眠れない夜、不安な夜のためのバイブル

眠れない夜、不安な夜のためのバイブル

新約聖書 マタイの福音書6章25ー34節より(新改訳2017)

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

祈る主イエス

苦しみの中におられる方々のために…A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

苦しみの中におられる方々のために

私は神に強さを求めました。成し遂げるために。
でも私は、弱い者とされました。従うための謙遜を学ぶために。

私は健康を求めました。より偉大なことをするために。
でも私は、病弱を戴いたのです。より良きことができるように。

私は富を求めました。幸せになるために。
でも私は、貧しさを授かりました。賢い者であるように。

私は力を求めました。世の人々の称賛を得るために。
でも私は、弱さを授かりました。絶えず神に寄りすがる必要を覚えるために。

私はあらゆるものを求めました。人生を楽しむために。
でも私は、命を授かったのです。すべてのことを喜び楽しめるように。

私が求めたものは何一つとして与えられませんでした。
けれども、私の願いは、すべて神に聞き届けられたのです。

私は神の意に添わぬ者であるにも拘わらず、
心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられたのです。

私はすべての人の中で、最も豊かに祝福されたのです。

この詩は、青銅の盾に刻まれて、ニューヨーク市イーストリバー沿いの東400丁目、34番街にあるリバビリテーション診療所の待合室の壁にかけられている。作者不明。野町試訳。

僕らは結局、自分の願いが叶えられることを必死で願っているかもしれない。でも神さまは、僕らの願いをはるかに超えた形で、必ず願いを叶えてくださる!

A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve   
I was made weak, that I might learn humbly to obey…

I asked for health, that I might do greater things   
I was given infirmity, that I might do better things…

I asked for riches, that I might be happy   
I was given poverty, that I might be wise…

I asked for power, that I might have the praise of men   
I was given weakness, that I might feel the need of God…

I asked for all things, that I might enjoy life   
I was given life, that I might enjoy all things…

I got nothing that I asked for — but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.  
I am among all men, most richly blessed!
(Author unknown)

This creed is hung on a wall at a waiting room of Institute of Rehabilitation Medicine, 400 East 34th Street NYC

皇海山山麓栗原川林道

梅雨の合間に皇海山山麓にある栗原川林道に行ってきました。
途中で車を止めて林道を歩くと、狸、鹿、雉などに出会いました。
時間の関係で皇海山の登山口にはたどり着けなくて、途中で引き返しました。

ワークアウト詳細

栗原川林道の絶壁

狸

雉

皇海山山麓栗原川林道2019-06-17

暗闇に支配されないように

暗闇に支配された人々によって、毎日のように悲惨な出来事が起こっている。

そして、多くの人たちの心が痛んでいる。

だから、浜田省吾さんの歌「光の糸」の歌詞をぜひ紹介したい。

「暗闇に支配されないように」という祈りと願いが込められた歌だから。

光の糸

作詞:浜田省吾
作曲:浜田省吾

早春の入り江に さざ波寄せる
茜色に染まった 雲間に沈む夕日
波打ち際 跳ねる子どもたちの 笑い声に包まれ
このかけがえのない 静かな世界を
守ることを 誓う 心に強く

命の炎を高くかざして 道を照らせ
命の炎が燃え尽きるまで 友よ共に

未来へ連なる 光の糸を紡いでいこう
暗闇に 支配されないように
つないだ小さな手の温もりを 闘う勇気に変えて
残されたわずかな 時間の中で
焦らないで 緩まないで 生きる

命の炎を高くかざして 道を照らせ
来る日も来る日も燃え尽きるまで 友よ共に

日は落ち黄昏の青に縁どられて
自転車こぐ子どもらの弾んだ声 
我が家への道をたどる
新しい歌 懐かしい歌 歌って

命の炎を高くかざして 道を照らせ
来る日も来る日も燃え尽きるまで 友よ共に

立体的福音宣教について

立体的福音宣教について

私たち日本同盟基督教団は、国内宣教、国外宣教、そして次世代育成の青年宣教を三本柱にしています。現在私は国外宣教委員会から伝道部(国内宣教)に移り、宣教区長も他の先生にしていただいております。

