まず縦棒 それから横棒 自ずから

十字架

十字架には縦棒と横棒がある。

十字架の縦棒は「天の神」と「地の私」との垂直的関係、対神関係に例えることができる。
十字架の横棒は「私」と「隣人」との水平的関係、対人関係に例えることができる。

対人関係を良くしたいと願うならば、まず「天の神」と「地の私」との垂直的関係を回復しなければならない。
神との関係が和解し、縦棒が回復するならば、隣人との関係も自ずから和解と回復に導かれる。

「まず縦棒 それから横棒 自ずから」。これが聖書的原則、スピリチャルな原則である。

聖書の中でも特に大切な「十戒」と「主の祈り」は、まさにこの「まず縦棒それから横棒」という原則に基づいている。
いずれもまず「天の神」と「地の私」との垂直的関係が取り扱われ、それから私と隣人との水平的関係が取り扱われる。

ではどうすれば、十字架の縦棒、「天の神」と「地の私」との垂直的関係、縦の関係を回復することができるのか?

祈りと黙想の中で天を見上げ、聖霊の助けを祈り求めながら聖書に耳を傾け、主イエス・キリストの十字架を見上げる。そして以下のことに思いを巡らすなら、十字架の縦棒、「天の神」と「地の私」との垂直的関係、縦の関係を回復することができる。

まず神が、私を造り、存在へと招いてくださり、私の存在そのものを喜んでおられること。
まず神が、私に存在価値と意味、目的、使命を与えてくださったこと。
まず神が、愛し難い私を愛してくださったこと。
まず神が、受け入れ難い私を受け入れてくださったこと。
まず神が、赦し難い私を赦してくださったこと。
まず神が、私の隣人となって仕えてくださったこと。
まず神が、私のために命をかけてくださったこと。
まず神が、私のために最も大切なものを十字架で献げてくださったこと。

ONLY JESUS ただ主イエスだけ

ONLY JESUS ただ主イエスだけ

さあ思い出せ
だれが罪がないのに滅びた者があるか?
ONLY JESUS ただ主イエスだけ

さあ思い出せ
どこに正しい人で絶たれた者があるか?
ONLY JESUS ただ主イエスだけ

人は神の前に正しくありえようか?
ONLY JESUS ただ主イエスだけ
人はその造り主の前にきよくありえようか?
ONLY JESUS ただ主イエスだけ

人の考えでは
害毒を蒔く者が、それを刈り取る
だけど聖書は語る
害毒を蒔く私ではなく ただ主イエス・キリストが
十字架の上でそれを刈り取ってくださった

受難日に

受難週に、特に主イエスが十字架で死なれた受難日・聖金曜日に、
私たち人間の内側・心の奥底に潜んでいる罪深さを改めて覚えている。

普通の人間の内にある心の闇、罪深さは、
条件さえ整えば外側に言動となって吹き出す。
しかしそれ以前においても、
主イエスが教えてくださった主の祈りによって、最も明瞭に暴き出される。

天からの啓示・神の言葉という強力なスポットライトによって、
闇に紛れていた的が照らし出される時、
初めて何が的外れ・罪なのかが明らかにされる。

見事に的を照らし出している主の祈りを裏返すと、
私たち罪人の内にあるエゴイスティックで邪悪な願望が、以下のように明文化される。

「私の名前があがめられるように。
 私を中心とした私の国が来るように。
 私の心願が成就するように。地においても天においても。
 私は己の力と悟りによって今日も収入を得、自力で糧を得ることができる。
 神など必要ない。
 誰でも私に罪を犯す者は、決して赦さないでいつか必ず報復してやる。倍返しだ。
 私は自力であらゆる誘惑に打ち勝ち、己を己によって悪から救い出そう。
 救い主・キリストなど必要ない。私が救い主だ。
 国と力と栄え、世界に満ちているすべてのものは、私のものだ。」
 
