横浜(海岸教会)→和戸教会→杉戸教会→粕壁教会(現春日部)・・・。戦前の埼玉県宮代町及び杉戸町地域への福音宣教の歴史は、この横浜海岸教会から始まっています。
タグ: 感謝
Yokohama Bay 横浜港大桟橋埠頭
ますます英語力などが必要となる時代
My Life Is In Your Hands
怒りや憎しみに支配されているあなたへ
真のセキュリティ
真のセキュリティ
所有欲・物欲が、人生のすべて(人生のゴール・目的)となってしまう場合があります。もっと所有できたとしたら、もっと幸せになれ、もっと偉くなれ、もっと安全(セキュリティ)を得ることが出来るといった考えは、ウソです。一時的な幸せしか、所有物(モノ)はもたらしてくれないのです。
なぜなら既に得たモノは古くなっていくので、やがて私たちはそれらに飽き、もっと新しいもの、もっと大きいもの、もっと良いバーションのものを、次に欲しがることになるからです。
もっと所有できれば、もっと偉くなれるという考えも、根拠の無い神話です。あなたの値打ちは、あなたが所有しているモノによっては、決まらないのです。神は言われます。人生において最も価値あるものは、モノではないと。
お金に関する最も共通の神話は、もっとお金持ちになれば、もっと安全になれるというものです。でもそうではありません。富はコントロールすることの出来ない様々な要因によって、すぐに失われ得るものです。
真のセキュリティは、決してあなたから奪うことの出来ないただ一つのものの中にしか見出すことは出来ません。それはあなたに与えられている神との関係です。
THE PURPOSE DRIVEN LIFE(WARREN)「人生を導く5つの目的(リック・ウォレン)」より
三浦綾子さんの小説、「塩狩峠」の中で紹介される遺書と遺言
三浦綾子さんの小説、「塩狩峠」の中で紹介される遺書と遺言
主人公の父、永野貞行の遺書と遺言
「人間はいつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。ここにあらためて言い残すほどのことはわたしにはない。わたしの意志はすべて菊が承知している。日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。とは言え、わたしの死に会って心乱れている時には、この書も何かの力になることと思う。
一、信夫は永野家の長男として母に孝養を尽し、妹を導き、よき家庭の柱となって欲しい。
一、ただし、立身出世を父は決して望んではいない。人間としての生き方は、母に学ぶがよい。
一、信夫は、特に人間として生まれたということを、大事に心に受け止めて、真の人間になるために、格別の努力を為されたい。
一、わたしは菊の夫とし、信夫、待子の父として幸福な一生であった。それはすべて神が与えたもうたからである。
一、父の死によって経済的に困窮することがあるとしても、驚きあわてないこと。必要なものは必ず神が与えたもう。
一、わたしの葬儀は、キリスト教式で行われたい。
以上、このごろ時々疲れを甚だしく覚えるので、万一の為に記して置く。
貞行
一月十四日
菊殿
信夫殿
待子殿」
自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方。
常に死を覚悟して生きて来た姿。
聖書の中に記されたJesusのリビング・ウイル
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」…ヨハネ13:34-35
When you believe あなたが信じる時
When you believe
何年か前、アカデミー最優秀主題歌賞に選ばれた、「When you believe」「あなたが信じる時」というゴスペルソングがあります。(スティーブン・シュワルツという人が作詞・作曲をし、マライヤ・キャリーとホイットニー・ヒューストンによって、デュエットで歌われた)
この曲は、旧約聖書の出エジプト記を題材にしたアニメ映画「プリンス・オブ・エジプト」の主題歌でした。(この映画は若干脚色されていますが、最新のコンピュータグラフィックスを使って、聖書を生き生きと描いています。海が分かれるシーンや海の底を歩いて渡るシーンなども見ごたえがあります)
さて、この「When you believe」「あなたが信じる時」という歌の歌詞を、ここで少し、皆さんに紹介したいのです。こんな内容の歌詞です(野町私訳)。
『幾日もの夜、私たちは祈りが聞かれるという確信を持てないけれども祈り続けてきた。私たちの心の中には、小さな希望の歌があった。今、私たちは、たくさんの恐ろしいことがあるのを知っている。でももう恐れない。そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていたから。
あなたが信じる時、奇跡が起こる。希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。あなたが信じる時、必ずあなたは神の栄光に満ちた奇跡を見るはず。あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。
この恐れの時、祈りが次々と空しく消えていく時。希望はまるで夏の鳥のよう、とても素早く空に飛び去ってしまう。でも今、私はここに立っている。私の心はとても満たされて、言葉にあらわせないほど。捜し求めていた信仰、口にしているこの言葉。私がこんなことを言うなんて、思いもしなかった。
あなたが信じる時、奇跡が起こる。希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。あなたが信じる時、必ずあなたは神の奇跡を見るはず。あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。
