で出版されたばかりの聖書新改訳2017が届き、早速いろんな箇所を読んでいます。

まず詩篇1篇3節。
すごい!「水路のそばに植わった木」から「流れのほとりに植えられた木」に新改訳。自分で植わったわけではなく、植えられた(受身形)であることが明確になりました。「流れのほとり」という表現もとても素敵です。

その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。

次に創世記15章5節。
「星を数えることができるなら、それを数えなさい」が「星を数えられるなら数えなさい。」に新改訳。とてもスッキリしました。

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

さらに創世記15章6節。
旧約聖書の創世記に記されている信仰義認の箇所です!
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」でしたが、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という表現になりました。信じたことが義と認められた理由であるということがしっかり伝わってきます。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

新約聖書も見てみましょう。

聖書新改訳2017。マタイ福音書1章で、一番インパクトがあった変更点は、「バビロン移住」を「バビロン捕囚」としたことです!日本においては、「終戦」を「敗戦」と改訳したほどのインパクトではないでしょうか。旧約聖書に書き記されたイスラエルの歴史に耳を傾けると、自らの罪と恥の結果、主なる神の怒りを買い、無条件降服、そして強制連行によってバビロン捕囚に至る経緯が明記されています。自らの罪をごまかしたり、なかったことにしたり、お茶を濁すような曖昧な言葉ではなく、ごまかさない、なかったことにしない、お茶を濁さないこの新改訳2017の言葉こそ、ルターが語った「日々悔い改め」の初めの一歩ではないでしょうか。

マタイ福音書2章18節。
東日本大震災の後に日本で出版される日本語訳の聖書として、心に響きます。

「ラマで声が聞こえる。
むせび泣きと嘆きが。
ラケルが泣いている。その子らのゆえに。
慰めを拒んでいる。
子らがもういないからだ。」

マタイ福音書6章34節。
「だから、あすのための心配は無用です。」が「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」に新改訳!心配性の私たちに優しく寄り添う素敵な訳です。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

同じくマタイ福音書の18章3節。なんと「悔い改めて」を「向きを変えて」に新改訳!これで「悔い改める」という聖書的専門用語の意味が明快に伝わってきます。素晴らしいですね。

こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どものようにならなければ、決して天の御国には入れません。

放蕩息子のたとえと言われるルカ福音書15章の20節。
「走り寄って彼を抱き、口づけした。」が「駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」に新改訳。
「走り寄る神」というメッセージ題がありましたが、今度は「駆け寄る神」ですね。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

ローマ人への手紙12章1−2節はどうでしょうか。
すごい!「自分を変えなさい」が「自分を変えていただきなさい」に見事に新改訳され、原文の受身形が鮮明になりました!

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

コリント人への手紙第一12章21節はどうでしょうか。

これまでの訳だと、以下のようでした。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

新改訳2017では、以下のようになりました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

すぐに「あなたはいらない」という言葉が多用される今の日本にとって、まさに必要な翻訳ではないでしょうか。

コリント人への手紙第一15章14節はどうでしょうか。

以前の訳では、以下のようになっていました。つい先日メッセージしたのですが、「実質のないもの」というとても難しい言葉が使われていました。

そして、 キリストが復活されなかったのなら、 私たちの宣教は実質のないものになり、 あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

新改訳2017では、以下のようになりました。シンプルで、とてもわかりやすい訳に感謝です!

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

コリント人への手紙第二4章17節はどうでしょうか。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

が、以下のように改訳されました!

私たちの一時(いっとき)の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

今の時の苦難がずっと続くかのように思い込んでしまいやすいのですが、「一時(いっとき)の軽い苦難」と訳してくれると、本当に救いになりますね。乗り越えていく力、立ち向かっていく勇気が与えられます!

