関東宣教区有志による伊豆大島プロジェクト2017-08

日本同盟基督教団・関東宣教区有志たちが、宣教師のフロンティアスピリットを学びに伊豆大島に行きました。

多くの方々の祈りと支援に支えられて、無事に帰ってくることができました。心より感謝します。

終始お世話になった「いずみのいえ」の古谷牧師ファミリーにも心から感謝します。どうもありがとうございました。

さるびあ丸

伊豆大島プロジェクト。行きは竹芝から「さるびあ丸」に乗り、船中泊でした。

岡田港から上陸

行きは岡田港から伊豆大島に上陸。

いずみのいえ1日目の朝

いずみのいえ1日目の朝。海を眺める素敵な時間。

いずみのいえ

IMGP2013.mp4

いずみのいえの展望台にて

ここからの眺めは最高です。夜にはムーン・リバーと満天の星空を見上げることができました。聖書(創世記15章5節)によると、数え切れない星の数ほどの人たちが天国に招かれています。

MOON RIVER

伊豆大島から天を見上げて

いずみのいえのチャペル

いずみのいえのチャペル。ピアノ、ギター、ドラムなど、楽器がありました。チャペルの後ろにはクライミングボードもあります。

クライミングボード

朝食後の分かち合い

大島元村教会の菅野牧師夫妻

河村冴牧師

大島元村教会にてお交わり

大島元村教会にて

移設された大島元村教会の旧会堂

終始お世話になったいずみのいえの古谷牧師

伊豆大島土砂災害で亡くなられた方々の献花台

1日で800ミリほどの豪雨があり、多くの方々が犠牲になりました。

伊豆大島土砂災害の爪痕

大島から伊豆半島眺望

これから三原山に登ります

かつて宣教師は波浮から元村まで徒歩で山越えをして、福音宣教、開拓伝道を行ったとのこと。少しでもそのスピリットを覚えるために、三原山に登りました。

三原山火口

ゴジラ

ゴジラは伊豆大島の三原山火口から出てきました!

いずみのいえ夕食はバーベキュー

最後に「くさや」が出ました!昔大島などでは米の代わりに塩を年貢として納めていたため、塩を自分たちで使うことはできませんでした。そのため、海水に腹を裂いた魚を入れて「くさや」を作り、塩分を取っていたようです。強烈な匂いの故に、好き嫌いがはっきり分かれます。台湾の臭豆腐のような強烈な匂いです。

地層大切断面

道路を建設していたら、このような地層が出てきたようです。

地層切断面にて

波浮教会

波浮教会会堂

波浮教会でのお交わり

波浮教会にて

歌の贈り物

波浮港 踊子の里

旧甚の丸邸

宣教師がここを宿として大島に福音宣教を行なったようです。

波浮港

アンコ椿は恋の花

トウシキ海岸にて海水浴

海坊主と海水浴

キリシタン「ジュリアおたあ」を偲ぶ十字架

筆島

いずみのいえにて記念撮影

帰りはジェット船にて

海上もラッシュ

飛行機もラッシュ

東京都心に近づくと、海上もラッシュ、飛行機もラッシュ。おそらく首都高もいつものようにラッシュ。さすが文化の中心、経済の中心、そして政治の中心としての世界的な都市TOKYOを覚えました。(ちなみにアメリカでは文化の中心と経済の中心と政治の中心は3つの都市に分散しています)

https://flic.kr/s/aHsm69xr8b

異郷に赴く神の子の道

和解論14章 僕としての主イエス・キリスト
59節 神の子の従順
1 異郷に赴く神の子の道 p173-174

しかし、神は、超然とした態度を取らずに、イエス・キリストにおいて人間に恵みを与え給うことによって、同時に異郷へと赴き給うのである。すなわち、この全く異なった神的でない存在、否、神に背く存在の悪しき世界へと、赴き給うのである。神は、このような存在に対して、尻ごみし給わない。また、盗賊に襲われた人の傍を祭司やレビ人が通りすぎたように、神はその傍を通りすぎ給わない。彼を放置し給わない。彼の状況を御自身のものと為給う。もちろん、神は、そのようなことを為ることによって、その栄光を失い給いはしない。人間の隣人となり、隣人として人間と交渉し、人間に対して働き給う時、神はもちろん神性のことを、少しも気遣い給う必要はない。否、むしろその反対である。

われわれは、この最初の節において、やがて決定的・基礎的なものとして示されるはずの次のような思想を、今すでに語っておこう。それは<神の恵みはそのような犠牲を払うことを欲し、また払い得給うのであるがーすなわち、神は、そのように謙虚となり、そのような過多な業を行い、そのような異郷への道を歩むことが出来、またそのことを欲し、またその用意を持ち給うのであるがー神はそのような事実においてこそ偉大であり、また真の神はそのような事実においてこそ真の神として現れ給うのだ>という思想である。

