牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の第13章より

牧師 その神学と実践

1、教会の奉仕(仕事)には終わりがない
 小学校の教師と一緒に仕事をしているある人物にインタビューをしたことことがある。「良き教師は、刈り取る者であるよりも、種蒔く者であることに満足しなければならない」と、彼は言った。「教師は自分の努力が、即座に、明確に、そして具体的に成果を上げるのを見ようと思ってはならない。もしそうした努力が生徒に何らかの影響を与えるとしたら、それは彼らのその後の人生においてであって、生徒たちが学校を去ってからずいぶんたった後のことなのだ。」牧師の働きにもこれと同じことが言える。パウロが記しているように、彼が植え、誰かが水を注ぎ、そしてまた、別な誰かがその収穫にあずかることになるのだが、いずれにしても成長させてくださるのは神なのである(1コリント3:6)。

2、教会が明確な「良い牧師像」を共有していない
 ひとりひとりの教会員の思い描く「良い牧師像」が漠然としており、彼らが牧師の果たすべきことがらとして期待するものがあまりにも多岐にわたりばらばらであるために、あわれにも、教会員に十分な仕事を果たしていないと感じる牧師があまりにも多く存在する。

3、教会は、非常に困窮している人々の港であり、避難所である
 よく言われるように、教会は「病人にとっての病院」のような存在である。病気のせいで痛みを抱えている人々は、往々にして気難しく、また要求過多になることがある。こうした人々は、空虚さや混乱、困窮、そして期待を抱えながら、教会にやって来る。多くの場合、人間は傷ついているときに敵対的な姿勢を示すことがある。一方では助けが欲しいと感じているにもかかわらず、助けを拒み、かえって、助けようとしている人に向かって非難を浴びせることすらある。もし教会がこうした仕事を引き受けようとするなら、おそらく教会の中には、他のいろいろな施設よりも高い割合で、このような傷つき困窮した人々が存在することになるだろう。

4、牧師はペルソナのもとで多くの時間を過ごさなければならない(仮面の道化師の心理)
 ペルソナ(仮面)は、必ずしも演技でもなければ、欺瞞的なゼスチャーということでもない。それは、私たちの中のある部分を隠すことによって、自分自身を守る手段である。それは、私たちが自分の責任を果たすために世の中に出て行くときの職業上の顔なのだ。牧師がジェームズ・スミス氏のところに行ってお悔やみを言い、そのケアをするとき、それは決して彼を欺いているわけではない。そうしたとき、牧師は悲嘆にくれている人間に対して牧師としての心遣いを示すという、より大きな善を行うために、自分の個人的感情を脇においているだけなのである。

 けれどもペルソナがうまく機能しないときもある。牧師の役割から離れる機会を拒む牧師はひじょうに多い。そうした人々はつねに牧師であろうとする。彼らは、マスクをはずし、足を投げ出して休むような時を、片時も持たない。・・・このマスクをつけっぱなしにして、あまりに多くのエネルギーを使いすぎると、すなわち、牧師という役を降りてマスクをはずし、自分自身の姿に戻る機会が失われてしまうと、本当の自己と私たちが演じている役割との間に根本的な分離が生じることになる。

5、困難な状況のストレスで、疲労困憊する
 「あなたは外科医に何を期待しますか」と、彼女は答えた。「私たちのする仕事の90パーセントは、ただ患者のそばに立って、自然の成り行きによって状態が好転するか、それともまったくの機能不全に陥るかを見守っているだけなのです。重い脳の障害や損傷に対して、実際に対処できることはほとんどありません。無力なまま、どうすることもできずに、何日間もそばに立ったまま、その人の寿命が尽きるのを見ているだけです。それが、私たちがその人にしてあげれることなのです。」

 教会の牧師もまた、人々が死んでいくのを、彼らの結婚が失敗に終わるのを、彼らの癌が治らないのを、彼らの情熱が衰えていくのを、そして、彼らの以前からの自殺願望がふたたび頭をもたげてくるのを、どうすることもできないまま、ただそばに立っているしかないという経験を、何度も何度も繰り返すことになる。それが牧師のしなければならないことなのだ。だからこそ、アクィナスは、牧会者の徳目表の最初に「弱っている人々のために忍耐すること」と挙げたのである。