ガラテヤ人への手紙2章16節はどうでしょうか。
以前の新改訳では、

「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

でしたが、以下のように新しく改訳されました。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

まだまだほんの部分的な読み比べですが、全体的に日本語がよりこなれて、とてもわかりやすくなったという印象を受けました。聖書 新改訳2017、聖書を新しく買うことを考えておられる方々にぜひオススメです。

日本同盟基督教団の3つのビジョン

日本同盟基督教団の3つのビジョン
1、青年宣教 DS(DOMEI SEINEN) キャンプ伝道
信仰継承

2、国内宣教
教会開拓 チャーチプランティング
点から線、線から面へ
1億2000万宣教、全県に同盟の教会を
鹿児島、三重、徳島、和歌山、佐賀、秋田、島根

3、国外宣教
教会形成 アジア21 そして世界へ JAWS21

宣教協力のための教団、宣教区制
世界宣教
地の果ては 背中合わせの 隣人
日本とアジアと世界に仕える僕

家族伝道 親族伝道

なぜ同盟教団?
大学編入学のため移り住んだ先で導かれた教会が同盟教団の教会だったから。(最初に導かれて洗礼を受けたのはナザレン)
同盟教団の宣教大会への参加、HBC、東海ブロック
同盟教団の血筋 宣教協力、聖書信仰、合議制

個人のビジョン
教会のビジョン
宣教区のビジョン
教団のビジョン
神のビジョン 聖書のビジョン 星の数、砂の数

閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事

閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ書55章10−11節

「神のことば」を表すヘブル語「ダバール」は、「出来事」とも訳すことができます。神のことばは必ず出来事になるからです。上記のみことばは、そんな神のことばの力強さを教えています。

旧約聖書には、閉塞感に囚われ、神の約束を信じられなかったアブラハムとその妻サラの姿が記されています。創世記17章17節が語るアブラハムは、本音と建前を使い分け、ひれ伏しながら作り笑いをします。信仰の父アブラハムも、閉塞感に囚われて神の約束を信じられなかったのです。夫婦は似てきます。創世記18章12節が語るサラもまた、神の約束を信じられませんでした。ニヒルな笑いが響くサラの心の中は、まるで氷点下です。

厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、閉塞感に囚われた者に救いはありません。静かにあきらめ、ニヒルに笑う仮面の道化師として、行き止まりの路地裏で死ぬ以外に道はありません。アブラハム夫婦がイサクを授かることもなかったでしょう。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが来られるクリスマスも、十字架で私たちのために死なれたキリストが復活するイースターもなかったでしょう。

しかし、「神のことば」は、聖書信仰によって「出来事」と訳すことができます。なぜなら聖書に書き記された神のことばは、私たちの閉塞感を突き破って、時が来れば必ず出来事になるからです。アーメン。主イエスの再臨と救いの完成がますます近づいています。閉塞感を突き破る神のことばをしっかりと握りしめ、天を見上げて地上を旅しましょう。

福音的な聖書の読み方のコツ

福音的な聖書の読み方のコツ
先行する恵みにいつも思いを向ける。
聖書の中に命令が出てきたら、まず神がその命令を私に対して実践してくださったことに思いを向ける。

例えば、マタイ22章34−40節に記されている聖書の中で一番大切な命令について、実践してみよう。

1、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ

2、あなたの隣人を自分自身のように愛せよ

まず神が、心を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
まず神が、思いを尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
まず神が、知力を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
まず神が、私の良き隣人となって寄り添い、私をご自身のように愛してくださったことに思いを向ける。

そのように私を愛してくださった神に思いを向けるなら、神を喜び、神に感謝し、神を愛することはそんなに難しいことではなくなる。
これが福音的な聖書の読み方のコツ。先行する恵みにいつも思いを向けること。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
1ヨハネの手紙4章19節

ヨハネ福音書の中で、主イエスの新しい戒めとして提示されている内容を覚えても、上記の内容を福音的な聖書の読み方として裏付けることができます。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
ヨハネ福音書13章34−35節

互いに愛し合いなさい。なぜなら主がまず私たちを本気で愛してくださったから。
互いに仕え合いなさい。なぜなら主がまず私たちに仕え、汚れた足を洗ってくださったから。
互いに赦し合いなさい。なぜなら主がまず私たちを赦してくださったから。

