宝島 HERO’s ISLAND を読んで

宝島 真藤順丈

宝島 HERO’s ISLAND を読んで

日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師  野町 真理

宝島と聞くと、スティーブンソンのトレジャー・アイランドの方を思い浮かべる方が多いかと思う。けれどもこの宝島は、ヒーローズ・アイランドの方だ。第160回直木賞を見事に受賞した、真藤順丈さんの書いた小説・宝島。英語のタイトルはHERO’s ISLANDとなっている。

この本を読むきっかけは、先日の杉戸・宮代・幸手地域牧師会で聞いた、「ぜひ読んで感想を聞かせてほしい」というM先生の言葉だった。宝島は、M先生が牧師として奉仕している教会の沖縄出身のメンバーが、この本を読んで感想を聞かせてほしいと願った本であり、直木賞を受賞したのにニュースではあまり取り上げられなかった本でもある。すでにM先生は読み終わっているのだが、沖縄出身のメンバーに、感想を述べることができないでいるとのこと。それで「ぜひ読んで感想を聞かせてほしい」とのことだった。

さっそく本を手に入れて読み始めた。以下あまりネタバレにならないように記したい。立ち読みできないほど分厚い本なのだが、グイグイと引き込まれ、あっという間に読み終えてしまった。さて感想であるが、あえて一言で言うと、「今、日本という島国に住んでいるなら、国籍に関わらず、必ず読まなければならない一冊。」という言葉がふさわしいかと思う。

小説であるから、もちろん登場人物や全体的な構成など、かなり脚色されている。けれども、1952年から1972年までの20年間に、沖縄という島で実際に起こった様々な出来事や事件を織り込んで、物語は展開していく。沖縄という島に住む人たちが、歴史の中でどんな歩みを強いられ続けているのか。夜明けを来世よりも遠くに感じながら、どんなふうに生きてきたのか。何を宝にしてきたのか。沖縄を一度も訪れたことがなく、心のどこかで、いつか行きたい観光地のように考えていた私は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。講談社から出版された541頁の大作。税別で1850円は安いと思う。

マッカーサーが邦訳を禁じた日本論の名著

Mirror for Americans: JAPAN アメリカの鏡・日本

GHQ労働諮問委員会の一員として来日したミアーズ。中立な立場で日本を研究してきた彼女にとって、「軍事大国日本」は西欧列強が自ら作り上げた誇張であった。ペリーによる開国を境に平和主義であった日本がどう変化し、戦争への道を突き進んだのか。日本を西欧文明の鏡と捉え、満州事変を軸に中国・韓国との関係を分析しながら、アメリカが変えんとするその未来に警笛を鳴らす。マッカーサーが邦訳を禁じた日本論の名著。

日本がこういう状況に立ちいたったのは、生来侵略的な指導部のせいでも、とりわけ従順な国民のせいでもない。危機感をあおり戦争を安易に信じ込ませる内外情勢に原因がある、ということがみえてくるにつれ、問題の焦点が移り始めた。日米双方で悪を演じているのは「危機的事態」なるものなのだ。P23より

マザー・テレサ 日々のことば

マザー・テレサ 日々のことば

8月12日

これは、私がかつてインドの大統領に差し上げたことのあるニューマン枢機卿の祈りです。大統領は、ストレスや困難に直面した時この祈りが自分に安らぎを与えてくれる、と言われました。

「愛するイエスよ、私がどこへ行っても、
あなたの香りを振りまくことができるよう助けてください。
私の魂を、あなたの霊と命で満たしてください。
私の全存在を、全くあなたのものとして支配してください。
私の人生全体があなたの輝きとなるように、
私を通して輝いてください。
あなたが私の中に完全にいてくださるので、
私に出会うすべての人が、
私の中に生きておられるあなたの現存を
感じ取ることができますように。
どうか彼らが、もはや私ではなく
イエスよ、あなただけを
見つめることができますように」