神を他のすべての神々と区別し卓絶させるのは、神々にはそのようなことが不可能であり、またそのようなことを欲しもせず、またそのような用意も持ってはいないという事実である。それらの神々は、その他界性・超自然性・彼岸性等のすべてによって、人間の高慢の映像である。すなわち、下に位するものに対して身を屈しようとせず・身を低くしようとしない高慢の映像である。神は高慢ではあり給わない。むしろ、神は、その高貴な尊厳さの中にありながら、謙遜であり給う。このような高貴な謙遜において、神は、世を自らと和解せしめる神として、語りまた働き給う。われわれは、和解の歴史を、まず第一に、そして何よりも先に、このような観点において、評価しなければならない。

九州鹿児島ビジョントリップ2017-05

九州鹿児島ビジョントリップ2017-05

SUGITO GOSPEL CAFE(杉戸福音喫茶)

新約聖書が語る主イエス

新約聖書が語る主イエスは、一言で言えば、エホバの証人が証言するような「最も偉大な人間」ではありません。新約聖書が語る主イエスは、明らかに全てが、私たち人間とは質的に違います。まるで天と地の違いのように。そのような質的な違いが認識されていなければ、新約聖書が語っている啓示のメッセージを本当に聞いていることにはならないでしょう。

新約聖書が語る主イエスは、私たち人間を断罪しつつ、しかも解放する全権を持っておられるお方です。また、私たちを御許に召すと共に、御自身に結びつける全権を持っておられるお方です。そして、人間があらゆる宇宙的制約を持っているのに対して、宇宙的全権を持っておられるお方。主イエスとならんでは、他に先行者も後続者もない救い主・キリスト。すなわち「神の行為」であり「終末的な救いの出来事」であるお方です。主イエスは、「人間になられた神」であられ、万物を創造し、万物を支えておられる「神の言葉」です。

SUGITO GOSPEL CAFE(杉戸福音喫茶)

聖書が語るのは世界泥沼論!

日本泥沼論で終わっていたら、井の中の蛙!聖書が語るのは、世界泥沼論!

ユダヤ人も異邦人も同じ泥沼。日本もアジア諸国も、アメリカもヨーロッパもみんな泥沼。

全ての人間の心の中が泥沼である!つまり、あなたの心の中も泥沼である!

しかし、どんな泥沼であっても、福音の花は美しく咲き乱れ、いつまでも残る豊かな実を結ぶ。

ちょうど泥沼から美しく咲く蓮の花のように。

ペテロを始めとする12弟子たちは全員踏み絵を踏んだような弱い者たち。

主イエスを見捨てて全員逃げ出したから。

特にシモン・ペテロは、3回駄目押しのように、踏み絵を踏みにじったような弱い者。

しかし彼は、先行する恵み、先行する赦し、先行するとりなしによって立ち直り、兄弟たちを力づけることができる強い者、岩(ペテロ)へと変えられた!

ふさわしくない時・弱い時にあなたを愛して、将来必ずあなたをふさわしい者・強い者・勝利者に変えてくださる!これが聖書が語る福音。

泥沼から咲き出でる蓮

福音は全世界に 新年礼拝のご案内

福音は全世界に 新年礼拝のご案内

新年礼拝のご案内

杉戸キリスト教会地図2016

いのちのことば2017-1

いのちのことば2017-1

いのちのことば社というキリスト教出版社がある。そのいのちのことば社の書評誌、月刊「いのちのことば」の巻頭言を3回シリーズで書かせていただいた。世界を覆っている、閉塞感という名の暗雲を、跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩となりますように。

閉塞感を突き破る神の言葉1

閉塞感を突き破る神の言葉<1>
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』ルカ福音書1章20節

 ルカ福音書1章には、閉塞感に囚われていた祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツが登場します。忠実な二人でしたが、祈りが答えられない年月によって年輪を重ねた結果、御使いによって子どもを授かると聞いても信じられませんでした。もう年ですから。長い間祈りが答えられない中での高齢化は、じわじわと効いて私たちを閉塞感へと誘います。けれども不妊の女だったエリサベツは、全能の神によって身ごもり、高齢出産でも守られ、キリストの道備えをするバプテスマのヨハネの母とされました。

 ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまで、期間限定でものが言えなくなりました。けれども神の言葉は、人の不信仰を超えて、その時が来れば実現したのです。『私のことばを信じなかったからです。(けれども)私のことばは、その時が来れば実現します。』と聖書は語ります。「信じなかったから、あなたはもうおしまい。あなたの信仰の通りにしかならないから。」と切り捨てると、もはやキリスト教ではなくキリステ教になってしまいます。聖書の語る福音は、信じられない者にとっても福音です。

 厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるでしょう。世界宣教によって宇宙を再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは閉塞感の中で滅んでいくしかありません。しかし神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず出来事になります。そのことを聖書は力強く証言しています。閉塞感を突き破る神の言葉を体験する。それが世界を覆っている暗雲を跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩です。