LOVE SUGITO RADIO 2020-06-25 私の人生を変えた一冊の本

LOVE SUGITO RADIOは、杉戸キリスト教会の「のまちゃん牧師」によるラジオです。杉戸町に関すること、聖書に関すること等について話しています。杉戸町と宮代町を愛するラジオです。37回目の配信。早朝の地震と杉戸カスミの改装に伴う休業のお知らせ。今日は、私の人生を変えた一冊の本として、新潮文庫の100冊の中にある、三浦綾子さんの塩狩峠を紹介させていただきました。のまちゃん牧師のビフォーアフターも語りました。お便りお待ちしています。埼玉県北葛飾郡杉戸町清地1-1-30杉戸キリスト教会宛までお願いします。

宝島 HERO’s ISLAND を読んで

宝島 真藤順丈

宝島 HERO’s ISLAND を読んで

日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師  野町 真理

宝島と聞くと、スティーブンソンのトレジャー・アイランドの方を思い浮かべる方が多いかと思う。けれどもこの宝島は、ヒーローズ・アイランドの方だ。第160回直木賞を見事に受賞した、真藤順丈さんの書いた小説・宝島。英語のタイトルはHERO’s ISLANDとなっている。

この本を読むきっかけは、先日の杉戸・宮代・幸手地域牧師会で聞いた、「ぜひ読んで感想を聞かせてほしい」というM先生の言葉だった。宝島は、M先生が牧師として奉仕している教会の沖縄出身のメンバーが、この本を読んで感想を聞かせてほしいと願った本であり、直木賞を受賞したのにニュースではあまり取り上げられなかった本でもある。すでにM先生は読み終わっているのだが、沖縄出身のメンバーに、感想を述べることができないでいるとのこと。それで「ぜひ読んで感想を聞かせてほしい」とのことだった。

さっそく本を手に入れて読み始めた。以下あまりネタバレにならないように記したい。立ち読みできないほど分厚い本なのだが、グイグイと引き込まれ、あっという間に読み終えてしまった。さて感想であるが、あえて一言で言うと、「今、日本という島国に住んでいるなら、国籍に関わらず、必ず読まなければならない一冊。」という言葉がふさわしいかと思う。

小説であるから、もちろん登場人物や全体的な構成など、かなり脚色されている。けれども、1952年から1972年までの20年間に、沖縄という島で実際に起こった様々な出来事や事件を織り込んで、物語は展開していく。沖縄という島に住む人たちが、歴史の中でどんな歩みを強いられ続けているのか。夜明けを来世よりも遠くに感じながら、どんなふうに生きてきたのか。何を宝にしてきたのか。沖縄を一度も訪れたことがなく、心のどこかで、いつか行きたい観光地のように考えていた私は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。講談社から出版された541頁の大作。税別で1850円は安いと思う。

日日是好日

今日妻と一緒に映画も見てきました。とても素敵な映画でした。最近ほとんど映画に行ってもパンフレット買ってませんでしたが、あまりの素晴らしさにパンフレットも買いました。本もおすすめですが、映画もおすすめです。

日日是好日

日日是好日

好日日記 森下典子

Autumn Leaves

季節を感じ、今を味わうこと。

風や空気を感じること。

太陽の光を感じること。

雨の音を聴き、匂いや香りを感じること。

花や旬のものを愛でること。

お湯の音と水の音の違いを聞き分けること。

お茶は、一般恩恵に対する感度(センス・オブ・ワンダー)を高め、豊かな人生をもたらすのですね。

なぜ「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」なのか?

それは、この日は天地を造られた好い神さまが造られた日だからですよね。

これは主が設けられた日。
この日を楽しみ喜ぼう。
旧約聖書 詩篇118篇24節

日本のキリスト者は、もっと一般恩恵を味わう必要がありますね。

(一般恩恵とは、太陽の光、雨、雪、水、空気、海、大地、山河、植物、春夏秋冬、食物、地球環境、身体、命などを、日日天地を造られた神さまが、無償で与えてくださっているということです。キリスト教の専門用語です。一般恩恵に対して、特別恩恵もあります。特別恩恵とは、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命を与えてくださるために、神さまが救い主・キリストを与えてくださり、書き記された神の言葉である聖書を与えてくださり、神の言葉を語る預言者や教師を与えてくださっているということです。)

「お茶」が教えてくれた15のしあわせ。

1、「自分は何も知らない」ということを知る
  聖書のみことば「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(コリント人への手紙第一8章2節)を思い浮かべました。