8月13日

ニューマン枢機卿の祈り

「私と共におとどまりください。
そうすれば、あなたが輝かれるように
私は輝き始めるでしょう。
その光が他の人々の灯となりますように。
ああ、イエスよ、
その灯は私のものとなり、
そして、私を通して、人々に輝きかけるのは
あなたです。
こうして、あなたが一番望まれる方法で
周りの人々を照らすことによって
あなたを賛美させてください。
どうか私が、人々に
説教ではなく私の手本と神への愛と
人に与える影響力によって
あなたを伝えることができますように。
私の心に満ちあふれる愛によって
まっすぐあなたに向かいますように。
アーメン。」

空港にて 村上龍

空港にて 村上龍

駅前、カラオケルーム、空港、披露宴会場という、どこにでもある四つの場所を舞台にした短編は「オール讀物」に連載した。わたしはそれらの短編に何か希望のようなものを書き込みたかった。希望というのは、将来が今よりも良いものになるだろうという思いだ。近代化途上の日本は貧しかったが、希望だけはあった。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
そういう台詞を中学生が言う長編小説を書いてから、希望について考えることが多くなった。社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に、絶望と退廃があふれかえっている。・・・この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。 村上龍著「空港にて」あとがきより

池波正太郎著「日曜日の万年筆」より

池波正太郎著「日曜日の万年筆」より

日曜日の万年筆 池波正太郎

私は、仕事の行き詰まりを頭脳からではなく、躰のほうから解いて行くようにしている。p14

「そうよ、亭主なんて、フンゾウキよ」
「何、そのフンゾウキって?」
傍で聞いていた私も、これは、ちょっとわからなかった。
すると、鰻弁当をむしゃむしゃと食べながら、その中年の女客が「フンゾウキ」の意味を説明した。
すなわち「糞を造る機械」だから「糞造機」なのだそうである。
これにはさすがの私も魂消た。
三年ほど前に、長谷川一夫の芝居を観たとき、これも劇場の食堂で、とんかつ屋の看板にしたらよかろうとおもわれる顔だちの中年婦人が「わたくし、もし、長谷川に飛びつかれたら、とても抵抗しきれませんわ」と、いっているのを聞いたときよりもショックは大きかった。p18-19

沢田正二郎は土佐人の血をひいた熱血的な俳優であり、単なる俳優ではなく、これを政治家にしても教育家にしても、かならず抜群の業績を残したにちがいない。p23

いや、その前に・・・・まだ幼年のころに、私は母に連れられて、沢田正二郎の舞台を確かに観ている。それは本郷座の舞台で、半裸の男が十字架に縛りつけられている姿を、おぼろげながら記憶している。沢田が〔キリスト〕を演じたのだった。p26

亡き座長の机竜之助で大当たりをとった〔大菩薩峠〕を、辰巳柳太郎の竜之助、島田正吾の宇津木兵馬で東京劇場で上演したときの舞台を私は従兄に観せてもらった。辰巳も島田も座員たちも、必死の意気込みで舞台をつとめていたにちがいない。その舞台の、得体の知れぬ熱気の激しさ強さは、むしろ空恐ろしいほどのもので、十歳の私は興奮と感動に身ぶるいがやまなかった。「何を、ふるえているんだい?」と、私の肩を抱いた従兄の声を、いまも忘れない。いまにして思えば、この観劇の一日こそ、後年の私を劇作家にさせた一日だったといえよう。p27

収支という語を、こころみに辞典で見ると、〔収入と支出〕とある。私も、師にいわれたときは、単に経済の意味をふくめたものとして聞いていたにちがいないのだが、いまおもうと、師は、〔すべての物事に対するバランスの感覚〕のことを指していたのではあるまいか。そうなると、あの太平洋戦争の無謀な開戦も、収支の感覚を完全に欠いていたことになる。p34-35