そして主の愛と赦しは、実は私たちの悔い改めにも先行します。あらゆるものに先行する恵み。それを知った時初めて、私たちは真に悔い改めることができるのです。

ルカ福音書23章34節には、私たちの悔い改めに先立つ神の赦しが、十字架の主イエスによって明確に啓示されています。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」

神の国の証人ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ

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それが、そのような困難は承知の上で、やはり書かずにいられない気持ちになったことには、日本のキリスト教会の現状についてのーことに一九六九年以降の日本基督教団の現状についての、私自身の認識が関係している。今そのことについて、ここに詳しく述べることはできない。ただ一言で言えば、私には、今日の日本の教会にもっとも欠けているもの、そして日本の教会が(自覚的ではないにしても)今日もっとも必要としているものは、ブルームハルト的なものだと、思われてならない。ブルームハルト父子におけるような「活ける神」への立ち返りと素朴な信仰のリアリティの快復なしには、日本の教会の新しい出発はないと思われてならない。(あとがきより)

「イエスの出現によって、単に心情の問題が提出されたのではなくて、力の問題が提出された。」と言っている。これは重要な指摘である。ブルームハルトが、この出来事を通して、聖書が証しする事柄を、そしてわれわれの救いの問題を、単に心情の問題としてではなく、力の問題として捉え、「戦い」の問題として捉えたということ。これがブルームハルト父子を敬虔主義から区別する中心的なものであると共に、彼らがカール・バルトらに教えたもっとも重要なものの一つであり、今日のわれわれが自分自身の信仰の問題としてもっとも緊急に聞かなければならない事柄だと、私は思う。ド・ヴァレンティ博士に対する「弁明書」の中で語っているように、彼がゴットリービンの悲惨の中に見たものは、今も力を振るっている闇の力の支配のもとにある人間の姿であった。そのような事実に直面して、彼が覚えたのは、「憤怒」であった。彼が子どものころから聖書で読んだように、神が主イエスにおいてすでに勝利し給うたということがもし事実であれば、このような人間の悲惨に対して、どうして神の力の介入がないはずがあろうか。そのような焦燥が彼を捉えた。その場合、彼は、神の力の介入を、史的イエスの時代や使徒たちに限定することに堪えられなかった。主イエスの高挙の後の時代の有様が、それ以前と同じであって良いはずはないのであった。したがって、彼の問題は、主イエスの支配か、それとも彼に逆らう者の支配か、というまさに「力の問題」であった。p78-79

先行する引き渡しと使徒的引き渡し

主イエスに対して、高価なものを捧げるのはもったいないと思う人がいるなら、
その人はやがて、主イエスを売り渡すことになるでしょう。
イスカリオテ・ユダに代表される12使徒たちがそうであったように、
主イエスはあなたにとって売り物となるでしょう。

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カール・バルト教会教義学神論Ⅱ/2 神の恵みの選び<下>//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。われわれは、ここで明らかに、すべてのそのほかの引き渡しに対して、威厳、重要さ、意味深さにおいて、先行する引き渡しとかかわらなければならない。ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8・32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡しーその中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡しーの中に基礎づけられている。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p338-339

パウロは、正確に、ユダが、その後悔によれば、逆転させたいと思い、また既に起こったことを撤回させたいと願ったそのところで、業を継続する。ーすなわち、ユダが気も転倒せんばかりに恐れたことであるが、大祭司と長老たちが、あの悪い系列の中の第二の輪としてなしたことをなすことによって、継続する。換言すれば、パウロは、まさに異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。しかも、イスラエルの召命と派遣に対する不真実をもってではなく、それらに対する真実をもって、もはやイエスを殺すためではなく、むしろ、この殺されたが、しかしまた甦らされた方の支配を全世界にわたってうち立てるために、異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。そのようなわけで、ユダが、使徒職の任命と樹立を無にしてしまうなどということは全くなかったのであり、十二使徒の円は、ただ単にすぐに再び塞がれるだけでなく、むしろそのことを越えて、この定員外の人物の中で、マタイ28・19の意味で、まことの使徒行伝が、すなわち、イエスを異邦人に正しく引き渡す〔伝えていく〕ことが、いまこそ始まるのである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p319-320

