カテゴリー: 杉戸町
『氷点』解凍 森下辰衛
神から離れているために生きる目的がわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために愛されていることがわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために愛することができなくなるとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために罪をゆるされることがわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
p239-240
同じことをしても、人がしたら悪く、自分がしたら悪くないのだ。不倫の場合などは更に顕著だ。他人のしている不倫は世にも汚らわしいものだが、自分がするのは美しい運命の恋ということになる。そして他人のした善行は「当たり前のこと」なのに、自分のそれは世界に伝えるべき美談になるのだ。人間を計る尺度に自分用と他人用がある。それは、神の方を向かないから可能なのだ。そして、人は皆、自己中心に生きたいので、神の方を向こうとはしない。p69
漱石は、自由や独立や自己という概念をよきものとして移入してきた近代の日本人の心を観察して、その「淋しみ」を描いたのだが、三浦綾子はもうひとつの日本近代の節目であり、また彼女自身の人生の転換点でもあった敗戦後において、日本人の心の実験を始めようとしている。見本林の「すぐ傍ら」に辻口家が設定され、戦後の十七年余の時代を背景にその家族と彼らをめぐる人間たちの愛し憎み、葛藤する心が実験観察されることになる。つまり辻口家は戦後の日本の家族と日本人の心の見本であるのだ。「和、洋館から成る辻口病院長邸」にもそれは表れている。・・・日本的なものと西洋的なものが折衷した家、それはそのまま戦後の日本人の心の時代状況なのだ。p57
「地獄とは、もう愛せないということだ」by ドストエフスキー
「罪とは、もう愛さないということだ」by 森下辰衛
ここには三浦綾子の、そして同時に神の、胸の裂けるような痛みと懊悩と涙があるように感じられる。誰でもいいほど淋しかったのに、誰にも愛されず、誰をも愛せない。それが人間なのか。そこに愛の本源たる神を離れた人間の悲惨がある。p105
就職&仕事のための老婆心
就職&仕事のための老婆心
1、ツイッターやフェイスブックといったSNSやネットを利用する際には、投稿する内容に注意する。
情報社会ですから、入社試験の面接担当などは、入社を希望して面接に来る人のことを知るために、その人の投稿内容などを参考にすることが多いからです。
そしてこれは入社してからも要注意です。SNSやネットは基本的に不特定多数への情報発信ですから、不適切な投稿が発覚すると、せっかくの仕事を辞めなければいけないことにもなりかねません。
あなたの才能や持ち味がいちばん活かせる職場に、1日も早く就職できますように。
2、いきなり正社員を目指すのではなく、まずはアルバイトでも派遣でもさせていただく。
この不況の時代に、会社も余裕がほとんどありません。ですから最初から正社員を目指しての就職活動は無謀です。でも、雇ってもらった所で、信頼されて任された仕事を誠実に一つずつ成し遂げていくなら、近い将来きっと正社員にしてもらえることでしょう。小さなことに忠実であれば、やがて大きな仕事も委ねられることでしょう。
3、今与えられている人間関係を大切にする。
家族や友人、先輩や同僚や後輩との関係を大切にしましょう。特に耳の痛いことを言ってくれる人との関係を大切にしましょう。本当に愛してくれている人は、たとえその時その人が傷ついたとしても、あえて語ります。そして家族のありがたさを本当に理解するためには、逆説的ですが親元を離れて寮やアパートなどに住むことも必要です。親から経済的にも精神的にも自立する。その時、本当の意味で与えられている人間関係を大切にすることができるでしょう。
4、心を尽くして主なる神に拠り頼む。自分の悟りに頼らない
これはとても信仰的かつ霊的なことです。この世的には「己こそ己の寄る辺」、「頼れるのは自分しかいない」、「神に頼るなんて弱い人間のすること」となります。ですからこの世的には、「心を尽くして自分に拠り頼み、自分の悟りに頼る」ということになります。けれども、自分の弱さや限界や無力さを少しでも覚えるならば、その時こそ素直に、「自分は頼りにならない」「私は神に頼らないと生きていけない弱い人間だ」と認めて、苦しい時こそ神頼みをするのです。しかしそこで問題になるのは、どの神を頼りとするのかということです。鼻で息をする人間が勝手に作ったり祭り上げた神々を頼りとしても、救われません。天地万物を創造し、あなたをデザインされた神、あなたを造られたメーカーである神、聖書で「主」と呼ばれている神を頼りとすることが大切です。主なる神にとって、力のある者を助けることも力のない者を助けることも同じです。主なる神にとって能力のある者を助けることも能力のない者を助けることも同じです。主なる神は、助けを求める者を豊かに力強く助け、就職への道を切り開き、そしてその仕事を続けていける力を与えてくださいます。その時あなたは、劣等感と優越感の間から解放され、自由に生きることができます。
父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て
幸せはあなたの心が決める 渡辺和子
目次より
第1章 人は不完全なもの
人は不完全なもの
人を許せば自分も救われる
人と人とのあいだを美しくみよう
意地悪く批判しない
真の愛にはきびしさがある
聞きたくない意見にたいせつなヒントがある
依頼心を捨てた時に力が生まれる
幸・不幸は、自分に由る
社会に歩みだすあなたへ
第2章 求めたものが与えられなくても
挫折のすすめ
失ったものではなく得たものに目を向けて生きよう
「あなたは何さまなの?」
人間には問題をどうとらえるかを選ぶ自由がある
不条理を受け入れる
人生は思い通りにならないのが当たり前
第3章 自分を見捨てない
相手をより自由にするのが本当の愛
受け入れがたい自分を受け入れる
劣等感のかたまり
自分の花を咲かせなさい
愛する力を育てるために
第4章 輝いて生きる秘訣
大学とは何をするところ?