あなたが祈り求めても、いつも奇跡が起こるわけじゃない。だから恐れと失望の中に落込んでいくことは簡単なこと。でも、あなたが信仰を通して現実を見るとき、あなたは雨の中で救いの道を見出す。そして「助けはとても近くにある」とその道を歩いているあなたは言うでしょう。』
この中で、特にわたしの心に印象深く残っているのは、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていた」という言葉です。これは短い言葉ですが、聖書が教えている信仰を、的確に表現している言葉ではないかと思います。この言葉が意味しているのは、つまりこういうことです。「私たちが心の中で感じているよりもはるかに確実に、私たちの祈りは主なる神に聞かれている」ということです。
実際私たちキリスト者は、祈ってもすぐに応えられない経験をしばしば味わいます。また、まさに山のようにちょっとやそっとでは動かない、いや不可能だと思われる祈りの課題がたくさんあります。家族・親族や友人を覚えて祈る時、そんなふうに感じます。また、高い地位にある方たちや国々を覚えて祈る時、教会を覚えて祈る時、そんなふうに感じてしまいます。
けれども、みこころにかなった祈りを主イエスに祈る時、この世界を包む主の祈りを日々祈る時、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしている」。ということが起っているのです。
実は、ハイデルベルク信仰問答の中にも、「私たちが心の中で感じているよりもはるかに確実に、私たちの祈りは主なる神に聞かれている」という霊的真理が紹介されています。
問129:「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
答:「アーメン」とは、それが真実であり、確実である、ということです。なぜなら、これらのこと(主の祈りの内容)を神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!
私が初めてイエス・キリストの福音(The Gospel of Jesus Christ)を聞いたのは、20歳の時でした。その時に思ったことは、「どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!」ということでした。それまで、「自分はクリスチャンだ」と名乗る人に出会うこともなく、誰もイエス・キリストのことを伝えてくれなかったんですよ。
でも、今考えて見ると、すべてのことの背後にあってすべてを統べ治めておられる主イエスが、私にとって最善の時に、十字架の愛と復活の力によって、私を捕らえて下さったんだなあと思います。もしそれ以前に福音を聞いても、私の場合は、聞く耳を持っていなかったように思うからです。私は、「神などを信じることは弱い人間のすることであって、私に神など必要ない!」と本気で思っていたからです。
いろんな経験の中で、むなしさや苦しみを味わい、自分の弱さや愛のなさを思い知らされ、生きる希望と力を失い、人生の目的や自分の存在価値を必死になって探し求めていた時に、イエス・キリストの福音を伝えてくれる人に出会えたことは、やはり絶妙なタイミング(神の時・カイロス)であったとしか言いようがありません。
でも、その時から私は、イエス・キリストの福音(The Gospel of Jesus Christ)を伝えていく立場の人になりました。今度は私が、「どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!」と言われてしまうかもしれない立場に置かれているのです。
ということで、キリスト教のことをもっと知りたい、教会に行ってみたい、聖書を読んでみたい、イエス・キリストを信じたいという方がいたら、ぜひコンタクトしてください。
失敗学のすすめ
失敗学のすすめ
畑村洋太郎著の「失敗学のすすめ」(講談社)という本がある。
以前大学で学んでいた時から教えられていることを、改めて考えさせられる本だ。
なぜ「失敗学」なのか?
もし失敗の経験から学ぶことをしなければ、 同じ過ちを何度でも犯し、成長がない。
けれどももし失敗から学ぼうとするならば、少なくとも同じ過ちを犯すことから守られ、成長する。
失敗から学ぶということは、なぜ失敗したのかという原因を追求し、それに対処しながら生きること。
自分の失敗から学ぶことも大切であるが、他人の失敗から学ぶことも、とても大切。
改めて聖書に耳を傾けると、聖書は失敗学のテキストで満ちている。
創世記2章以降は、人間の失敗の連続の歴史が記されているといっても過言でない。
サタンの誘惑に負け、 善悪の知識の木の実を取って食べた(神を神としない) という大失敗。
神ではなく自分の知恵や力に頼ることによる失敗。
自分に栄光を帰したいという誘惑に負ける失敗などなど。
牧会伝道・教会形成において、時に牧師・伝道師も失敗を犯す。
あるいはキリスト者・教会の歩みにも様々な失敗がある。
しかし聖書は、決して失敗なさらない神が、私たちと共に歩んで下さっていることを語っている。
取り返しのつかない失敗を犯した者に、やり直しの機会を与えて下さる神。
失敗を益に(マイナスをプラスに)変えて下さる救い主なる神。
そのお方こそ、私たちのすべての罪過のために身代わりに十字架について下さったお方。
その御名は、主イエス・キリスト。
成功談を聞いても、慰めを受けることはほとんどないが、失敗談には慰めとやり直すことが出来るという福音がある。