6、物質主義の時代的・文化的背景との大きなギャップ
 現代の私たちは、金銭に価値を置き、給料の額で人の値打ちを決めるような文化の中に暮らしている。脳外科医の仕事は難しく、緊張の連続で、きつい仕事である。そして、それに相応して、外科医は高給取りでもある。他方、牧師の仕事は、人々から賞賛されはするものの、その給料のことを考えてみると、物質主義的な階級制度の中で自分がどの辺りに位置するかを、牧師ははっきり知らされることになる。もっとも愛他主義の精神に満ちた牧師であっても、この給料の低さでは、自分の値打ちが十分に測られていると実感することは困難である。

7、「教勢の低下」という状況の下で失望する
 ふたりの宗教社会学者が著した『アメリカの主流派宗教ー変わりゆく形態と未来』の中で、著者たちは、教会に属する人々の動向を包括的に研究し、以下のような予言を記している。

 主要なプロテスタントの諸教派は、長期にわたって減衰の一途をたどってきたが、数的な面においても、社会的な実力や影響力においても、今後も引き続きその地盤を失い続けていくことになるだろう。プロテスタントに属する人口の割合は、来る数十年の間に徐々に低下し続けるだろう。

8、教会の働きの多くは「頭中心」のデスクワークになりがち
 感情的な問題や人間関係の問題は、肉体を無視した結果だったということがよくあるものだ。多くの研究が、肉体の運動はストレスを大いに軽減することを示している。一般的に言って、仕事の内容が頭脳に関わるものであればあるほど、身体に養分を補給する必要がある。人は、脳だけの存在でもなければ、肉体を持たない魂というわけでもない。私たちは被造物であり、その行動のすべてにおいて心身の相関性を備えた動物なのである。人間の生き物としての被造性を忘れることは危険である。

9、時間管理の不手際による精神的消耗
 故ヘンリ・ナウエンが語ったように、「もし、牧師が自らの職務における絶対的本質が何であるかを知らないなら、その牧師は、『いわゆる大切とみなされること』を行うようになっていく。」牧師の行うことの大半はいずれも「大切なこと」なのだから、本質的なことを見分けることができないとすれば、任職された牧師の上には、飽き飽きするほどの達成不能な重荷の数々が負わされることになるだけである。

10、牧師の職務は通常混乱状態の中で行われることを認められない性格
 ある牧会カウンセラーから教えられたことだが、牧師という職務を幸いな形で成し遂げる上で欠くことのできない性格とは、「曖昧さに対する許容度の高さ」であるという。「几帳面であること。正確であること。そして秩序だっていることをとりわけ重視する正確の牧師は、その職務において悲惨な結果を迎える。人生とは混乱したものであり、人々は不可解な存在であり、(あなたが人々のことを知れば知るほど)牧師の望む基準に達するような人間はわずかしかいないことが分かるようになる。印刷関係の仕事や写真家のような仕事をしていた人々は、決して牧師になどなるべきではない。

 もちろん、この発言には冗談も含まれている。しかし、彼の示す禁止事項はなかなか興味深い。緻密であることを求められる印刷業者、読みやすく整然とした仕事を求められる印刷業者からすれば、教会生活は混乱したものに見えることだろう。また、もしあなたが人生というものを、ピントを合わせ、すべての動きを固定した上で、カメラの小さな穴を通して見えることがらに限定するような仕方で理解しているとすれば、教会の中で牧師は正気を失ってしまうことだろう。

11、所属教派の価値観、神学的立場、職制、規則などとの不一致
 牧師や信徒が教派の中のリーダーや計画のことであれこれと言い合っても構わないが、それでも、自分たちがその教派の一員であり、全体の方向性には共感を持っているという状態が保たれていなければならない。教派の方向性もしくは性格の転換、あるいは牧師や信徒の神学もしくは性格の転換は、個々人と教会組織の間に深刻な亀裂を生み出すことがある。