2、頭で考えようとしないこと
  ブルースリーの「考えるな、感じろ!」を思い浮かべました。

3、「今」に気持ちを集中させること

4、見て感じること
  実物教育で育てられたことを改めて覚えました。

5、たくさんの「本物」を見ること
  井の中の蛙にならないためには、何事でも必要なことですよね。

6、季節を味わうこと
  アウトドアに出かけること、外を出歩いて散歩すること、山登りをすること、それらすべてにカメラを持っていくことが私の実践です。

7、五感で自然とつながること

8、今、ここにいること

9、自然に身を任せ、時を過ごすこと

10、このままでよい、ということ

11、別れは必ずやってくること
   一期一会。だからその人に会ったり、その人と一緒に過ごす時を大切にしたい。

12、自分の内側に耳をすますこと

13、雨の日は、雨を聴くこと
   毎日が違う日。そして雨の日も好い日。

14、成長を待つこと
   世の中には「すぐわかるもの」と「すぐにはわからないもの」の二種類がある。

15、長い目で今を生きること
   毎年、同じことができることがしあわせ!

日日是好日(にちにちこれこうじつ/にちにちこれこうにち)
それが嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、その一日をありなまま受け止め、ひたすら生きれば、どんな日も、かけがえのない絶好の一日。

薫風自南来(くんぷうみなみよりきたる)
さわやかな風が吹いてくる五月、初風炉の頃によく掛けられる掛け軸。

風従花裏過来香(かぜはかりよりすぎきたってかんばし)
風にはもともと香りがないけれど、花のそばを通って来た風は良い香りがする。

・・・

池波正太郎著「日曜日の万年筆」より

池波正太郎著「日曜日の万年筆」より

日曜日の万年筆 池波正太郎

私は、仕事の行き詰まりを頭脳からではなく、躰のほうから解いて行くようにしている。p14

「そうよ、亭主なんて、フンゾウキよ」
「何、そのフンゾウキって?」
傍で聞いていた私も、これは、ちょっとわからなかった。
すると、鰻弁当をむしゃむしゃと食べながら、その中年の女客が「フンゾウキ」の意味を説明した。
すなわち「糞を造る機械」だから「糞造機」なのだそうである。
これにはさすがの私も魂消た。
三年ほど前に、長谷川一夫の芝居を観たとき、これも劇場の食堂で、とんかつ屋の看板にしたらよかろうとおもわれる顔だちの中年婦人が「わたくし、もし、長谷川に飛びつかれたら、とても抵抗しきれませんわ」と、いっているのを聞いたときよりもショックは大きかった。p18-19

沢田正二郎は土佐人の血をひいた熱血的な俳優であり、単なる俳優ではなく、これを政治家にしても教育家にしても、かならず抜群の業績を残したにちがいない。p23

いや、その前に・・・・まだ幼年のころに、私は母に連れられて、沢田正二郎の舞台を確かに観ている。それは本郷座の舞台で、半裸の男が十字架に縛りつけられている姿を、おぼろげながら記憶している。沢田が〔キリスト〕を演じたのだった。p26

亡き座長の机竜之助で大当たりをとった〔大菩薩峠〕を、辰巳柳太郎の竜之助、島田正吾の宇津木兵馬で東京劇場で上演したときの舞台を私は従兄に観せてもらった。辰巳も島田も座員たちも、必死の意気込みで舞台をつとめていたにちがいない。その舞台の、得体の知れぬ熱気の激しさ強さは、むしろ空恐ろしいほどのもので、十歳の私は興奮と感動に身ぶるいがやまなかった。「何を、ふるえているんだい?」と、私の肩を抱いた従兄の声を、いまも忘れない。いまにして思えば、この観劇の一日こそ、後年の私を劇作家にさせた一日だったといえよう。p27

収支という語を、こころみに辞典で見ると、〔収入と支出〕とある。私も、師にいわれたときは、単に経済の意味をふくめたものとして聞いていたにちがいないのだが、いまおもうと、師は、〔すべての物事に対するバランスの感覚〕のことを指していたのではあるまいか。そうなると、あの太平洋戦争の無謀な開戦も、収支の感覚を完全に欠いていたことになる。p34-35

自由とは不自由があってこそ成立するものなのだ。p38

物をつくるという手順を、感覚で躰におぼえこませたことが、いまの私の仕事の基盤になっているのだ。p43

先ず、ここまで書いたらやめてしまう。寝る時間ならば寝てしまう。まだ時間があるなら、別の仕事をする。そしてベッドへ入ると、書き出しの三、四枚が頭の中へ居座ってしまうから、寝ていても、食事をしていても、散歩をしていても、洗面所へ入っていても、無意識のうちに、前夜、書いておいたシチュエーションが頭の中でふくらみつつあるのだろうか。何かの拍子に、つぎの情況がぱっと浮かんでくる。浮かんでこないときは別の仕事をする。このようにして五枚、十枚と書きすすめるうち、人物の性格が生まれ、息づき、うごき出す。こうなれば、その人物の歩くままにまかせる。そこにテーマが浮きあがってくるのである。p47

