牧師家族の冬休み

ファミリーサイクリング

伊豆大島眺望

初島と伊豆大島

ターンパイク箱根S字カーブ

芦ノ湖と富士山

牧師家族の冬休み

芦ノ湖にて

江ノ島トワイライト

何も考えず自転車で出かけなさい

「気分が落ち込んでいるとき、暗く感じる日、仕事が単調に感じるとき、希望が持てないとき、ほかの事は何も考えずに自転車で出かけなさい。」by アーサー・コナン・ドイル

ARAYA Federal

海から57.75km

関宿城サイクリング

ARAYA Federal

江戸川サイクリングロード

ARAYA

通信販売で長崎県島原市の自転車屋さん(自転車生活課ゆう-廣瀬商会)にて自転車を買いました。ARAYAのFederalという自転車です。

ハンドル、前輪、サドルを外した状態で送られて来ましたので、自分でなんとか組み立てました。

その後、杉戸サイクルに行って、防犯登録と一緒に点検整備していただきました。
素人が組み立てたので、案の定、危ない箇所があったとのことで一安心でした。
杉戸愛児園の1期生とのことで、クリスマスの案内LOVE SUGITOのパンフレットをお渡ししました。

YouTube Bible Message

サルーキ=「復活進行」at日比谷野音

キリストの処女降誕について

Annunciation_(Leonardo)_(cropped)

無から天地万物を創造された聖書の神。土地のちり(アダマー)で人を形造り、その鼻にいのちの息・聖なる神の霊(聖霊)を吹き込まれ、生きる人間(アダム)を創造された神。髪の毛や全ての細胞の中に、DNA・遺伝子・精巧な人間の設計図をデザインなさり、人間を男と女とに創造された主なる神にとって、不可能なことは何もありません。人間のデザイナーでありメーカーである神は、マリアがまだ男の人を知らず、男性と性的な関係を持たなくても、マリアを聖霊によって受胎・妊娠させることが可能だったのです。

聖書が語る全体像・世界観による断片化の回復

私たち人間ひとりひとりは、ジグソーパズルの一つ一つのピースのようです。どのピースも形が微妙に違っていて、オンリーワンです。実はあなたも、オンリーワンです。世界中探したって、あなたのようなユニークな人はいません。ですからあなたは、かけがえのない大切な存在です。もしあなたが死んだら、だれもあなたの代わりはできません。

けれども私たちの現実は、ジグソーパズルの全体像が失われたまま、パズルのピースが全部バラバラになってしまったような状態です。それが「断片化」と言われる状態です。自分が本来いるべき場所がわからないのです。どこから来てどこに行くかもわかりません。何のために生まれてきたのか?何のために生きるのか?どんなに悩んでも、どんなに自分探しをしても、人生の意味や生きる理由は見つかりません。

しかし、ジグソーパズルの全体像は、パズルの作者によって、パッケージなどに美しく描かれ、明らかにされています。同じように、断片化し、全体像・世界観が見失われた中で、人間を造られた神、天地万物の創造主である神は、書き記された66巻の聖書を通して、時空を貫く全体像・世界観を見事に描いて見せておられます。

使徒的共同体 芳賀力

使徒的共同体 芳賀力

1、悔い改めと赦しの神的制度
 教会共同体は、悔い改めのない、また赦しのない社会の中で、真実に悔い改める機会と場所を提供し、罪の赦しを伝達する制度として、神によって建てられている。

2、慰めと癒しの神的制度
 教会共同体は、安易な慰めと手軽な癒ししかなく、本当は慰めも癒しも存在しない社会の中で、真実の慰めをもたらし、魂の霊的癒しを与える制度として、神によって建てられている。

3、文脈創出(啓示的語り)の神的制度
 教会共同体は、文脈を喪失し、断片化した小さな物語群によって翻弄される社会の中で、文脈としての大きな物語(グランド・ストーリー)を提供し、善き生についてのヴィジョンを提示して、生きる望みと力を創出する制度として、神によって建てられている。

4、美徳育成の神的制度
 教会共同体は、美徳なき時代に聖書的美徳に生きることを喜んで選び取り、聖書的な神の属性に対応する聖書の民の特性を育成する制度として、神によって建てられている。

5、公同礼拝(祈りと讃美)の神的制度
 そして何よりも教会共同体は、もろもろの民の中より呼び集められ、まことの神を讃美し、共に御名を崇める公の制度として、神によって建てられている。
p88-91

慰めの共同体・教会 クリスティアン・メラー

慰めの共同体・教会 クリスティアン・メラー

今日は、何が何でも若者を崇め奉っているような時代であるが、そのような時代にあっても、高齢者たちに目も留めず、教会堂を埋めているのは、「ほんの僅かな年寄り」ばかりだという言葉でしか、自分の不満を言い表すことができないような人間には、真実の意味で、若者を大切にする姿勢も見られないのである。若い人びとが日常の家庭生活から知っているのは、自分たちの問題が、自分の立場の弁護ばかりしている父親たちよりも、自分の生活をよく考え続けている祖父たちによって、よく理解されているということなのである。このような「社会の支え手である世代」を飛び越えて、孫たちと祖父母たちの間に架けられている、このまことに不思議な橋が、キリスト者の共同体全体が、それによって生かされる財産であることが、既に十分に認識されているであろうか。あるアフリカの賛美の歌において語られているのは、まさにこの財産に関わる祝福にほかならないのである。

私のよろめく足
萎えた手に
理解を示してくれる人びとは、祝福されています
私の耳が苦労しないと
ひとが語りかける言葉を聴き取ることができないことを
よくわかってくれる人びとは、祝福されています
私の目がかすみ
ゆっくりでなければ考えることができなくなっているのを
わかってくれる人びとは、祝福されます
親しい微笑を交わし
しばらくのおしゃべりを楽しんでくれる人びとは、祝福されます
「今日、そのことを二度も口になさいましたよ」と
決して言うまいとしてくれている人びとは、祝福されます
私のこころのうちに、遠い昔の思い出を呼び覚ますすべを
心得ている人びとは、祝福されます
私が愛されており、尊敬されており、ひとりぼっちではないことを
経験させてくださる人びとは、祝福されます
私になお残されている日々を
その優しさで、軽やかな者にしてくれる人びとは
祝福されます
p316-318