神がなし給うたイエス・キリストの引き渡しこそが、本来的な、実在の引き渡し(言い伝え)である。その引き渡しの中で、神の全能の愛が、人間に、力を発揮しつつ向けられた。この引き渡しの中で、神と人間の間の深淵に橋がかけられた。この引き渡しの中で、神は人間を探し求め、見出し給うた。この引き渡しの中で、人間が神の前に立ち、神と共に生きることができる可能性が造り出された。この引き渡しの中で、その点で人間を妨げていたこと、人間を神の敵として、神との契約から閉め出さなければならなかったことが、取り除かれた。この引き渡しの中で、人間が、その罪からきよめられることによって、神の国にはいる門が開かれ、永遠の生命へのその確かな希望の基礎づけにまできた。この引き渡しの中で、教会は、誰かの人間的な手が、それに対してただ指一本だけでもふれる前に、基礎づけられたし、また基礎づけられている。その引き渡しの中で、神はわれわれのために危険におもむき給うた。なぜといって人間と、神ご自身人間となり、人間としてほかの人たちの間にまじって、彼らのもとでご自分の事柄をなしてゆくという仕方で、人間と、かかわることは、どうして神にとって危険で、迷惑となることでなく、人間の栄誉を脅かすものでないはずがあろうか。この引き渡しの中で、神は、この危険に、事実、屈し、人間としてほかの人間たちによって無力にされ、捨てられ、殺されることを進んで身にうけ給うたのである。しかし、まさにこの引き渡しの中で、神は人間にかかわるそのよき意志を、まさに次のことー神がこの危険に身をさらし、まさにこの危険に屈することの中でこそ、人間のため、その益のため、その救いのため、永遠の生命の希望の基礎づけのために、決定的な一歩をなすことーによって、実行に移し給うた。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p356

しかし、そのことでもって、また、神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間、に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、必要なすべてのことが語られたのである。答えは、ただ次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望ー彼に対して、福音の中で与えられている希望ーをつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。彼は神の前で、捨てられた者としての独立した存在をもっていない。彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者である。すなわち、その棄却の中で、棄却からして、選ばれた捨てられた者ーそのものたちの中にユダが生きていたが、しかしまた、(パウロにおいてそのことが起こったように)殺された、捨てられた者ーである。彼らは捨てられた者ーそのようなものとして、信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者ーである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p372

アイルランド出身のロックバンドU2は、イスカリオテ・ユダである私たちのことを幾つかの歌にしている。

詩篇119篇

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詩篇119えお//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119かき//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119くけ//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119こさ//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119しす//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119せそ//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119たち//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119つて//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119とな//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

詩篇119に//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

東海聖書神学塾創立30周年記念集会

月曜日の朝4時半、夜明け前の杉戸を後にして車を走らせる。約5分の距離にある圏央道幸手ICから高速に乗る。10月末に白岡菖蒲と桶川北本間がつながったおかげで、海老名JCTまで一気に抜け、東名に入る。御殿場JCTで新東名に入り、三ヶ日JCTで東名に戻る。そして東名を名古屋方面に走り、東名三好ICで下道に降りる。日進市にある栄聖書教会まで休憩を入れて約5時間で到着。お世話になった東海聖書神学塾の創立30周年記念集会に参加することができた。お世話になった先生方や先輩、そして兄弟姉妹に再会することができて本当に感謝だった。

東海聖書神学塾創立30周年記念集会録音データー(クリックで聞けます)

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お世話になった先生方//embedr.flickr.com/assets/client-code.js

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聖書が語る大切なこと

聖書が語る大切なこと

 しかし、あなたがたの天の父は、
 それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 だから、あすのための心配は無用です。
 あすのことはあすが心配します。
 労苦はその日その日に、十分あります。
 マタイ6:32-34→主の祈りの前半と後半、十字架の縦棒と横棒

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
 という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
 マタイ22:37−40→十戒の前半と後半、十字架の縦棒と横棒

