NEW! 2002年 4月21日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)
11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。』」
ルカ11:1−4
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
マタイ6:13
これまで皆さんと一緒に、ルカの福音書の中から、主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈り、主の祈りを学んできました。今日は、キリストの弟子の祈りHということで、一番最後の、「アーメン」という言葉の素晴らしさを、ご一緒に味わいたいと思っています。
前回の、「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りと同様に、「アーメン」という祈りはイエス様が祈りを教えて下さった時にはありませんでした。
けれども、約2000年の間、キリスト教会は、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」という祈りを加えて、主の祈り、キリストの弟子の祈りを祈り続けています。
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」この祈りは、祈る時にはお願いだけでいいと仰った主イエスの恵みに応答する賛美だということを前回学びました。神にすべての栄光を帰す喜びの賛美を、キリストの弟子たちは加えずにはおれなくなったんですね。
そして一番最後に、「アーメン」という言葉が、祈りの最後を締めくくる言葉として、付け加えられています。
この「アーメン」という言葉は、今日教会に初めて来られた方でも、一度は聞いたことのある言葉ではないかと思います。なぜなら、キリスト信者が祈る時には、必ず最後に「アーメン」といって祈りを閉じるからです。(発音やアクセントはいろいろですが^・^)また、キリスト信者が二人でも三人でも一緒になって祈る時には、相手が祈っている途中でも、「アーメン」と言って、相手の祈りに心を合わせることをよくするからです。また、メッセージの途中で、「アーメン」と仰るかたもおられます。あまりにもキリスト信者が「アーメン。アーメン」というので、「キリスト教はアーメンの宗教だ」いうふうに言われたり、キリスト信者は、「あいつはアーメンだ」というふうに言われたりもします。
時々、キリスト信者をからかって「アーメン。ソーメン」などという方がおられます。それで、「アーメン」という言葉を、あえて「ソーメン」と比較して考えてみると、アーメンという言葉の力強さがよくわかるのではないかと思います。
ソーメンというのは、皆さんご存知の、あの白くて細い、引っ張ればすぐに切れてしまう麺です。「アーメン。ソーメン」と言われるぐらいですから、アーメンという言葉は、人間的に考えたら、ソーメンと同じように思える、弱々しい言葉なのでしょう。実際、キリストを信じる前の私は、「信仰というものは弱い人間のすることであって、神に頼るほど自分は弱くはない。」と本気で思っていましたので、アーメンという言葉は、まさにソーメンのように弱々しい言葉でした。
けれども、今私は、アーメンという言葉は、ソーメンのように弱々しい言葉ではなく、安全ベルト・腰道具についている命綱のように、本当に力強い、頼りになる言葉だと実感しているのです!(電柱やアンテナなどに登る経験から安全ベルト・腰道具についている命綱の大切さについて)
実はこのアーメンという言葉は、ほとんど世界共通語になっています。日本語でも「アーメン」と言いますし、英語でも「アーメン」といいます。新約聖書のギリシア語でも「アーメン」です。けれども「アーメン」という言葉は、もともとはヘブル語の言葉です。旧約聖書はヘブル語で書き記されましたが、この「アーメン」という言葉は、「真実に、本当に、まことに」という意味の言葉です。うそいつわりがないこと、そしてそれ故に、信じることが出来ること、信じて間違いないこと。そういうような意味で使われています。
面白いことに、この「アーメン」という言葉と、「信じる」というヘブル語の動詞とは同じ形をしています。ですから、旧約聖書の中で、「信じる」と言えば、信じることのできる確かなもの、つまりアーメンなるものを信じる、信頼できる確かなアーメンを信じるという意味が込められています。
祈りや会話の途中や最後で「アーメン」という時、そこには、「私も心から、本当にそう思います」「そのとうりになりますように」というような意味が込められています。
新約聖書の一番最後の書である黙示録の3章14節という所には、主イエス・キリストが、 「アーメンである方、忠実で、真実な証人」だと紹介されています。
イエス様が何か大切なことをおっしゃる時には、「まことに、あなたがたに告げます。」あるいは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言われました。実はこの「まことに」と訳されている所には、「アーメン」が使われています。ですから、「まことに、あなたがたに告げます。」というのは、「アーメン、あなたがたに告げます。」ということですし、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という所は、「アーメン、アーメン、あなたがたに告げます。」とアーメンが2回使われています。
この主の祈り、キリストの弟子の祈りを教えて下さった主イエス様こそ、アーメンなるお方、つまり、うそいつわりがないお方、真実なお方、信じて間違いのないお方なのです。
数年前、アカデミー最優秀主題歌賞に選ばれた、「When you believe」「あなたが信じる時」というゴスペルソングがあります。(スティーブン・シュワルツという人が作詞・作曲をし、マライヤ・キャリーとホイットニー・ヒューストンによって、デュエットで歌われた) この曲は、旧約聖書の出エジプト記を題材にしたアニメ映画「プリンス・オブ・エジプト」の主題歌でした。(この映画は若干脚色されていますが、最新のコンピュータグラフィックスを使って、聖書を生き生きと描いています。海が分かれるシーンや海の底を歩いて渡るシーンなども見ごたえがあります)
さて、この「When you believe」「あなたが信じる時」という歌の歌詞を、ここで少し、皆さんに紹介したいのです。こんな内容の歌詞です。
『幾日もの夜、私たちは祈りが聞かれるという確信を持てないけれども祈り続けてきた。
私たちの心の中には、小さな希望の歌があった。
今、私たちは、たくさんの恐ろしいことがあるのを知っている。でももう恐れない。
そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていたから。
あなたが信じる時、奇跡が起こる。
