カテゴリー: 防災
教会がカルト化する原因
大学で実験装置が壊れた時や事故が起きた時などに、耳にたこができるほど教えられたことがある。
それは、「問題が起こったらなぜそのような問題が起こったのかを徹底的に調べよ!原因不明のまま実験装置を再び動かすなら、必ず同じ問題でトラブルが生じるから!」ということであった。
これ以上被害者が出ないために、これ以上キリスト教会がカルト化しないために、教会がカルト化する原因を探り、その問題を解決し、安全対策をしければならない。
教会がカルト化する原因
1、牧師が静まって聖書に聞き、霊的に養われないことによる
ひとごとではない。私は牧師だから知っている。牧師であっても、静まって聖書に聞くことを止めてしまうと、速やかに霊的に枯渇してしまうということを。
霊的に枯渇してしまうと、足場を失い、あらゆる誘惑に対して、無力、無防備となり、流されていく。
暴力や権力の誘惑、性的誘惑、金銭的誘惑、物質的誘惑、地位や名声的誘惑、実利主義、成果主義の誘惑。この世の中に渦巻いている強力な流れに逆らうことができなくなり、流されてしまう。
聖書に聞くことを止める時、神に代わって牧師が教会のオーナー(所有者)、主権者となる。
聖書に聞くことを止める時、牧師は仕えることを止め、仕えられることを切に求めるようになる。
聖書に聞くことを止める時、牧師は愛することではなく、狡猾に支配する者となる。
聖書に聞くことを止める時、牧師は自分のことは棚に上げて、人を批判するだけの者となる。
要するに、聖書に聞くことを止めてしまえば、牧師もただの罪人になるのである。マグロが泳ぐことを止めてしまえば、呼吸ができなくなり、死んでしまうのと同じように、牧師が聖書を読むのを止めてしまえば、霊的呼吸ができなくなり、霊的に死んでしまう。
だから牧師は、どんなに忙しくても、静まって聖書に聞き続け、いつもいのちの水によって潤され続けなければならない。
どうか牧師のために祈ってほしい。牧師がいつも聖書に聞き、霊的に枯渇することがないように。
Genesis Ch. 1 Vs. 32
プログレッシブ・ロックというジャンルに入れられているアラン・パーソンズ・プロジェクトの曲に、このGenesis Ch. 1 Vs. 32という曲がある。
聖書を見ると、創世記1章は31節までしかない。そしてそこには、造られたすべてのものは非常に良かったという記述がある。どうやらその後の世界の様子を、この曲は奏でているようだ。
現実のこの世の中を見渡すなら、まさにこの曲に表現されているような悲愴感、無常感、恐れとおののき、不安と戦慄がある。
今日も日本に何人かの宣教師たちが遣わされている。彼らが日本に来た大きな動機は、日本の自殺者の多さに対する驚きと痛みである。毎日90名前後の方々が自らいのちを絶っている異常な国。それがこの国の現実だ。統計に出てこない部分や自殺未遂者を含めると、これは氷山の一角だ。
また、小さないのちを守る会が真剣になって取り組んでいる性に対する正しい教育と啓蒙活動。それがどうしても必要なのは、この国の中で、生まれて来る前に葬られていく恐ろしい数の小さないのちがあるからだ。
人工妊娠中絶によって闇に葬られている小さないのちは、日本で年間30万弱と言われている(2006年度厚生労働省発表では276,352件)。出生数と比べると、だいたい3人の赤ちゃんが母の胎に宿ったら、そのうち1人しか生まれ出でることが出来ない。産ぶ声をあげることもなく、赤ちゃんが闇に葬り去られている。出生前DNA検査がこれに拍車をかけている。 「お母さんぼくを殺さないで!」・・・声なき声をあげて小さないのちは泣き叫んでいる。 人命軽視と虐待はここから始まっている。
また、狭い日本から目を世界に向けると、平均すると1分間に約17人、1日に25,000人、1年間に1,000万~1,500万人の人々が飢えで死んでいる。世界中から食料を輸入し、余ったものを捨てている日本の現状が問われている。この問題に関しては、日本国際飢餓対策機構が真剣に取り組んでいる。
かつて森総理は「日本は天皇を中心とした神の国である」と発言した。その思想と日の丸・君が代のもとに、どれほどの暴虐が行われ、どれほどの血が流されたのか。韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、中国、シンガポール、タイ、ビルマ(ミャンマー)、マレーシアといったアジア諸国の方々の痛みや、沖縄の方々の痛み、在日の方たちの痛みをまったく感じることができないようだ。