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
 そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、
 彼らを教えなさい。
 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 マタイ28:18−20→世界宣教教育命令

支援宣教区制による国外宣教の新支援体制を考える

支援宣教区制による国外宣教の新支援体制を考える
日本同盟基督教団 国外宣教委員 野町真理

私たち日本同盟基督教団の素晴らしさは、日本とアジアと世界に仕える教団として形成されていることである。それは私たち日本同盟基督教団が、聖書信仰、宣教協力、そして合議制を三本柱としていることに基づいている。

聖書信仰
私たち日本同盟基督教団の素晴らしさは、まず聖書信仰にある。 新旧約聖書66巻の聖書は、一貫して全世界を視野に入れ、全世界を畑としている。

旧約聖書において、創世記12章に記されたアブラハムへの祝福は、全世界のすべての国民の祝福の基とされるという約束であった。星の数ほどの、だれにも数えきれない全世界のすべての国民の救いの先駆けとして、イスラエルは先に選ばれたのである。

新約聖書において、真の人となられた生ける真の神主イエス・キリストは、十字架と復活によって救いを完成された後、聖霊を一人一人に与えてくださった。そして主は聖霊によって、エルサレムからユダヤ・サマリアへ、そして地の果てにまで世界宣教する教会を形成される。出て行って仕え、みことばを教えて、あらゆる国の人々をキリストの弟子とする。それが地域教会、宣教区、そして教団に託された使命であると聖書は教えている。

日本同盟基督教団が、聖書を唯一絶対の規範とする聖書信仰に立つならば、遣わされている地域(宣教区)がエルサレムであり、そこからユダヤ・サマリア(国内・アジア)へ、そして地の果て(世界)を目指す必要がある。

初代エルサレム教会がそうであったように、私たちは内向き思考になりやすい。けれども、宣教の主である主イエスは、時に迫害を起こしてでも人々を外へと散らし、言葉や文化の壁を超えて世界宣教に生きる教会として私たちを用いてくださる。

宣教協力
第二に私たち日本同盟基督教団の素晴らしさは、宣教協力にある。私たち日本同盟基督教団は、国内外において宣教の使命を果たすために、十字架のもとに力を合わせて宣教協力する教団である。特に国外宣教の働きは、教団レベル、そして宣教区レベルの宣教協力がなければ、成し遂げることはできない。

国外宣教は、後回しにされ、最後の働きになることが多いかもしれない。しかし国外宣教こそ宣教協力における最高の働きである。なぜなら国外宣教こそ、私たちの救いの原点なのだから。誰かが海を渡ってこの国に赴き、外国語を覚え、外国語に聖書を翻訳し、外国語でみことばを教えてくださったからこそ、今の私たちがあり、日本国内の教会があり、そして日本同盟基督教団がある。

合議制
第三に私たち日本同盟基督教団の素晴らしさは、合議制にある。合議制とは、理事会、地域教会、担任教師の三者が合議を行うことによって教職人事を進め、教団を形成するシステムである。合議制は、地域教会や担任教職の破れ口に立ってとりなし、教団を形成していく大切な役割を担っている。

地域教会と教師という二者合議制による教団を考えるならば、日本同盟基督教団が柱の一つとしている三者合議制の素晴らしさが見えてくる。もし二者合議制において、何らかの理由で地域教会と教師との間の信頼関係が失われた場合、教師はその教会を辞任するだけでなく、教団からも退団することになりかねない。

即戦力が求められる今日において、地域教会は即戦力となる教職を求めやすいが、一人の教職が成熟していくには時間がかかる。そのような破れ口においても、三者合議制であれば、理事会の配慮による適材適所の人事によって、地域教会も若手教職も守り育て、健全な教会と教団を形成していくことが可能となる。その際、宣教区における役務者会の役割も大切となる。

宣教が困難な地域における教会形成においては、それぞれの地域教会が各個教会として孤立した働きを余儀なくされる場合がある。この場合にも、試練の中で残る実を結んでいくためには、教師養成プロセスを確立するとともに、三者合議制による教団形成をしていくことが必要だと考えられる。

続く