神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか

神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか。それを知るためには、書き記された神のみことばである聖書に、静まって耳を傾けなければならない。あなたがもし他の教会に転入会すべきかどうかと迷っておられるなら、ぜひコリント人への手紙の第一と第二に静かに耳を傾けてほしい。
これが神の教会なのだろうかと思うような問題だらけのコリント教会に対して、主イエスはパウロを通して、「コリントにある神の教会へ」と呼びかけられた。今あなたが置かれている○○教会に対しても、主イエスは「○○にある神の教会へ」と呼びかけておられる。
そして主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ福音書13章34−35節)と命じておられる。

The sign of the covenant 契約のしるし


わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」創世記9章13-16節

ノアの真摯な礼拝に応答して、神は虹の契約を立ててくださいました。けれども、新約時代、終末時代に生かされている私たちには、以下のような神の忍耐と望みが、虹の彼方に啓示されています。

『当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』2ペテロ3章6-9節

心一つに

聖書が教える経済的祝福の原則

聖書が教える経済的祝福の原則
ばらまいても、なお富む人があり、
正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。箴言11章24節
おおらかな人は肥え、
人を潤す者は自分も潤される。箴言11章25節
自分の富に拠り頼む者は倒れる。
しかし正しい者は若葉のように芽を出す。箴言11章28節
自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。箴言18章9節
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、
一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。
あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
マタイ福音書6章24節
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。マタイ福音書6章33節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
ヨハネの手紙第一5章14−15節

受難日に

受難週に、特に主イエスが十字架で死なれた受難日・聖金曜日に、
私たち人間の内側・心の奥底に潜んでいる罪深さを改めて覚えている。
普通の人間の内にある心の闇、罪深さは、
条件さえ整えば外側に言動となって吹き出す。
しかしそれ以前においても、
主イエスが教えてくださった主の祈りによって、最も明瞭に暴き出される。
天からの啓示・神の言葉という強力なスポットライトによって、
闇に紛れていた的が照らし出される時、
初めて何が的外れ・罪なのかが明らかにされる。
見事に的を照らし出している主の祈りを裏返すと、
私たち罪人の内にあるエゴイスティックで邪悪な願望が、以下のように明文化される。
「私の名前があがめられるように。
 私を中心とした私の国が来るように。
 私の心願が成就するように。地においても天においても。
 私は己の力と悟りによって今日も収入を得、自力で糧を得ることができる。
 神など必要ない。
 誰でも私に罪を犯す者は、決して赦さないでいつか必ず報復してやる。倍返しだ。
 私は自力であらゆる誘惑に打ち勝ち、己を己によって悪から救い出そう。
 救い主・キリストなど必要ない。私が救い主だ。
 国と力と栄え、世界に満ちているすべてのものは、私のものだ。」
 
これほど自己中心な祈りがあるだろうか。
これほど自分勝手な祈りがあるだろうか。
これほど的外れな祈りがあるだろうか。
これほど悪魔的な祈りがあるだろうか。
そして罪人にとって、これほど自然な祈りがあるだろうか。
これは神を神とせず、 自分が神になることを願う祈り。
これは神を第一とせず、自分を第一とする祈り。
これは神を中心とせず、自分を中心にする祈り。
これは神の義を求めず、自分の義を求める祈り。
これは心を尽くして自分に拠り頼み、自分の悟りにたより、主なる神を認めない祈り。
この内容と方向性こそが聖書が語っている罪。
そしてこれが、私たち人間が、
人となられた神の御子・主イエス・キリストを十字架につけて殺した動機。
絶対にこの祈りに意識的にアーメンと言ってはならない。
主の祈りを己の祈りとすることによって、この罪に立ち向かい続け、
罪と死に勝利された主イエスによって、この罪に勝利しなければならない。

戦争の足音

戦争の足音
静かに耳をすませば、戦争の足音が聴こえて来る。
学校の中で、子どもを子供と書くように指導する声。
見捨てられた被災地を吹き抜ける風の音。
水洗トイレのように、過去の歴史を水に流す音。
メディアによって政治的権力を自由に行使出来る道を備える音。
何より日本民族を神の御座の上に置く戦慄の音。