聖書 新改訳2017

聖書新改訳2017

宗教改革500周年記念で出版されたばかりの聖書新改訳2017が届き、早速いろんな箇所を読んでいます。

まず詩篇1篇3節。
すごい!「水路のそばに植わった木」から「流れのほとりに植えられた木」に新改訳。自分で植わったわけではなく、植えられた(受身形)であることが明確になりました。「流れのほとり」という表現もとても素敵です。

その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。

次に創世記15章5節。
「星を数えることができるなら、それを数えなさい」が「星を数えられるなら数えなさい。」に新改訳。とてもスッキリしました。

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

さらに創世記15章6節。
旧約聖書の創世記に記されている信仰義認の箇所です!
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」でしたが、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という表現になりました。信じたことが義と認められた理由であるということがしっかり伝わってきます。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

新約聖書も見てみましょう。

聖書新改訳2017。マタイ福音書1章で、一番インパクトがあった変更点は、「バビロン移住」を「バビロン捕囚」としたことです!日本においては、「終戦」を「敗戦」と改訳したほどのインパクトではないでしょうか。旧約聖書に書き記されたイスラエルの歴史に耳を傾けると、自らの罪と恥の結果、主なる神の怒りを買い、無条件降服、そして強制連行によってバビロン捕囚に至る経緯が明記されています。自らの罪をごまかしたり、なかったことにしたり、お茶を濁すような曖昧な言葉ではなく、ごまかさない、なかったことにしない、お茶を濁さないこの新改訳2017の言葉こそ、ルターが語った「日々悔い改め」の初めの一歩ではないでしょうか。

マタイ福音書2章18節。
東日本大震災の後に日本で出版される日本語訳の聖書として、心に響きます。

「ラマで声が聞こえる。
むせび泣きと嘆きが。
ラケルが泣いている。その子らのゆえに。
慰めを拒んでいる。
子らがもういないからだ。」

マタイ福音書6章34節。
「だから、あすのための心配は無用です。」が「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」に新改訳!心配性の私たちに優しく寄り添う素敵な訳です。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

同じくマタイ福音書の18章3節。なんと「悔い改めて」を「向きを変えて」に新改訳!これで「悔い改める」という聖書的専門用語の意味が明快に伝わってきます。素晴らしいですね。

こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どものようにならなければ、決して天の御国には入れません。

放蕩息子のたとえと言われるルカ福音書15章の20節。
「走り寄って彼を抱き、口づけした。」が「駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」に新改訳。
「走り寄る神」というメッセージ題がありましたが、今度は「駆け寄る神」ですね。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

ローマ人への手紙12章1−2節はどうでしょうか。
すごい!「自分を変えなさい」が「自分を変えていただきなさい」に見事に新改訳され、原文の受身形が鮮明になりました!

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

コリント人への手紙第一12章21節はどうでしょうか。

これまでの訳だと、以下のようでした。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

新改訳2017では、以下のようになりました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

すぐに「あなたはいらない」という言葉が多用される今の日本にとって、まさに必要な翻訳ではないでしょうか。

コリント人への手紙第一15章14節はどうでしょうか。

以前の訳では、以下のようになっていました。つい先日メッセージしたのですが、「実質のないもの」というとても難しい言葉が使われていました。

そして、 キリストが復活されなかったのなら、 私たちの宣教は実質のないものになり、 あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

新改訳2017では、以下のようになりました。シンプルで、とてもわかりやすい訳に感謝です!

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

コリント人への手紙第二4章17節はどうでしょうか。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

が、以下のように改訳されました!

私たちの一時(いっとき)の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

今の時の苦難がずっと続くかのように思い込んでしまいやすいのですが、「一時(いっとき)の軽い苦難」と訳してくれると、本当に救いになりますね。乗り越えていく力、立ち向かっていく勇気が与えられます!

