終末論について

終末論について

最近は地震も増え、戦争も増え、人々は争い合っていて、イエス様が仰っている通りに進んでいるように見えるので、み言葉を読んでいて恐れを強く感じてしまう時もあります。そんな中で、大患難時代の前に「携挙」があると信じることができれば、大変安心できるのですが・・・?

まさに今は産みの苦しみの時で、聖書が預言していることが次々に起こっています。そして大患難の前に携挙があってほしいと願います。

でもイエス様は、一人でも多くの人を天国に招きたいお方です。ですから、この地上において私にしかできないことがなくなるまでは、あるいは私にしか届けない人がいなくなるまでは、携挙も天に召されることもないと考えています。

どうしても翻弄されやすいのですが、聖書に書かれている以上の大変なことは起こらないし、イエス様は勝利者として今も生きて働いておられますし、わからないこともたくさんありますが、すべてを主の御手におゆだねしつつ、今日もイエス様と共に歩みましょう。まずはウクライナの地で、戦争が止みますようにと願います。

主イエス様の平安と喜びが豊かにありますように。

主イエスの再臨にどのように備えるべきか

イエス様の再臨について、眠っていないで起きていなさいということを伝えるために複数のたとえ話が出てきますが、どのように過ごすことをイエス様は伝えて下さっているのでしょうか?

マタイの福音書25章の中に記されている3つのたとえで考えます。

今日イエス様が再臨されても大丈夫なように、あるいは今日私が死んでも大丈夫なように、

1、聖霊の油を絶やさず(油断せず)に聖霊に満たされ続け、

2、預けられたタラント・人生・いのち・御霊の賜物(複数)を失敗を恐れず活用し、

3、最も小さい者たちの中にイエス様を見て、御霊の実(単数)・愛という実を結ぶ。

終末論に関する信仰告白を黙想する

終末論に関する信仰告白を黙想する
ある方が転入会に際して、終末論に関する教団信仰告白に関して素朴な疑問を持ち、勇気を持って質問してくださった。その内容は以下のようなものだった。

「『万物を新たにし、神の国を完成する。』とありますが、もしも万物が新たにされるとすれば、どうして今、地球環境などを大事にする必要があるのでしょうか?」

この質問は、原発再稼働問題や環境破壊問題に対する態度にメスを入れる鋭さを持っている。
さらにこの質問は、例えばからだに関しても、以下のような真剣な疑問符を提示している。

「もしもやがて新しいからだが与えられるのであれば、どうして今与えられているこのからだを大事にする必要があるのでしょうか?」

これは、「太く短く」とか言って自分のからだを大切にせず、休みなく働き続けたり、暴飲暴食をしたり、タバコやアルコール、フリーセックスや婚前交渉を良しとする態度にメスを入れる鋭さを持っている。
あなたならこの疑問にどう答えられるだろうか?
ポイント
オーナーシップ:あなたの環境ではなく神の環境、あなたのからだではなく神のからだ、あなたの人生ではなく神の人生
スチュワードシップ:神から一時的に信託されているものをどう管理するか、どう耕し(カルティベイト)、どう守るか、どう愛するか、どう仕えるか、どうケアするか、どう磨いて活用するか
アカウンタビリティ:説明責任 レスポンスする能力➡️責任
この地上の人生を聖書的に見ると? 予備校、本番前のリハーサル、試合前の練習。
聖書から見た人生とは、神から一時的に信託されたものをどう管理するかというテストである。

礼拝メッセージ「預言のことばを封じるな」

礼拝メッセージ「預言のことばを封じるな」(クリックで聴けます)
聖書箇所:ヨハネの黙示録22章8ー15節

また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。黙示録22章10-14節

神は、「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」と命じておられます。
神に背を向け続けて不正と汚れをますます行うのか、それとも、神の方に向きを変えて、正しさと聖さを追い求めるのか。的外れの人生を歩み続けるのか、それとも、主イエスの十字架が私の罪のためであったと信じて着物を洗い、的を射た人生を歩み続けるのか。神は今日あなたに、二者択一を迫っています。
的外れの人生の先には、天国の外に用意された報いしかありません。けれども、的を射た人生の先には、天国の中に用意された素晴らしい報いがあります。
主イエスは言われます。「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」

時が近づいている The time is near

時が近づいている The time is near

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。黙示録1章3節

静かに聖書に耳を傾けて聴く祈りをするなら、まるでタイムマシンに乗るように、時空を超えた歴史のある瞬間を訪れることができます。その時私たちは、超時空の旅において、過去だけでなく、「未来をも見る」ことができるのです。

「未来を見る」ことは、今を生きる私たちに衝撃的な影響力をもたらすことでしょう。「見てきた者」だけが持つ説得力と明確な将来像・ビジョン。それらは私たちだけでなく、同時代を生きる者たちに計り知れない勇気と希望を与える航海図となって、共有されていくことでしょう。

今日から耳を傾けようとしているヨハネの黙示録は、書き記された神の言葉である旧新約聖書66巻の、一番最後に収録されている書物です。

ヨハネの黙示録は、未来を神からの啓示によって「見てきた者」だけが持つ説得力と明確な将来像・ビジョンに満ち溢れています。

神の物語(His-Story)としての歴史(History)の完成の時が近づいている今こそ、聖なる神の霊の導きを祈り求めつつ、一緒に未来を見てきましょう。

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キリスト教の中心ー神われらと共に

私たち人間は否定した。私たち人間を造り、共に生きるようにと招かれた創造主なる神を。

それ故私たち人間は、神の最高傑作としての自分自身を否定し、絶望的な状況に陥った。

しかし神は、イエス・キリストにおいて、そのような望みなき人間に、救いの手を差し伸べてくださった。

神われらと共に

キリスト教の中心とは何か?
信仰の対象、愛の起源、希望の内容とは何か?
福音の中心、福音の対象・起源・内容の中心とは何か?
それは、「和解の業において成就された契約」である。

和解論が取り扱う、この「キリスト教の中心」の近似値=「神われらと共に」

狭い共同体(教会)から広い共同体(地域住民)に向かっての福音宣教

神は狭い共同体(教会)の方々と、共におられる。
しかしそれだけではない!
神は、まだ福音を聞いたことがないすべての方々とも、共におられる。
神は、まだ福音を知らないすべての方々とも、共におられる。
神は、広い共同体(地域住民)のお一人お一人と、共におられる。

被災地におられるあなた。神はあなたと共におられます。
 大切な方を亡くされたあなた。神はあなたと共におられます。
  泣いてるあなた。神はあなたと共におられます。
   インマヌエルー神は私たちとともに。
    インマヌエルーいつも共におられるイエス・キリストは、そう呼ばれています。
   インマヌエルー神は私たちとともに。
  途方にくれているあなた。神はあなたと共におられます。
 慰められることを拒んだあなた。神はあなたと共におられます。
被災地におられるあなた。神はあなたと共におられます。

1、神の一つの行為・行為における神の中心的出来事の報道

2、今ここで唯一無比な出来事として起こる唯一の特別な行為

3、人間の救済(存在の究極)に関する出来事・救済史

4、救済が定められている人間と共に(創造の目的としての救済)

5、救済と存在を失った人間・放蕩息子として悲惨の中に生きている人間と共に

6、以前の状態の回復をはるかに超える、さらにより偉大なこと
  究極・救済・完成・終末・エスカトンの到来

7、われら神と共にー信仰と希望と愛、神の恵みの讃美