カテゴリー: 防災
御霊の実と自助努力の実
御霊の実は、神と隣り人に対する愛です。
しかし、御霊の実は、
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
このようなものに反対する律法はありません。
(新約聖書ガラテヤ人への手紙5章22−23節より)
自助努力の実は、他者に対する無関心です。
自助努力の実は、他者に対する無関心、閉塞感、恐れ、瞬間湯沸かし器、意地悪、殺意、裏切り、頑固、依存症です。
このようなものに反対するのが律法(聖書・バイブル)です。
(上記のみことばをひっくり返したことば)
あなたは、どちらの実を結びたいですか?
あなたがもし、イエス・キリストを信頼して心の中心に受け入れ、御霊に満たされるなら、御霊が御霊の実、愛という実を結んでくださる。
美しい国
BLESSセミナーの3つの質問に対する私の答え
①これまで成し遂げたことで、最もやり遂げた充実感が高かったことは何か?
登山:槍ヶ岳、八ヶ岳縦走、雲取山、両神山、筑波山、谷川岳、剣山、石立山、鴻ノ森
水泳:自由型クラスマッチ一位
英語:ESS スピーチコンテスト入賞
空手道:瓦割り、昇段審査、組手
車 SUBARU:高知帰省ファミリーツーリング
バイク:房総半島一周ツーリング、ビーナスラインツーリング、利根川ツーリング
自転車:江戸川サイクリング、古利根川サイクリング、利根川サイクリング(神崎まで)
ビデオカメラ:Go Pro、シネマティック映像
電気・電子工学:半導体結晶成長、コンピューター・スマホ・タブレット:Mac、iPhone、iPad
インターネット:ホームページ、ブログ、
SNS、YouTube、Facebook、Twitter、インスタ
音楽:ギター、ドラムス、ストリートライブ、ゴスペルカフェ
メッセージ:礼拝、ゴスペルカフェ、聖書と祈り会
神学:卒業論文『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解
伝道:魂の救いのために用いられること
牧会:2組の夫婦を献身者として杉戸から送り出したこと
国外宣教委員会:台湾ミッショントリップ、モンゴルミッショントリップ、南アフリカ和解の務め支援会、JAWS21 教会形成、アジア21、そして世界へ
浜名湖バイブルキャンプ委員会 中高生キャンプ、小学生キャンプ、青年キャンプ
②私が現在、最も関心を持っているものは何だろうか?
閉塞感からのブレークスルー そのための真剣な祈り
ブレークスルー・打ち破らせてくださるのは、私たちの王であり主であるイエス・キリスト!!!
打ち破る者=私たちの先頭に立って上って行かれる主イエス・キリストは勝利者!!!
ミカ書2章13節 打ち破る者は 彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、主が彼らの先頭を進む。」
Mic. 2:13 The One who breaks open the way will go up before them; they will break through the gate and go out. Their King will pass through before them, the LORD at their head.”
詩篇18篇29節
29 あなたによって 私は防塞を突き破り 私の神によって 城壁を跳び越えます。
29 With your help I can advance against a troop; with my God I can scale a wall.
王の王、主の主であれられ、勝利者であられる主イエス・キリストに対する真剣な祈り
③条件さえそろえば、他の人のためにどんなことをしたいか?
閉塞感に囚われた人・教会がブレークスルーする働きに関わりたい
創造主の作品としての万物について
創造主の作品としての万物について
アラスカの雄大な風景、そこに生きる動植物などに関する星野道夫さんの写真と文章は、実に素晴らしい。だからこそ、大変残念な点が一つだけある。それは、進化論に基づく世界観である。
進化論を突き詰めると、結果として万物の創造主としての神を否定することになる。そして、万物は偶然に存在しているという無意味な結論に至る。進化論は、真実と希望と愛を人から奪いつつ、無味乾燥な人間中心主義をもたらす。人間中心主義は、自己中心という罪に打ち勝つことができず自己中心主義になり、弱肉強食を肯定し、弱者の生存権を否定し、多様性を否定して人種差別をもたらし、地球規模の環境破壊をもたらす。
想像してほしい。カリブーやハクトウワシが、ムースやコヨーテが、ナヌークやグリズリーが、ジリスが、ザトウクジラが、オーロラが、ルース氷河が、長い冬と短い夏が、勿忘草が、そしてあなたが、本当に創造主の作品ではなく、偶然の産物なのだろうか?
想像してほしい。カメラやレンズや三脚が、偶然にできるだろうか?テントや丸太小屋や家が、腕時計や自転車が、セスナやヘリコプターが、テレビやラジオが、コンピューターやインターネットやスマートフォンが、長い時間をかけると偶然にできるだろうか?
バイブルが語る万物の創造主としての神が、万物を目的と意味と愛を込めてデザインし、メイクし、存在の喜びへと招き、生かしてくださっていると考え始める時、すべてが美しく輝いて見えるようになる。
利他的な生き方は聖書的か?
利他的な生き方は聖書的か?