ガラテヤ人への手紙2章16節はどうでしょうか。
以前の新改訳では、

「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

でしたが、以下のように新しく改訳されました。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

まだまだほんの部分的な読み比べですが、全体的に日本語がよりこなれて、とてもわかりやすくなったという印象を受けました。聖書 新改訳2017、聖書を新しく買うことを考えておられる方々にぜひオススメです。

マザー・テレサ 日々のことば

マザー・テレサ 日々のことば

8月12日

これは、私がかつてインドの大統領に差し上げたことのあるニューマン枢機卿の祈りです。大統領は、ストレスや困難に直面した時この祈りが自分に安らぎを与えてくれる、と言われました。

「愛するイエスよ、私がどこへ行っても、
あなたの香りを振りまくことができるよう助けてください。
私の魂を、あなたの霊と命で満たしてください。
私の全存在を、全くあなたのものとして支配してください。
私の人生全体があなたの輝きとなるように、
私を通して輝いてください。
あなたが私の中に完全にいてくださるので、
私に出会うすべての人が、
私の中に生きておられるあなたの現存を
感じ取ることができますように。
どうか彼らが、もはや私ではなく
イエスよ、あなただけを
見つめることができますように」

8月13日

ニューマン枢機卿の祈り

「私と共におとどまりください。
そうすれば、あなたが輝かれるように
私は輝き始めるでしょう。
その光が他の人々の灯となりますように。
ああ、イエスよ、
その灯は私のものとなり、
そして、私を通して、人々に輝きかけるのは
あなたです。
こうして、あなたが一番望まれる方法で
周りの人々を照らすことによって
あなたを賛美させてください。
どうか私が、人々に
説教ではなく私の手本と神への愛と
人に与える影響力によって
あなたを伝えることができますように。
私の心に満ちあふれる愛によって
まっすぐあなたに向かいますように。
アーメン。」

空港にて 村上龍

空港にて 村上龍

駅前、カラオケルーム、空港、披露宴会場という、どこにでもある四つの場所を舞台にした短編は「オール讀物」に連載した。わたしはそれらの短編に何か希望のようなものを書き込みたかった。希望というのは、将来が今よりも良いものになるだろうという思いだ。近代化途上の日本は貧しかったが、希望だけはあった。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
そういう台詞を中学生が言う長編小説を書いてから、希望について考えることが多くなった。社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に、絶望と退廃があふれかえっている。・・・この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。 村上龍著「空港にて」あとがきより

池波正太郎著「日曜日の万年筆」より

池波正太郎著「日曜日の万年筆」より

日曜日の万年筆 池波正太郎

私は、仕事の行き詰まりを頭脳からではなく、躰のほうから解いて行くようにしている。p14

「そうよ、亭主なんて、フンゾウキよ」
「何、そのフンゾウキって?」
傍で聞いていた私も、これは、ちょっとわからなかった。
すると、鰻弁当をむしゃむしゃと食べながら、その中年の女客が「フンゾウキ」の意味を説明した。
すなわち「糞を造る機械」だから「糞造機」なのだそうである。
これにはさすがの私も魂消た。
三年ほど前に、長谷川一夫の芝居を観たとき、これも劇場の食堂で、とんかつ屋の看板にしたらよかろうとおもわれる顔だちの中年婦人が「わたくし、もし、長谷川に飛びつかれたら、とても抵抗しきれませんわ」と、いっているのを聞いたときよりもショックは大きかった。p18-19

沢田正二郎は土佐人の血をひいた熱血的な俳優であり、単なる俳優ではなく、これを政治家にしても教育家にしても、かならず抜群の業績を残したにちがいない。p23

いや、その前に・・・・まだ幼年のころに、私は母に連れられて、沢田正二郎の舞台を確かに観ている。それは本郷座の舞台で、半裸の男が十字架に縛りつけられている姿を、おぼろげながら記憶している。沢田が〔キリスト〕を演じたのだった。p26

亡き座長の机竜之助で大当たりをとった〔大菩薩峠〕を、辰巳柳太郎の竜之助、島田正吾の宇津木兵馬で東京劇場で上演したときの舞台を私は従兄に観せてもらった。辰巳も島田も座員たちも、必死の意気込みで舞台をつとめていたにちがいない。その舞台の、得体の知れぬ熱気の激しさ強さは、むしろ空恐ろしいほどのもので、十歳の私は興奮と感動に身ぶるいがやまなかった。「何を、ふるえているんだい?」と、私の肩を抱いた従兄の声を、いまも忘れない。いまにして思えば、この観劇の一日こそ、後年の私を劇作家にさせた一日だったといえよう。p27

収支という語を、こころみに辞典で見ると、〔収入と支出〕とある。私も、師にいわれたときは、単に経済の意味をふくめたものとして聞いていたにちがいないのだが、いまおもうと、師は、〔すべての物事に対するバランスの感覚〕のことを指していたのではあるまいか。そうなると、あの太平洋戦争の無謀な開戦も、収支の感覚を完全に欠いていたことになる。p34-35

