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新約聖書が語る主イエス
新約聖書が語る主イエスは、一言で言えば、エホバの証人が証言するような「最も偉大な人間」ではありません。新約聖書が語る主イエスは、明らかに全てが、私たち人間とは質的に違います。まるで天と地の違いのように。そのような質的な違いが認識されていなければ、新約聖書が語っている啓示のメッセージを本当に聞いていることにはならないでしょう。
新約聖書が語る主イエスは、私たち人間を断罪しつつ、しかも解放する全権を持っておられるお方です。また、私たちを御許に召すと共に、御自身に結びつける全権を持っておられるお方です。そして、人間があらゆる宇宙的制約を持っているのに対して、宇宙的全権を持っておられるお方。主イエスとならんでは、他に先行者も後続者もない救い主・キリスト。すなわち「神の行為」であり「終末的な救いの出来事」であるお方です。主イエスは、「人間になられた神」であられ、万物を創造し、万物を支えておられる「神の言葉」です。
SUGITO GOSPEL CAFE(杉戸福音喫茶)
THERE IS NO B.C. 66巻のイエス・キリスト
聖書=神さまからのラブレター
聖書通読 66巻 旧約聖書から新約聖書
旧約聖書も新約聖書も、すべて、イエス様のことを語っている。
THERE IS NO B.C. Sixty-Six Books. One Story. All about One Name.
THE JESUS BIBLE と11歳の少年の説教をもとにして
旧約聖書
創世記において、イエス・キリストは栄光に満ちた私たちの創造主です。
出エジプト記では、イエス様は過越の小羊であり、
奴隷の私たちを奇跡的に解放してくださる方です。
レビ記では、イエス様は私たちの身代わりのいけにえとなって、私たちを聖めてくださる大祭司です。
民数記では、イエス様は私たちの羊飼いとして群れの数を数え、昼には雲の柱、夜には火の柱となって、私たちを約束の地に導かれます。
申命記では、イエス様はモーセのような預言者で、約束された希望です。
ヨシュア記でイエス様は、力強い指導者で、信仰の戦いにおける親分です。
士師記でイエス様は、義をもって私たちをさばき、統べ治めてくださる方です。
ルツ記では、ボアズのように、私たちを買い戻してくださるお方です。
サムエル記第一第二において、イエス様は永遠の王であり、サムエルのように信頼できる預言者です。
列王記と歴代誌では、唯一の希望であり、王であり、預言者であり、真の礼拝の回復者です。
エズラ記とネヘミヤ記では、イエス・キリストは帰還を導き、壊れたものを復興してくださる再建者です。
エステル記でイエス様は、私たちのモルデカイです。
ヨブ記でイエス様は、苦しむ救い主であり、生きておられる私の贖い主です。
詩篇=イエス様は、最高の賛美がふさわしい、王であり羊飼い。
箴言=イエス様は、私たちの神の知恵であり人生の教師です。
伝道者の書=イエス様は、人生という名の、迷いやすい地上の旅における神の知恵
雅歌(SONG OF SONGS)=私たちの最愛の花婿、いっしょにパンを食べるコンパニオンです。
イザヤ書=比類なき全世界の救い主
エレミヤ書=私たちの新しい契約
哀歌=ブルース(悲しみと嘆きの歌)の中にも一筋の希望を与えてくださる真実な主
エゼキエル=いのちの水の源である本当の神殿としてのイエス様
ダニエル=イエス様は、燃える火の中における第四の方、私たちの偉大な王
ホセア=イエス様は、姦淫の妻を追い求める配偶者・夫
ヨエル=イエス様は、聖霊と火のバプテスマを授けられる祝福された希望
アモス=イエス様は、格差社会を裁き、重荷を担われる方
オバデヤ=イエス様は、救いの勇士、義しい裁き主
ヨナ=敵国に向かう宣教師としての神、イエス・キリストの姿。
ミカ=私たちのあわれみ深い王、麗しい足を持つメッセンジャー
ナホム=復讐する神、私たちの力、盾
ハバクク=祈り叫びながら、喜びに満ちた救いをくださるイエス様
ゼパニヤ=力強い私たちの救いの勇士
ハガイ=私たちの現状と優先順位を問い、神を第一にするようにと迫る方
ゼカリヤ=謙遜な王であるイエス様
マラキ=義の太陽のように来られる私たちの救い主
新約聖書
マタイ=インマヌエル、約束された王なる神は私たちとともにおられるイエス・キリスト。
マルコ=しもべとしての本当の神
ルカ=いつくしみ深い世界の救い主
ヨハネ=人となられた神のひとり子、わたしはある
使徒の働き=世界宣教の主と継続するミッション
ローマ=永遠の救いを得させる神の力、被造物・宇宙全体の救い
コリント第一=岩、イスラエルの父、変えられるための希望
コリント第二=勝利を得て凱旋される方、悔い改めへの招き
ガラテヤ=信仰による義認、自由への解放者としてのイエス・キリスト
エペソ=教会のかしら、神との平和
ピリピ=苦難の中での私たちの喜び
コロサイ=すべてのもののかしら
テサロニケ第一第二=慰めの源、再び来られる私たちの王
テモテ第一=我らの唯一の仲介者
テモテ第二=あなたを揺るがない者にする方、私たちの力の源
テトス=真理、偉大な神、救い主
ピレモン=恩人、和解の源泉
