礼拝メッセージ「心の扉を叩く音」

礼拝メッセージ「心の扉を叩く音」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録3章20節

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示録3章20節

聖書が語る信仰とは、イエス・キリストを信頼し、受け入れるために、心の扉を開く行動です。それは飲食物、薬、ワクチン、点滴などを信頼して、自分の体内に取り込むことによく似ています。イエス・キリストを信頼して受け入れるためには、イエス・キリストを良く知る必要があります。聖書が語るイエス・キリストは、以下のような素晴らしいお方です。

1、イエス・キリストは、暗くて汚くて臭い所に、喜んで入ってくださるお方です。

2、イエス・キリストは、暗くて汚くて臭い所を、おいしく食事ができる所に、明るくてきれいで良い香りのする所に変えてくださり、いっしょに食事してくださるお方です。

3、イエス・キリストは、毒やウイルスや危険因子ではなく、薬やワクチンや健康食品のような方であり、まさに「神の手」であられる名医です。

イエス・キリストは、今あなたの心の扉をノックしておられます。あなたはどうなさいますか?

心の扉を叩く音

心の扉を叩く音

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礼拝メッセージ「冷たいか熱いかであれ」

礼拝メッセージ「冷たいか熱いかであれ」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録3章14−22節

また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。黙示録3章14-16節

想定外の大災害を防ぐためには、近い未来に何が起こるのかをきちんと想定し、具体的にイメージして備えることが大切です。そのためには「歴史を心に刻みつつ聖書に聞き従う」必要があります。なぜなら「聖書は時が来ると未来の出来事となる神の言葉」であり、「聖書信仰の本質は歴史を心に刻むこと」だからです。

冷たくもなく、熱くもない人。つまりなまぬるい人は、主イエスの口から吐き出されてしまいます。

深刻なのは、やがて主イエスに吐き出される人に、自覚がまったくないことです。まさに盲目となった裸の王様です。自分を欺き、現実から仮想現実(バーチャルリアリティ)へと逃避し、富んで豊かに生きているつもりになっているのです。

しかし主イエスは、愛する者をしかったり懲らしめたりなさるお方です。それが未来を見ることが私たちに許されている理由です。私たちは、主イエスに熱心に愛されている者として、熱心になって悔い改め、人生の向きを変えようではありませんか。

冷たいか熱いかであれ

冷たいか熱いかであれ

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礼拝メッセージ「だれも閉じることのできない門」

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聖書箇所:ヨハネの黙示録3章7−13節

また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。黙示録3章7-8節

未来を見るということは、主イエス・キリストを見ることです。

復活された主イエスは、11人の弟子たちと山の上で再会された時、こう言われました。

「わたしには天においても地においても、
いっさいの権威が与えられています。」(マタイ福音書28章18節)

その主イエスは「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」方です。

だから主イエスは、「わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」と語ることができるお方なのです。

主イエスは、だれも閉じることのできない門を、私たちの前に開いてくださっています。それは日本とアジアと世界における、救いの門であり、天国の門であり、教会の門、つまり福音宣教の門です。

礼拝メッセージ「実はあなたは死んでいる」

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聖書箇所:ヨハネの黙示録3章1−6節

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。黙示録3章1-2節

「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」という主イエスのみことばを心に留めながら、ルカ福音書15章に登場する、あの放蕩息子のお兄さんのことを、思い浮かべてみましょう。

人間的に見れば、お兄さんは家出するわけでもなく、父親に逆らうわけでもなく、毎日黙々と働く立派な息子さんでした。けれども、神の瞳に映ったお兄さんは、まさに「生きているとされているが、実は死んでいる」人でした。

死んでいなくて本当に生きているお兄さんならば、主イエスのように、父に向かって次のように言ったことでしょう。

「お父さん、弟は本当に愚かでした。今ではちゃんとした生活もままならない状態でしょう。でも、僕はあの子を探し出して、家に連れて帰ります。そのために、たぶん、僕の財産も使い果たしてしまうかもしれません。それでもいい。この家族に僕の弟を連れ戻しに行ってきます。」
(ティモシー・ケラー著『「放蕩」する神』より)

神のいつくしみときびしさ

杉戸キリスト教会週報をデジタル化して足跡を振り返ると、今も生きておられ、歴史を導いておられる神を覚えざるを得ません。

特に今年の3月11日に東日本大震災が起こるまでに、主日(日曜日)ごとの礼拝で語らせていただいた聖書箇所とメッセージの内容を覚える時、神のいつくしみと共に、神のきびしさを覚えざるを得ないのです。

なぜなら3月11日に至る前に、私は旧約聖書の創世記から順番に講解説教していて、ちょうどノアの箱舟のテキストにおいて、大洪水のことを語り終えた後、あの大震災と大津波、そして原発震災が起こったのですから。

愛する皆さん。防災のために、ぜひ聖書に書き記されている未来を想定内に入れた人生設計をしてください。聖書に書かれていることはすべて、時が来ると必ず出来事になる、その通りになる確かな神のみことばなのですから。