自由とは不自由があってこそ成立するものなのだ。p38

物をつくるという手順を、感覚で躰におぼえこませたことが、いまの私の仕事の基盤になっているのだ。p43

先ず、ここまで書いたらやめてしまう。寝る時間ならば寝てしまう。まだ時間があるなら、別の仕事をする。そしてベッドへ入ると、書き出しの三、四枚が頭の中へ居座ってしまうから、寝ていても、食事をしていても、散歩をしていても、洗面所へ入っていても、無意識のうちに、前夜、書いておいたシチュエーションが頭の中でふくらみつつあるのだろうか。何かの拍子に、つぎの情況がぱっと浮かんでくる。浮かんでこないときは別の仕事をする。このようにして五枚、十枚と書きすすめるうち、人物の性格が生まれ、息づき、うごき出す。こうなれば、その人物の歩くままにまかせる。そこにテーマが浮きあがってくるのである。p47

つまり私は、あくまでも初心に映画を観ているのだ。それでないと私の場合、映画が自分の血肉となってくれないような気がする。映画を観るたびに新鮮なおどろきを感じるということは、いまの自分の毎日の些細な出来事にも、同じ感覚で接していることになる。それでないと、私がしているような仕事では、根が枯れてしまい、ついには、自分が何を書いてもつまらなくなってしまうのではあるまいか・・・。p52

続く

牧師にとって両刃の剣のような本

ある意味で、本書は、牧師にとって、また牧師を志す人々にとって、「両刃の剣」のようなものであると言えるかもしれない。それはつまり、私たちが本書を、牧師としての進むべき道を指し示し、その道を切り開く上での力強い助けとして受けとめることもできると共に、他方では、それと同時に、本書が私たちを刺し通し、私たちの内なる思いや考えを奥底まで切り分け、明るみにさらすようなものとして立ち現れてくる場合もあるということである。おそらくは本書における著者のねらいもそうしたところにあるのであって、さらに想像をたくましくするならば、こうした複雑な叙述の奥には、著者自身も歩んできた牧師としてのいろいろな体験が、ことに痛みを伴う失敗や挫折といった経験とそこから学んだことが、色濃く反映されているようにも思われてならないのである。

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきより(p566-567)

牧師 その神学と実践

対抗文化(カウンター・カルチャー)を生み出すために働く存在

ウイリモンのこうした用語をもじって言えば、牧師とは「住み込みの異星人たち(レジデント・エイリアンズ)」と共に、この世とは異質な「対抗文化(カウンター・カルチャー)」を生み出すために働く存在であり、またそのための特定の責任を負わされた存在であると言えるだろう。

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきよりP568

牧師 その神学と実践

国内宣教と国外宣教の関係について

国内宣教と国外宣教の関係について

スカンヂナビア人宣教師の日本伝道事始

1、国内宣教の原点、私たちの救いの原点は何か?それは国外宣教である。

 国外から宣教師が外国に派遣され、海や国境を越えて国外宣教がなされる。宣教師は、外国に住み、外国の言葉を覚え、そして外国の文化の中で生活する。宣教師は、現地の人々を愛し、現地の人々のために祈り、現地の人々に仕え、聖書を翻訳する。宣教師は、肌の色、目の色、髪の毛の色を越えて、言葉や文化の壁を越えて、福音を宣教する。宣教師は、現地の魂の救いから人育てに深く関わり、現地の教会を形成をする。

2、国外宣教は、現地の働き人にバトンタッチされる時、国内宣教となる。

 自分たちがやった働きだと思わせる宣教、それが最高の宣教。新しい教会を生み出していくことのできる教会。そのような生殖健康(リプロダクティブ・ヘルス)を持った教会を、現地に建て上げる。

3、国外宣教と国内宣教はコインの裏表である。

 国外宣教と国内宣教はコインの裏表の関係にある。どちら側から見るかによって、国外宣教も国内宣教も入れ替わってしまう。

教会は全地に 国外宣教50周年記念誌

天を見上げて地上を旅する

埼玉県北葛飾郡杉戸町、旧日光街道沿い、古利根の流れのほとりに植えられた杉戸キリスト教会、野町真理牧師のゴスペルメッセージ。