希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。
誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。
あなたが信じる時、
必ずあなたは神の栄光に満ちた奇跡を見るはず。
あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。
この恐れの時、
祈りが次々と空しく消えていく時。
希望はまるで夏の鳥のよう、
とても素早く空に飛び去ってしまう。
でも今、私はここに立っている。
私の心はとても満たされて、言葉にあらわせないほど。
捜し求めていた信仰、口にしているこの言葉。
私がこんなことを言うなんて、思いもしなかった。
あなたが信じる時、奇跡が起こる。
希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。
誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。
あなたが信じる時、
必ずあなたは神の奇跡を見るはず。
あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。
あなたが祈り求めても、いつも奇跡が起こるわけじゃない。
だから恐れと失望の中に落込んでいくことは簡単なこと。
でも、あなたが信仰を通して現実を見るとき、
あなたは雨の中で救いの道を見出す。
そして「助けはとても近くにある」とその道を歩いているあなたは言うでしょう。』
この中で、特にわたしの心に印象深く残っているのは、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていた」という言葉です。これは短い言葉ですが、聖書が教えている信仰を、的確に表現している言葉ではないかと思います。この言葉が意味しているのは、つまりこういうことです。「私たちが心の中で感じているよりもはるかに確実に、私たちの祈りは主なる神に聞かれている」ということです。
実際私たちキリスト者は、祈ってもすぐに応えられない経験をしばしば味わいます。また、まさに山のようにちょっとやそっとでは動かない、いや不可能だと思われる祈りの課題がたくさんあります。家族・親族や友人を覚えて祈る時、そんなふうに感じます。また、高い地位にある方たちや国々を覚えて祈る時、教会を覚えて祈る時、そんなふうに感じてしまいます。けれども、みこころにかなった祈りを主イエスに祈る時、この世界を包む主の祈りを日々祈る時、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしている」。ということが起っているのです。
以前森川先生が、べテル聖書学校や礼拝式において、ハイデルベルク信仰問答というものを少し紹介して下さっていました。ハイデルベルク信仰問答というのは、聖書の基本教理を理解するために良いガイドブックの中の一つです。使徒信条、十戒、主の祈りについての解説が中心ですが、その内容は慰めに満ちていてとても励まされます。このハイデルベルク信仰問答の、主の祈りのアーメンという言葉についての問いと答えは、先ほど紹介した歌の歌詞と共通するものがあります。
問129:「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
答:「アーメン」とは、それが真実であり、確実である、ということです。
なぜなら、これらのこと(主の祈りの内容)を神に願い求めていると、
わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
神の真実:全知全能の主なる神のことばは、その時がくれば実現する。
主によって語られたことは必ず実現する(出来事になる)。
人の真実(信仰):信じ切れない弱さ。肉の熱心。不敬虔で貧しい。無力。
もちろん聖書は信仰の書なので、信仰の大切さ、熱心に祈ることの大切さを教えている。しかし、大切なのは人の真実や熱心さ、人の敬虔さではなくて、神の真実、アーメンなる神の真実!
あの信仰の父アブラハムとサラも、バプテスマのヨハネの両親も、イエス様の両親も、みな信じきれない弱さを持っていた。つまり、本当の意味で、もし「私たちの信仰のとおり」にしかならないのなら、聖書に記されているほとんどの奇跡は起らなかったはず。けれども、信じ切れない弱さの中で、すべてをアーメンなる神に委ねて、失望せずに祈り続けるならば、主が栄光に満ちた奇跡を行なって下さるという歴史が、聖書には記されている!
今日はこの後、洗礼式が持たれます。洗礼式がある度に、私は自分が信仰のスタートラインに立った時のことを思い起こします。まさにアーメンなる主イエスに、全幅の信頼を寄せて、生涯キリストだけにすがって生きることを誓った時のことを。キリストとつなぎ合わされ、キリストと共に十字架につけられ、葬られ、そしてキリストと共に新しく生まれた者とされているということを、体全体に刻みつけ、生けるキリストの体である教会の枝とされた時のことを、なつかしく思い出します。アーメン。神の真実によって、そのとおりになりますようにという信仰の言葉で締めくくられたこのキリストの弟子の祈りを、日々私たちの祈りとして、新しいいのちの中を生き抜きたいと願わされます。
HBCの中高生キャンプでも教えられたことに神様の握手というものがありました。まず神様が私たちの腕をつかんで引き寄せて下さった故に、今私たちは礼拝に来ることが出来ています。そして信仰が与えられています。そのアーメンなる神の十字架の愛に応えて、「私はあなたを信じます。」といって私たちは神様の腕を握り返しました。これが私たちの信仰です。
けれども弱い、そして不信仰な私たちは、握っている手を放してしまうことがよくあります。もう信じない。聖書も読まないし教会にも行かないといって手を放してしまうこともあるかもしれません。けれども、あなたの腕をつかんでいて下さる神様は、決してあなたを放すことがないのです。「わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない。見よわたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束して下さったアーメンなる神の真実は絶対に変わらないのです。
はじめにアーメンとソーメンの話をしました。もう皆さんわかっていただけたでしょう。人間の真実、人間の信仰こそ、まるでソーメンのように弱くて切れやすいものなんです。けれどもアーメンなる神、うそいつわりのない神の御腕は、まさに命綱なのです。
あなたはこの人生の命綱を持っておられるでしょうか?命綱のない人生ほど、危険な人生はありません。ぜひアーメンなる神の真実を、あなたの命綱として受け入れ、このお方に全幅の信頼を寄せて、永遠のいのちと平安に満ちた、幸いな人生を共に歩みましょう。
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野町 真理