自由とは不自由があってこそ成立するものなのだ。p38

物をつくるという手順を、感覚で躰におぼえこませたことが、いまの私の仕事の基盤になっているのだ。p43

先ず、ここまで書いたらやめてしまう。寝る時間ならば寝てしまう。まだ時間があるなら、別の仕事をする。そしてベッドへ入ると、書き出しの三、四枚が頭の中へ居座ってしまうから、寝ていても、食事をしていても、散歩をしていても、洗面所へ入っていても、無意識のうちに、前夜、書いておいたシチュエーションが頭の中でふくらみつつあるのだろうか。何かの拍子に、つぎの情況がぱっと浮かんでくる。浮かんでこないときは別の仕事をする。このようにして五枚、十枚と書きすすめるうち、人物の性格が生まれ、息づき、うごき出す。こうなれば、その人物の歩くままにまかせる。そこにテーマが浮きあがってくるのである。p47

つまり私は、あくまでも初心に映画を観ているのだ。それでないと私の場合、映画が自分の血肉となってくれないような気がする。映画を観るたびに新鮮なおどろきを感じるということは、いまの自分の毎日の些細な出来事にも、同じ感覚で接していることになる。それでないと、私がしているような仕事では、根が枯れてしまい、ついには、自分が何を書いてもつまらなくなってしまうのではあるまいか・・・。p52

続く

牧師にとって両刃の剣のような本

ある意味で、本書は、牧師にとって、また牧師を志す人々にとって、「両刃の剣」のようなものであると言えるかもしれない。それはつまり、私たちが本書を、牧師としての進むべき道を指し示し、その道を切り開く上での力強い助けとして受けとめることもできると共に、他方では、それと同時に、本書が私たちを刺し通し、私たちの内なる思いや考えを奥底まで切り分け、明るみにさらすようなものとして立ち現れてくる場合もあるということである。おそらくは本書における著者のねらいもそうしたところにあるのであって、さらに想像をたくましくするならば、こうした複雑な叙述の奥には、著者自身も歩んできた牧師としてのいろいろな体験が、ことに痛みを伴う失敗や挫折といった経験とそこから学んだことが、色濃く反映されているようにも思われてならないのである。

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきより(p566-567)

牧師 その神学と実践

対抗文化(カウンター・カルチャー)を生み出すために働く存在

ウイリモンのこうした用語をもじって言えば、牧師とは「住み込みの異星人たち(レジデント・エイリアンズ)」と共に、この世とは異質な「対抗文化(カウンター・カルチャー)」を生み出すために働く存在であり、またそのための特定の責任を負わされた存在であると言えるだろう。

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきよりP568

牧師 その神学と実践

国内宣教と国外宣教の関係について

国内宣教と国外宣教の関係について

スカンヂナビア人宣教師の日本伝道事始

1、国内宣教の原点、私たちの救いの原点は何か?それは国外宣教である。

 国外から宣教師が外国に派遣され、海や国境を越えて国外宣教がなされる。宣教師は、外国に住み、外国の言葉を覚え、そして外国の文化の中で生活する。宣教師は、現地の人々を愛し、現地の人々のために祈り、現地の人々に仕え、聖書を翻訳する。宣教師は、肌の色、目の色、髪の毛の色を越えて、言葉や文化の壁を越えて、福音を宣教する。宣教師は、現地の魂の救いから人育てに深く関わり、現地の教会を形成をする。

2、国外宣教は、現地の働き人にバトンタッチされる時、国内宣教となる。

 自分たちがやった働きだと思わせる宣教、それが最高の宣教。新しい教会を生み出していくことのできる教会。そのような生殖健康(リプロダクティブ・ヘルス)を持った教会を、現地に建て上げる。

3、国外宣教と国内宣教はコインの裏表である。

 国外宣教と国内宣教はコインの裏表の関係にある。どちら側から見るかによって、国外宣教も国内宣教も入れ替わってしまう。

教会は全地に 国外宣教50周年記念誌