けれども、廣瀬薫理事長が教団誌「世の光」の2019年5月号に書かれている「立体的な宣教」とは、やはり「国内宣教だけに限定されない世界宣教」だと覚えます。

海外在住の邦人宣教、国内在住の外国人宣教、さらには海外で信仰に導かれた後に日本に帰国されるリターニーのフォローアップ。実に聖書が語る「立体的な宣教」とは、それらが互いにリンクしあった、立体的、統合的、多角的な宣教協力ではないでしょうか。さらには、国内宣教においても、諸外国から派遣される宣教師との宣教協力が立体的な宣教をもたらします。

アメリカから次々に遣わされ日本国内で実践的訓練を受けている次世代のTEAM宣教師たち。韓国を中心としたアジアからの多くの宣教師たち。そのような宣教師たちとの宣教協力がさらに豊かにされる。そのような「立体的な宣教」によって、日本とアジアと世界に仕える世界宣教が成し遂げられていくことを夢見ています。

憲法記念日に

憲法の無意識 柄谷行人

 日本では外から危機が生じるとき、いいかえれば、超越的なものが外から到来するとき、内部で天皇を超越化するということです。それを示す最初の例は「大化の改新」(六四五年)です。これが起こったのは、唐が新羅とともにヤマトに到来することが必至と見えた時期です。したがって、つぎのようにいっていいでしょう。日本では、天皇が超越的な存在として実権をもつような時期は、内外において危機的な状態にある、戦乱状態にあるということです。p67

 くりかえすと、憲法九条が根ざすのは、明治維新以後七七年、日本人が目指してきたことの総体に対する悔恨です。それは「徳川の平和」を破って急激にたどった道程への悔恨です。したがって、徳川の「国制」こそ、戦後憲法九条の先行形態であるといえます。
 ただ、私がそのようにいうのは、憲法九条は日本文化に根ざしているという意味ではありません。また、徳川時代の国制を称賛したいわけでもありません。憲法九条が含意するのは、カントが明確にした普遍的な理念です。それについては次章で考えますが、ここまで私が試みてきたのは、その普遍的な理念が、なぜいかにして、他ならぬ日本において制度として定着したのかを示すことです。それは、日本人の意思あるいは理想主義によるものではない。それはむしろ、日本が侵略戦争を行ったことを通して、さらに占領軍による強制を通して実現された。私がそこに見いだすのは、いわば「自然の狡知」です。p79

孤独死とひきこもりについて

近年、孤独死なさる方やひきこもりの方が増えていますが、これは他人事ではないです。もしも私が、キリスト信仰に導かれていなかったとしたら、おそらく私自身がひきこもって、緩やかな自殺を試みたり、孤独死への道を歩んでいたはずだからです。

もしあなたが、ひきこもっておられるなら、以下の聖書のメッセージにぜひ耳を傾けてください。あなたを決して見捨てず、あなたを離れない神、主イエス・キリストの守りと導きが、あなたの上に豊かにありますように。

歌集 高遠

歌集 高遠

あとがきより

・・・二十代に辞めた作歌を七十代後半になって再び始めることになりました。
 その直接のきっかけは、阪神淡路大震災の報道でした。「震災と戦争いずれが悲惨ですか。」と問うリポーターに、愛新覚羅浩さんが、「震災は助け合いがございます。戦争はただ憎み合い殺し合うのみでございます。」と答えておられました。むごい質問だと痛感しました。満州国皇帝の義妹で、日本の皇族の血縁という立場。四才と七才の二児を連れての逃避行。こういった背景の予備知識を持たない質問だったのでしょう。
 私はこの時、自分の戦争体験をうたう事でその一部でも伝えたいと考えました。沈黙を守って来たのは間違いだったと気付いたのです。・・・

望郷・ふる里福島

望郷・ふる里福島

終わりにより

 平成二十八年三月、未曾有の震災の影響で避難していた高齢だった母は、避難先の病院で九十五歳の誕生日を前に生涯を終えました。
 日頃から「死ぬ時は自分の家で、畳の上で死にたい」と言っていた母が、「家に帰りたい」と言いながら、避難先の病院で息を引き取りました。
 母の生涯は何だったのだろうかと思います。最後まで「原発は安全」と信じていた母の最期を思うと残念でなりません。まだ冷静になれない私がいます。虚しく思い、悔し涙がこみ上げてくるのです。
 私は人と人の関係を大事にしたいから、原発には賛成できません。二度とこのような事故を繰り返してはならないと思います。・・・