ヘブル=信仰の創始者、完成者、完全ないけにえ、大祭司
ヤコブ=あなたの信仰に働く力、完璧な手本・模範
ペテロ第一=永遠の報い
ペテロ第二=救いの主
ヨハネ第一=いのちのことば、愛
ヨハネ第二=受肉された神
ヨハネ第三=交わりの絆
ユダ=私たちを支え続ける恵み
そして黙示録において、イエス・キリストは再び来るべき王の王、主の主。永遠の礼拝
アルファでありオメガ、最初であり最後、初めであり終わりである方。
今いまし、昔いまし、後に来られて報いてくださる方。
十字架で身代わりに死んだが、3日目に復活され、今もいつまでも生きておられるお方。
すぐに来られる方
福音は全世界に 新年礼拝のご案内
PRAISE BAND WITH GOSPEL CHOIR
キリエ KYRIE 宗教詩集よりクリスマスの歌
キリエ KYRIE 宗教詩集
ヨッヘン・クレッパー 著
富田恵美子・ドロテア 富田裕 訳
p46-49より
クリスマスの歌
やめなさい、あなたの罪と弱さの中で
あなたが何者かを見つめるのは。
あなたの弁護のために来られた
御子に目をとめなさい、
見なさい、今日あなたの身に起こることを。
今日救い主があなたを訪れ、
あなたを再び故郷へ導いていく、
鷲のように力強い翼に乗せて。
自ら己のものを奪い去る
罪人である自分の貧しいさまを見つめるのは、やめなさい。
助け主イエス・キリストを見上げなさい。
御子のことばにひたすら依り頼みなさい。
御子の慈しみのほかは何ものも助けをもたらさず、
御子こそがあなたを救うために来られると信じるなら、
いかに大きな罪であれ、あなたは忘れてかまわないのだ。
あなたが信じなくとも、御子は誠実を保ち、
宣べ伝えたことを変わらず守られる。
御子は自ら造られたものとなって
災いの只中にいるあなたを探し出し、
新たに創造する。
御子は自らに背くことはないから、
御子を見なさい、いつまでもあなたの罪を見ていてはならない。
御子は自ら堅く約束した。
御子は探し求め、あなたは見出される。
あなたが誰であれ、もう自分をみつめてはならない。
あなたはあなた自身からすでに解き放たれた。
神自らが来られた、
これを知ること以上に、今あなたに必要なものはない。
御子の名は不思議な助言者、力の君、永遠の平和をもたらす主。
あなたの罪を見つめる眼差しから
御子自らがあなたを解き放たれる。
御子の産着がどんなに粗末でも、
たゆまず望みなさい。
なおも神の子、人の子が
それに包まれているのだから。
ここであなたを解き放とうと、御子は待ち焦がれている。
御子の耳に届く叫びがいかに底知れぬ罪のものであっても、
御子はそれをもう帳消しにされた。
嘆くのは、やめなさい。むしろ讃えなさい。
先行する引き渡しと使徒的引き渡し
主イエスに対して、高価なものを捧げるのはもったいないと思う人がいるなら、
その人はやがて、主イエスを売り渡すことになるでしょう。
イスカリオテ・ユダに代表される12使徒たちがそうであったように、
主イエスはあなたにとって売り物となるでしょう。
いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。われわれは、ここで明らかに、すべてのそのほかの引き渡しに対して、威厳、重要さ、意味深さにおいて、先行する引き渡しとかかわらなければならない。ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8・32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡しーその中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡しーの中に基礎づけられている。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p338-339
パウロは、正確に、ユダが、その後悔によれば、逆転させたいと思い、また既に起こったことを撤回させたいと願ったそのところで、業を継続する。ーすなわち、ユダが気も転倒せんばかりに恐れたことであるが、大祭司と長老たちが、あの悪い系列の中の第二の輪としてなしたことをなすことによって、継続する。換言すれば、パウロは、まさに異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。しかも、イスラエルの召命と派遣に対する不真実をもってではなく、それらに対する真実をもって、もはやイエスを殺すためではなく、むしろ、この殺されたが、しかしまた甦らされた方の支配を全世界にわたってうち立てるために、異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。そのようなわけで、ユダが、使徒職の任命と樹立を無にしてしまうなどということは全くなかったのであり、十二使徒の円は、ただ単にすぐに再び塞がれるだけでなく、むしろそのことを越えて、この定員外の人物の中で、マタイ28・19の意味で、まことの使徒行伝が、すなわち、イエスを異邦人に正しく引き渡す〔伝えていく〕ことが、いまこそ始まるのである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p319-320
