SHINRIN PARK 2018-11-23
宣教する霊性
映画「パウロ 愛と赦しの物語」
少し早いクリスマスプレゼントとして、映画鑑賞の機会が与えられた。感謝します!
忘れないうちに、渋谷まで出かけて観た映画に対する私の応答(レスポンス)を記します。
聖書はアカデミックな神学論文ではない。書斎や研究室ではなく、獄中や隠れ家のような所で書き記されたから。
聖書は愛の手紙である。絶望的な現実の中にいる仲間を励まし支えるために、命がけで書き記されたから。
聖書は真の平和を造り出す真理のメッセージである。迫害や暴力や虐殺や処刑や殉教のただ中で、それでもなお武力による報復ではなく、主イエス・キリストの十字架の赦しの愛に生きるようにと語る神からのメッセージだから。
15名の宣教師の内12名は信徒伝道者!
食物アレルギーについて
Mr.Children「Your Song」MV
あなたに伝えたいこと
あなたに伝えたいこと
20歳の時、ある友人から聖書をプレゼントされました。しかし、自分には関係のない世界だと思って読みませんでした。でも、毎日の単調な生活の中で、何のためにいきているのかがわからず、空しさと孤独感を持って生きていました。
そのころ住んでいた所の窓から外を見ると、一本の葉を落とした木が木枯らしに吹かれて揺れている姿があり、私の心もまるですきま風が吹くようでした。自分もいつか死んでしまう存在。そして、一度しかない人生をどうやって生きれば後悔しないような歩みができるのか、わからなかったからです。
でも、北海道の塩狩峠で列車が暴走したときに、列車の前に身を投げて乗客を助けた一人のクリスチャンのことを読みました。自分にはない何かを、クリスチャンは持っているような気がして、自分で聖書を読み始めました。
聖書はまるで本当の自分を映し出す鏡のようで、私は自分の心の中の醜さ、弱さを知りました。しかし、人間が造った神ではなく、人間を、そしてこの無限の大宇宙を造られた神のひとり子、イエス・キリストは、私たちの心もすべてご存知で、ありのままの私たちを愛していてくださっていることを知り、イエス様を信じ、心にお迎えする祈りをしてクリスチャンになりました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という聖書のことばを、イエス様が私の罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえって、今も生きておられることを信じたのです。
その次の朝のことでした。朝起きて窓から外を見ると、昨日まで色あせていた景色が新鮮で輝いて見えました。生きていてよかった。いや私は神によって生かされているのだという感謝の思いと喜びが、まるで泉のように湧き上がってきました。そして心の中は、晴れ渡った青空のように、空しさや孤独感がなくなっていました。
私は今、イエス様の素晴らしさを知る者に変えられました。この素晴らしいイエス様を、あなたにもぜひ知って欲しいのです。イエス様はあなたを愛しておられます。ぜひ十字架が掲げられたキリスト教会に足を運んでみてください。神さまからのラブレターと呼ばれている聖書を読んでみてください。あなたの上に、イエス様の祝福が豊かにありますように。
まず縦棒 それから横棒 自ずから
十字架には縦棒と横棒がある。
十字架の縦棒は「天の神」と「地の私」との垂直的関係、対神関係に例えることができる。
十字架の横棒は「私」と「隣人」との水平的関係、対人関係に例えることができる。
対人関係を良くしたいと願うならば、まず「天の神」と「地の私」との垂直的関係を回復しなければならない。
神との関係が和解し、縦棒が回復するならば、隣人との関係も自ずから和解と回復に導かれる。
「まず縦棒 それから横棒 自ずから」。これが聖書的原則、スピリチャルな原則である。
聖書の中でも特に大切な「十戒」と「主の祈り」は、まさにこの「まず縦棒それから横棒」という原則に基づいている。
いずれもまず「天の神」と「地の私」との垂直的関係が取り扱われ、それから私と隣人との水平的関係が取り扱われる。
ではどうすれば、十字架の縦棒、「天の神」と「地の私」との垂直的関係、縦の関係を回復することができるのか?
祈りと黙想の中で天を見上げ、聖霊の助けを祈り求めながら聖書に耳を傾け、主イエス・キリストの十字架を見上げる。そして以下のことに思いを巡らすなら、十字架の縦棒、「天の神」と「地の私」との垂直的関係、縦の関係を回復することができる。
まず神が、私を造り、存在へと招いてくださり、私の存在そのものを喜んでおられること。
まず神が、私に存在価値と意味、目的、使命を与えてくださったこと。
まず神が、愛し難い私を愛してくださったこと。
まず神が、受け入れ難い私を受け入れてくださったこと。
まず神が、赦し難い私を赦してくださったこと。
まず神が、私の隣人となって仕えてくださったこと。
まず神が、私のために命をかけてくださったこと。
まず神が、私のために最も大切なものを十字架で献げてくださったこと。