つまり私は、あくまでも初心に映画を観ているのだ。それでないと私の場合、映画が自分の血肉となってくれないような気がする。映画を観るたびに新鮮なおどろきを感じるということは、いまの自分の毎日の些細な出来事にも、同じ感覚で接していることになる。それでないと、私がしているような仕事では、根が枯れてしまい、ついには、自分が何を書いてもつまらなくなってしまうのではあるまいか・・・。p52

続く

いのちのことば社Word Chapel

Word Chapel
いのちのことば社
2016年8月23日(火)、東京中野にある、いのちのことば社本社ビルで持たれているWord Chapelに招かれ、感謝な時が与えられました。書籍やCDなどのプレゼントもいただき、5階建てビルの見学もさせていただき、本当にありがとうございました。いのちのことば社のすべての出版物が、これからますます、まだ聖書の素晴らしさを知らない方々のために、豊かに用いられますように。
メッセージタイトル:天を見上げて地上を旅する
聖書箇所:創世記15章1−6節
20160823Word Chapelメッセージ「天を見上げて地上を旅する」(クリックで聴けます)
まだ聖書の素晴らしさを知らない方々のために、以下の文章をこれからさらに練り直します。

本田路津子 MY PORTRAIT Ⅱ 足跡
聖書ガイドMOOKリアル聖書入門
揺れ動く時代におけるキリスト者の使命
Word of Life Press Ministries

三浦綾子さんの小説、「塩狩峠」の中で紹介される遺書と遺言

三浦綾子さんの小説、「塩狩峠」の中で紹介される遺書と遺言

主人公の父、永野貞行の遺書と遺言

「人間はいつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。ここにあらためて言い残すほどのことはわたしにはない。わたしの意志はすべて菊が承知している。日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。とは言え、わたしの死に会って心乱れている時には、この書も何かの力になることと思う。

一、信夫は永野家の長男として母に孝養を尽し、妹を導き、よき家庭の柱となって欲しい。

一、ただし、立身出世を父は決して望んではいない。人間としての生き方は、母に学ぶがよい。

一、信夫は、特に人間として生まれたということを、大事に心に受け止めて、真の人間になるために、格別の努力を為されたい。

一、わたしは菊の夫とし、信夫、待子の父として幸福な一生であった。それはすべて神が与えたもうたからである。

一、父の死によって経済的に困窮することがあるとしても、驚きあわてないこと。必要なものは必ず神が与えたもう。

一、わたしの葬儀は、キリスト教式で行われたい。

以上、このごろ時々疲れを甚だしく覚えるので、万一の為に記して置く。

貞行

一月十四日

菊殿

信夫殿

待子殿」

自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方。

常に死を覚悟して生きて来た姿。

聖書の中に記されたJesusのリビング・ウイル

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」…ヨハネ13:34-35

失敗学のすすめ

失敗学のすすめ

畑村洋太郎著の「失敗学のすすめ」(講談社)という本がある。

以前大学で学んでいた時から教えられていることを、改めて考えさせられる本だ。

なぜ「失敗学」なのか?

もし失敗の経験から学ぶことをしなければ、 同じ過ちを何度でも犯し、成長がない。

けれどももし失敗から学ぼうとするならば、少なくとも同じ過ちを犯すことから守られ、成長する。

失敗から学ぶということは、なぜ失敗したのかという原因を追求し、それに対処しながら生きること。

自分の失敗から学ぶことも大切であるが、他人の失敗から学ぶことも、とても大切。

改めて聖書に耳を傾けると、聖書は失敗学のテキストで満ちている。

創世記2章以降は、人間の失敗の連続の歴史が記されているといっても過言でない。

サタンの誘惑に負け、 善悪の知識の木の実を取って食べた(神を神としない) という大失敗。

神ではなく自分の知恵や力に頼ることによる失敗。

自分に栄光を帰したいという誘惑に負ける失敗などなど。

牧会伝道・教会形成において、時に牧師・伝道師も失敗を犯す。

あるいはキリスト者・教会の歩みにも様々な失敗がある。

しかし聖書は、決して失敗なさらない神が、私たちと共に歩んで下さっていることを語っている。

取り返しのつかない失敗を犯した者に、やり直しの機会を与えて下さる神。

失敗を益に(マイナスをプラスに)変えて下さる救い主なる神。

そのお方こそ、私たちのすべての罪過のために身代わりに十字架について下さったお方。

その御名は、主イエス・キリスト。

成功談を聞いても、慰めを受けることはほとんどないが、失敗談には慰めとやり直すことが出来るという福音がある。