12、女性教職の受ける性差別的な意識の犠牲
 私たちが二十世紀の後半に学んだことは、単に女性の任職を実施し、女性にも牧師としての召命に応えることを認めるだけでは、彼女たちが牧師の職務を果たすことを支えるには不十分だということであった。女性教職に対する抵抗、偏見、敵意との絶えざる闘いが、彼女たちを疲弊させている。

13、「この世の諸々の支配と権威」が福音と説教者に敵対している
 これまでに列挙した多くの要因が示していることは、教会そのものが牧師の職務に対する敵となることがあるという事実である。否、聖書によれば(エペソ6:12)、福音は宇宙的な諸々の力と敵対するものなのだ。任職された牧師のリーダーシップに対する挑戦は、社会学的なものだけでなく、神学的なものである。サタンとその仲間は、私たち牧師の職務を打倒しようとして躍起になっているのだ。

安息年休暇グレイスノート 2014 SUMMER

早いもので、2000年春に東海聖書神学塾の教職志願者コースを卒業し、教会の働きに教職として関わる恵みに入れられてから、はや14年経ちました。ただ主の恵みとあわれみのみです。

最初の7年(2000年〜2007年)は、愛知県豊橋市の豊橋ホサナキリスト教会にて、次の7年(2007年〜2014年)は、埼玉県北葛飾郡杉戸町の杉戸キリスト教会にて、伝道牧会の働きに携わりました。

7年目はちょうど転任の時期と重なったため、安息年休暇はとることができませんでした。けれども、今年は教職14年目ということで、2週間安息年休暇をいただくことができました。教職教育部の先生方と杉戸キリスト教会の皆さんに心より感謝します。これまで休みといっても日曜日を挟まない形で、休み中も説教準備をしながらという休みでした。ですから感謝とともに、以下に安息年休暇の恵みを記します。

池の主

まず妻の実家がある長野に向かい、それから私の実家がある高知を旅して埼玉に戻って来ました。全部で2,100KmぐらいDRIVE JAPANしました。「貴重な時間を大切な人のために使うのが愛」だというバイブルメッセージを実践できて、疲れたけど最高でした!

8月18日(月):韓国短期宣教チーム受け入れ、世界宣教大会、主日礼拝奉仕などで力尽き、午前中に二週間分の週報原稿などを仕上げ、何とか荷物をまとめる。昼ごはんを食べて杉戸から長野の実家に車で移動。夕方5時ぐらいに到着。

8月19日(火):おばあちゃんと一緒に飯綱高原・大座法師池へ。ランチにざるそばを食べる。おじいちゃんはバイクで病院へ検査。かつて少年飛行兵だったおじいちゃんから戦争体験などを伺う。もう少し戦争が長引いていれば、おじいちゃんは帰らぬ人になっていた。そうすると私の妻も存在しなかったはず。二度と戦争が起こりませんように。

8月20日(水):長野の実家での滞在3日目。郵便局の後全員でイオンタウンへ。はま寿司でランチ。広島では深夜の集中豪雨でひどい土砂災害。夕方から長野市内でも雷と強風。長野は昼間だけ少し暑いが、一階はかなり涼しい避暑地で感謝。

8月21日(木):午前中はゆっくり。ランチはサンドイッチ。午後からは私たちだけでHANGRY CATERPILLARでコーヒーとケーキ。大座法師池のボート、パンダ号に家族3人で乗る。飯綱山登山口も確認。

8月22日(金):朝食を食べてから飯縄山登山。晴天に恵まれて壮大なパノラマを満喫。写真はゴミ写りと感度6400固定のままというミスでちょっと残念。

8月23日(土):午後から小布施道の駅に出かける。栗のソフトクリームを食べる。

8月24日(日):午前中は長野めぐみ教会で礼拝。平島先生ご夫妻も夏期休暇中で、ベネディクト宣教師がメッセージを語ってくださる。流暢な日本語は、両親が宣教師で日本で生まれ育ったからとのこと。9月ウォーク・ウイズ・ジーザス奥州街道歩いて伝道で杉戸に来られる予定。長野でも夕食に鰹のたたきをいただく。