「利他」とか「利他的」という言葉が最近よく使われ、利他的な生き方こそ理想だと強調されている。キリスト信者であっても、利他的な生き方を目指すことが理想とされているようだ。また、キリスト信者に対して、利他的であることが期待されている。
けれども、C.S.ルイスが書いた、「栄光の重み THE WEIGHT OF GLORY」という本には、利他的な生き方が実は聖書的ではないことが冒頭で紹介されている。以下にその本文を紹介する。
『こんにち二十人の善き人に、何を徳の最高と考えるか尋ねたとするならば、十九人までが、利己的でないことだと答えるでしょう。しかし、もし昔のすぐれたキリスト者なら、ほとんどだれに尋ねたとしても、愛だと答えたことでしょう。
どういうことが起こったかお分かりでしょう。消極的な用語が積極的な用語にとって代わったのですが、これは言語学的な意味があります。利己的でないことという消極的な理念は、他人のために良いものを確保するのを第一義としないで、自分は良いものなしですませるという意味合いの含蓄があり、他人の幸福ではなしに自分の節制が大事な点みたいに聞こえます。これはキリスト教の愛の徳ではなさそうです。
新約には、自己否定について多くのことが述べられていますが、それは自己否定を目的そのものとすることについてではありません。わたしたちが、キリストに従うことのできるよう、己を捨てて自分の十字架を負いなさいと言われますし、そうすれば最後に見出されるものについて書かれているほとんどすべてのものに、願望への呼びかけが含まれています。
もしほとんどの近代人の心に、自分自身の善を欲し、その享受を熱心に望むことは悪いことだという観念がひそんでいるとしたら、この観念はカントとストア派から忍び込んだもので、けっしてキリスト教信仰と関わりあいのないものだと申し上げたいと思います。
実際、福音書の中の、臆面もない報いの約束と、その約束された報いが度胆を抜くようなものであるのを思うならば、わたしたちの主は、わたしたちの願望を強すぎるどころか弱すぎると見ておられるように思われます。
わたしたちは、気乗りのしない顔で、せっかく限りない欣びが差し出されているのに酒とセックスと野心をいじくりまわしていますが、無知な子どもが、海辺の休日につれて行ってくれようということの意味が分からずに、貧民窟で泥いじりを続けたがっているのに、それは似ています。わたしたちはあまりにもたわいないうれしがりやなのです。・・・』
なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?
ロシアがウクライナに軍事侵攻を続けている今、「なぜ神さまは、プーチン大統領のような悪者をそのままにしておられるのか?」と疑問に思っておられる方も多いのではないか。実際あまりにも多くの血が、毎日のように流れ、100万単位の難民が祖国を追われ、流浪の民になっている。一刻も早く、この愚かで悲惨な戦いが止みますようにと、私も切に祈っている。
実は聖書を読んでいると、「なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?」という疑問が必ず起こる。なぜなら神さまは、悪魔に対して限定付きで悪事を働くことを許可されるし(旧約聖書ヨブ記冒頭参照)、悪事を働いていている悪者を放任しておられるような時が実際に多く見られるからである。
例えば最後の晩餐と言われる時(新約聖書ヨハネ福音書13章参照)、悪魔が暗躍し、イスカリオテのユダを操り、イエスを裏切ること・引き渡すことへと誘う。
「なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?」J.R.R.トールキンの書いた指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)は、この問題を取り扱っている。指輪物語には、ゴラムという悪者が登場する。ホビットのフロドは、狡猾なゴラムを殺そうとするが、魔法使いのガンダルフがそれを止める。「どんな悪者にも役割がある」とフロドを諭しながら。
あらゆる力を手にすることができる指輪を葬り去るために、フロドは仲間と共に旅を続ける。ネタバレになってしまうが、最後の最後で、フロドは指輪の持つ魔力に囚われ、指輪を滅ぼすことができなくなってしまう。その時あのゴラムがフロドに襲い掛かり、指輪争奪戦が始まる。ついに指輪を奪い取ったゴラムは、足を滑らせ、指輪と共に灼熱のマグマに落ちていく。結果的に悪者であるゴラムのおかげで、フロドと旅の仲間たちは、指輪を葬り去ることに成功するのである。
実は聖書が語る救済史においても、同じようなことが起こったのだ。悪魔とその手下となったイスカリオテ・ユダという悪者の存在が、結果的に主イエス・キリストを十字架の死へと向かわせることになるのである。そして、罪のない主イエスが、罪人の身代わりとして十字架で死なれることを通して、救いが完成し、新しい契約が成就し、主イエス・キリストは、死と悪魔と罪に勝利することができたのである。
2022復活祭・イースター歓迎礼拝
受難週の受難日に
受難週の受難日に
今日は受難週の金曜日。イエス・キリストが、私の罪のために十字架で死んでくださったことを覚える受難日。良い金曜日だから、英語ではグッド・フライデーと言う。1年365日、毎日十字架を覚えるが、特に受難日は、改めて十字架を覚える特別な日。
棕櫚の主日と呼ばれる日曜日から始まる受難週。その死に至る苦しみは、金曜日の午後に終わる。金曜日の朝9時頃に十字架に磔にされたイエス様は、午後3時頃に息を引き取られる。降誕から始まった受難の日々。しかし死に至る苦しみは、永遠には続かない。
古くからの信仰告白である使徒信条には、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人の内よりよみがえり」とある。イエス様は、死に至る苦しみの後もなお、私の身代わりに地獄の苦しみを味わってくださったことを覚える。そのようにして、永遠の苦しみのかわりに永遠のいのちを与えてくださったイエス・キリストに、心から感謝します。
受難日に、十字架上のイエス・キリストの7つの言葉を覚える。
① 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカの福音書23:34)
② 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書 23:43)
③ イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。(ヨハネの福音書 19:26-27 )
④ 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイの福音書 27:46 )
そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコの福音書 15:34 )
⑤それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。(ヨハネの福音書 19:28)
⑥ イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。(ヨハネの福音書 19:30)
⑦ イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカの福音書23:46)
聖書が語る神の選びについて
聖書が語る神の選びについて
コリント人への手紙第一1章26ー29節
26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。 28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。 29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
創世記12章1ー3節
1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
イザヤ書43章1ー4節
1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
エレミヤ書29章11ー14節
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』
ヨハネの福音書15章16節
16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。