これほど自己中心な祈りがあるだろうか。
これほど自分勝手な祈りがあるだろうか。
これほど的外れな祈りがあるだろうか。
これほど悪魔的な祈りがあるだろうか。
そして罪人にとって、これほど自然な祈りがあるだろうか。

これは神を神とせず、 自分が神になることを願う祈り。
これは神を第一とせず、自分を第一とする祈り。
これは神を中心とせず、自分を中心にする祈り。
これは神の義を求めず、自分の義を求める祈り。
これは心を尽くして自分に拠り頼み、自分の悟りにたより、主なる神を認めない祈り。
この内容と方向性こそが聖書が語っている罪。
そしてこれが、私たち人間が、
人となられた神の御子・主イエス・キリストを十字架につけて殺した動機。

絶対にこの祈りに意識的にアーメンと言ってはならない。
主の祈りを己の祈りとすることによって、この罪に立ち向かい続け、
罪と死に勝利された主イエスによって、この罪に勝利しなければならない。

礼拝メッセージ「十字架のことば」

礼拝メッセージ「十字架のことば」(クリックで聴けます)

聖書箇所:1コリント人への手紙1章18ー25節

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。1コリント1章18節

十字架のことば

十字架のことば

杉戸キリスト教会地図

明日は杉戸夏祭りのため、教会前道路でも午後1時半から夜9時半まで交通規制があります。
koutuukisei2013

杉戸夏祭り2013

靖国神社参拝について

かつて国のためにいのちをかけて戦い、そして死んでいった人たちのための神社。
国のためにいのちをかける国民のための神社。
過去の戦争を美化し、これからも戦争をするための神社。
それが靖国神社である。
大変残念なことに、今年多くの国会議員の方々が、靖国神社を参拝された。

しかし私は、
人となられた真の神であられる主イエス・キリストによって、
奴隷の家、死の家から、いのちがけで救い出された。
真の神であられ、王の王、主の主であられ、良い羊飼いであられる主イエスは、
私のような小さな者のために、十字架で身代わりにいのちを捨ててくださった。
三日目に死人の内から復活された主イエスは今も生きておられる。
主イエスこそ、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられるお方。
それ故に私は、まことの神だけを礼拝し、主イエス・キリストに従う者に変えられた。

三本木 with PENTAX K-5

三本木 with PENTAX K-5

埼玉県杉戸町と宮代町の間には、かつての利根川本流が流れています。今はゆったりとした流れになって、古利根川と呼ばれています。この場所に来ると、福音書の中に記されている3本の十字架をいつも覚えます。

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙4章1ー16節

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ4章1-8節

今年も受難週を迎えました。春を迎えるために厳しい寒さを通らなければならないように、イースター(復活祭)を迎えるためには、厳しい受難週を通らなければなりません。

同様に、あなたが罪をおおわれた人たちの幸いに至るには、あなたが自分の罪深さと無力さをごまかさずに認め、自分で自分を救えないことを素直に認め、神に降伏することがどうしても必要です。

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、アブラハムやダビデのように、その信仰が義とみなされるのです。罪がおおわれるとは、神があなたの罪を完全に忘れてくださり、すべてなかったことにしてくださるという恵みです。

十字架への道 ヴィア・ドロローサ 白黒版

十字架への道 ヴィア・ドロローサ 白黒版

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙3章1ー18節

しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか‐‐私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。‐‐もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。ローマ3章5-9節

悲惨な出来事の中で、「神がいるならどうしてこんなことが起こるのか?」という問いが生じます。

この問いの背後には、「怒りを下す神は不正である」という人間中心的な神学があります。「愛の神は正しいが、怒りを下す神は正しくない」、「赦す神は正しいが、裁く神は間違っている」というような考えです。このような神学は、「十字架を必要としない見せかけの神の愛と赦し」に行き着きます。

このような人間中心的な神学に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強調します。

本当の神は、私たちの身代わりとして、十字架に磔にされたひとり子イエス・キリストの上に、容赦のない怒りを下された神です。