雑用に祈りをこめて
自分を美しくきたえる
「美しさ」を保つ秘訣
第5章 愛ある人になる
「させていただく」
お金で買えないもの
人間関係の秘訣
あなたの近くにも「カルカッタ」はある
我以外、皆師なり
神の国の証人ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ
それが、そのような困難は承知の上で、やはり書かずにいられない気持ちになったことには、日本のキリスト教会の現状についてのーことに一九六九年以降の日本基督教団の現状についての、私自身の認識が関係している。今そのことについて、ここに詳しく述べることはできない。ただ一言で言えば、私には、今日の日本の教会にもっとも欠けているもの、そして日本の教会が(自覚的ではないにしても)今日もっとも必要としているものは、ブルームハルト的なものだと、思われてならない。ブルームハルト父子におけるような「活ける神」への立ち返りと素朴な信仰のリアリティの快復なしには、日本の教会の新しい出発はないと思われてならない。(あとがきより)
「イエスの出現によって、単に心情の問題が提出されたのではなくて、力の問題が提出された。」と言っている。これは重要な指摘である。ブルームハルトが、この出来事を通して、聖書が証しする事柄を、そしてわれわれの救いの問題を、単に心情の問題としてではなく、力の問題として捉え、「戦い」の問題として捉えたということ。これがブルームハルト父子を敬虔主義から区別する中心的なものであると共に、彼らがカール・バルトらに教えたもっとも重要なものの一つであり、今日のわれわれが自分自身の信仰の問題としてもっとも緊急に聞かなければならない事柄だと、私は思う。ド・ヴァレンティ博士に対する「弁明書」の中で語っているように、彼がゴットリービンの悲惨の中に見たものは、今も力を振るっている闇の力の支配のもとにある人間の姿であった。そのような事実に直面して、彼が覚えたのは、「憤怒」であった。彼が子どものころから聖書で読んだように、神が主イエスにおいてすでに勝利し給うたということがもし事実であれば、このような人間の悲惨に対して、どうして神の力の介入がないはずがあろうか。そのような焦燥が彼を捉えた。その場合、彼は、神の力の介入を、史的イエスの時代や使徒たちに限定することに堪えられなかった。主イエスの高挙の後の時代の有様が、それ以前と同じであって良いはずはないのであった。したがって、彼の問題は、主イエスの支配か、それとも彼に逆らう者の支配か、というまさに「力の問題」であった。p78-79
雪の日に 吉野弘詩集より
雪の日に 吉野弘詩集より
雪がはげしく ふりつづける
雪の白さを こらえながら
欺きやすい 雪の白さ
誰もが信じる 雪の白さ
信じられている雪は せつない
どこに 純白な心など あろう
どこに 汚れぬ雪など あろう
雪がはげしく ふりつづける
うわべの白さで 輝きながら
うわべの白さを こらえながら
雪は 汚れぬものとして
いつまでも白いものとして
空の高みに生まれたのだ
その悲しみを どうふらそう
雪はひとたび ふりはじめると
あとからあとから ふりつづく
雪の汚れを かくすため
純白を 花びらのように かさねていって
あとからあとから かさねていって
雪の汚れを かくすのだ
雪がはげしく ふりつづける
雪はおのれを どうしたら
欺かないで生きられるだろう
それが もはや
みずからの手に負えなくなってしまったかのように
雪ははげしく ふりつづける
雪の上に 雪が
その上から 雪が
たとえようのない 重さで
音もなく かさなってゆく
かさねられてゆく
かさなってゆく かさねられてゆく
凍 沢木耕太郎
結婚17周年記念日帰り温泉ツーリング
人生の分岐点
写真は東武鉄道東武動物公園駅から下り方面に伸びる線路です。右側は伊勢崎線、左側は日光線です。
日光線は、杉戸高野台、幸手、南栗橋、栗橋、新古河、柳生、板倉東洋大前、藤岡、静和、新太平下、栃木、そして新栃木へと向かいます。新栃木からは宇都宮線も出ています。下今市からは鬼怒川線も出ています。
伊勢崎線は、和戸、久喜、鷲宮、花崎、加須、南羽生、羽生、川俣、茂林寺前、そして館林へと向かいます。館林からは小泉線と佐野線も出ています。太田からは桐生線も出ています。
人生にも、鉄道路線と同じように、至る所に分岐点があります。
どこの幼稚園・保育園に行くか。どこの小学校に行くか。どこの中学校に行くか。どこの高校に行くか。どこの大学、短大、専門学校に行くか。どこに就職するのか。誰と結婚するのか。どこに住むのか。転職するのかしないのか。退職後はどうするのか。などなど。
けれども、人生において最も大切な分岐点は、「どのような信仰の道を歩むのか」ということではないでしょうか。それにおいて死の向こうの永遠を過ごす終着駅が変わってしまうからです。
私は20歳の時、キリスト信仰の道、キリスト教会へと導かれ、もう45歳になりました。信仰の分岐点でこの道へと導かれていなければ、私は今も死へと急ぎ、永遠の滅びに向かって暴走していたことでしょう。今あるはただ主イエス・キリストの恵みです。感謝。
杉戸キリスト教会牧師 野町真理