それがまさに、この曲が奏でている現実である。
なぜこの国は、このように夢も希望もない国になってしまったのか。
なぜこの世界は、そのように壊れ逝くのか。
その理由は、創世記3章にはっきりと記されている。
その原因は、・・・神を神としない私に、そしてあなたにある。
善悪の知識の木の実を食べるということは、神を善悪の絶対的基準とすることを止めて、自分を善悪の基準・ものさしとして生きること、つまりそれは、自分を神として、自己中心に自分勝手に生きることだ。聖書はそれを罪と言っている。
自己中心に自分勝手に長さが変わるものさし。人をはかる時には厳しいものさしになり、自分をはかる時には甘いものさしになる。自分にとって都合の悪い人が悪人になり、自分にとって都合の良い人が善人になるものさし。これを持って生活するとどうなるか。
・・・地球の上に夜が来る。
しかし、天地万物を統べ治めておられる主なる神は、やがて8日目の朝を迎えさせてくださる。
TEAM CHRIST チーム・クライスト
リレーや駅伝は、複数の選手がチームとなって試合に臨む。その際、誰かが手を抜くと、チーム全体に迷惑がかかる。しかし、だれも励ます人がいない中で孤軍奮闘するなら、やがてチームワークだということを忘れてしまい、手を抜きたいという誘惑に負けてしまうかもしれない。先行者が手を抜けば、手を抜いた走りを後続者に受け渡すことになってしまう。
教会形成、福音宣教、世界宣教も同じではないかと思う。地理的にも歴史的にも、とても一人で完走できるものではない。だから主なる神はTEAM CHRISTのメンバーである私たち一人一人を必要とされている。TEAM CHRISTには、国籍、文化、時代を越えて、数え切れない人々が招集されている。
日本の場合、単立教会が多い。けれども、そのような場合にこそ、近隣に同労者や助け手を祈り求め、常に一人ではないことを覚えることが必要だと思う。そしてバトンタッチのために、次の時代を担う後継者のために、今すぐに祈り始め、動き始める必要がある。大切な教会の働きが、線香花火のようにならないために。
感謝します THANK YOU LORD ギター弾き語り
病気になったら
病気になったら
病気になったら どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術がこわいといって涙ぐみ
死にたくないよといって めそめそしよう
恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さと思いあがりを知るチャンスを
病気になったら おもいっきり甘えよう
あれが食べたいと言い
こうしてほしいと頼み
もうすこしそばにいてとお願いしよう
遠慮も気づかいもいらない
正直に わがままに自分をさらけだし
赤ん坊のようにみんなに甘えよう
またとないチャンスをもらったのだ
人の情けとまごころに触れるチャンスを
病気になったら 心ゆくまで感動しよう
食べられることがどれほどありがたいことか
歩けることがどんなにすばらしいことか
新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか
忘れていた感謝の心を取りもどし
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう
またとないチャンスをもらったのだ
この瞬間に自分が存在しているという神秘
いのちの不思議に感動するチャンスを
病気になったら すてきな友達をつくろう
同じ病を背負った仲間
日夜看病してくれる人
すぐに駆けつけてくれる友人たち
義理のことばも 儀礼の品もいらない
黙って手を握るだけですべてを分かち合える
あたたかい友達をつくろう
またとないチャンスをもらったのだ
神様がみんなを結んでくれるチャンスを
病気になったら 安心して祈ろう
天にむかって思いのすべてをぶちまけ
どうか助けてくださいと必死にすがり
深夜 ことばを失ってひざまずこう
このわたしを愛して生み慈しんで育て
いつかご自分のもとへ呼んでくださるお方に
すべてをゆだねて手を合わせよう
またとないチャンスをもらったのだ
まことの親である神に出会えるチャンスを
そしていつか 病気が治っても治らなくても
みんなみんな 流した涙の分だけ優しくなり
甘えとわがままをこえて自由になり
感動と感謝によって大きくなり
友達を増やして豊かになり
信じ続けて強くなり
祈りのうちに神の子になるだろう
病気になったら またとないチャンス到来
病のときは恵みのとき
晴佐久昌英 カトリック司祭