神がなし給うたイエス・キリストの引き渡しこそが、本来的な、実在の引き渡し(言い伝え)である。その引き渡しの中で、神の全能の愛が、人間に、力を発揮しつつ向けられた。この引き渡しの中で、神と人間の間の深淵に橋がかけられた。この引き渡しの中で、神は人間を探し求め、見出し給うた。この引き渡しの中で、人間が神の前に立ち、神と共に生きることができる可能性が造り出された。この引き渡しの中で、その点で人間を妨げていたこと、人間を神の敵として、神との契約から閉め出さなければならなかったことが、取り除かれた。この引き渡しの中で、人間が、その罪からきよめられることによって、神の国にはいる門が開かれ、永遠の生命へのその確かな希望の基礎づけにまできた。この引き渡しの中で、教会は、誰かの人間的な手が、それに対してただ指一本だけでもふれる前に、基礎づけられたし、また基礎づけられている。その引き渡しの中で、神はわれわれのために危険におもむき給うた。なぜといって人間と、神ご自身人間となり、人間としてほかの人たちの間にまじって、彼らのもとでご自分の事柄をなしてゆくという仕方で、人間と、かかわることは、どうして神にとって危険で、迷惑となることでなく、人間の栄誉を脅かすものでないはずがあろうか。この引き渡しの中で、神は、この危険に、事実、屈し、人間としてほかの人間たちによって無力にされ、捨てられ、殺されることを進んで身にうけ給うたのである。しかし、まさにこの引き渡しの中で、神は人間にかかわるそのよき意志を、まさに次のことー神がこの危険に身をさらし、まさにこの危険に屈することの中でこそ、人間のため、その益のため、その救いのため、永遠の生命の希望の基礎づけのために、決定的な一歩をなすことーによって、実行に移し給うた。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p356
しかし、そのことでもって、また、神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間、に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、必要なすべてのことが語られたのである。答えは、ただ次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望ー彼に対して、福音の中で与えられている希望ーをつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。彼は神の前で、捨てられた者としての独立した存在をもっていない。彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者である。すなわち、その棄却の中で、棄却からして、選ばれた捨てられた者ーそのものたちの中にユダが生きていたが、しかしまた、(パウロにおいてそのことが起こったように)殺された、捨てられた者ーである。彼らは捨てられた者ーそのようなものとして、信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者ーである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p372
アイルランド出身のロックバンドU2は、イスカリオテ・ユダである私たちのことを幾つかの歌にしている。
キリスト論と三位一体論について
イエス・キリストは、ナザレのイエスとして処女マリヤの胎内で受胎し、出生した時(クリスマス)に、はじめて存在するようになった方ではありません。永遠のはじめから神とともにおられ、父のふところにおられ、永遠のはじめから父との愛の交わり、聖霊の交わりの中におられる方です。永遠の神の内的生命の中におられるのは、単に永遠なるロゴスではなく、肉となった永遠のロゴス、人間イエスです。このことは教会の教理の中で、三位一体論と呼ばれています。
John 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2 この方は、初めに神とともにおられた。 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。 7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。 8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。 9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」 16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
三位一体の神の内部において、イエス・キリストだけを切り離し、父および聖霊との関係をぬきにして考えることはできません。それ故、私たち人間の間でも、人間を他者との関係から切り離して考えたり、男性と女性という関係をぬきにして人間とは何かを考えてはならないのです。