8月25日(月):朝食後、8時半に長野の実家を出発。高知に着いたのは午後6時ぐらい。夕飯にビーフカレーを食べる。

8月26日(火):午前から海を見に桂浜へ行く。水族館に入り、鰹のたたき定食を食べて帰る。坂本龍馬と太平洋とアカメに会えた。晴天で気温は35度まで上がる。おじいちゃんが来る。鮎の塩焼きとチキン照り焼きをいただく。

8月27日(水):午前中は二階の掃除。89歳のばあちゃんが来て一緒に昼食。夕方すべり山へ。

8月28日(木):おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に足摺岬へドライブ。伊野インターから高速に。8時半発で12時に足摺岬着。海が青い。黒潮接岸地臼ばえから竜串まで行った後、帰路に。帰りはずっと雨。かなり疲れが出る。

8月29日(金):昨日の疲れを覚えてゆっくり休む。

8月30日(土):朝食を食べてアンパンマンミュージアム(香美市立やなせたかし記念館)へ。晴天に恵まれる。高知イオンモールに寄り、コインランドリーで洗濯。かつての商店街は寂れ、今はイオンモール賑わい。おじいちゃんが手作りパン、鹿肉とアメゴの薫製、チキンライスを差し入れてくれる。すき焼きと一緒に美味しくいただいた。

8月31日(日):朝は高知一粒の麦キリスト教会へ。リフォーム中の新会堂で礼拝。すてきなハンドベルの音色。肝試しのグッズ。若者たちの元気な賛美。高知高専、豊橋技科大、東海聖書神学塾いずれも先輩にあたる森澤伸次牧師のメッセージ。もとひろくん、かほちゃんの成長に驚く。冷やし中華食べながら分かち合い。ギター賛美。バンドにドラムスで途中まで加わって教会を後にする。ばあちゃん、のりあきさん、みっちゃん、父上、母上、全員集合。午後4時半には皆に見送られて高知を後にし淡路島のホテルへ。南国PAでお土産を買う。車の中に蚊が侵入。8時前にチェックイン。

9月 1日(月):淡路島から杉戸へロングドライブ。草津JCTから新名神、豪雨の名港トリトン。刈谷パーキングエリアでランチ。味噌カツ丼、きしめん、大あんまき。新東名、東名海老名JCTから圏央道へ。ガソリン補給のため高尾山ICで下へ。再度圏央道に乗って桶川北本まで。杉戸サイゼリアで夕食。カスミで買い物。無事帰宅。全行程が守られ感謝。祈りに覚えてくださった皆様、留守番をしてくださった皆様、そして礼拝メッセージをしてくださった兄に心から感謝。

ピットインしないで走り続ける車。

休憩しないで長距離ドライブする車。

ガソリンスタンドに入らないで走り続ける車。

水分補給しないで走り続けるマラソン選手。

仕事を中断して研ぐことをしないで、切れ味が鈍くなった斧を、がむしゃらに力を込めて振り回し続ける者。

休暇を取ってスキル・熟練技術を磨くことをしないで、昼も夜も職場を離れず、黙々と働き続ける者。

人生という過酷な耐久レースをリタイアせずに走り抜くためには、何が必要だろうか?

より良い仕事を効率良くするためには、何が必要だろうか?

安息日と安息年休暇。休むことは罪じゃない!

聖書が語る大切なこと

聖書が語る大切なこと

 しかし、あなたがたの天の父は、
 それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 だから、あすのための心配は無用です。
 あすのことはあすが心配します。
 労苦はその日その日に、十分あります。
 マタイ6:32-34→主の祈りの前半と後半、十字架の縦棒と横棒

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
 という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
 マタイ22:37−40→十戒の前半と後半、十字架の縦棒と横棒

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
 そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、
 彼らを教えなさい。
 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 マタイ28:18−20→世界宣教教育命令