あの暗闇の中に、ただ一つの光だけが、しかしこの光は確実に、貫き、勝利をもって、輝くのである。それは、「汝は生きるべきである」ということではなく、汝は生きることがゆるされているーいかなる人間もほかのものに、またいかなるものも自分に対して、語ることができないが、しかし神ご自身が語られたし繰り返し語り給う汝は生きることがゆるされているーということである。
教会教義学 創造論Ⅳ/3 p174 より
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ロシアがウクライナに軍事侵攻を続けている今、「なぜ神さまは、プーチン大統領のような悪者をそのままにしておられるのか?」と疑問に思っておられる方も多いのではないか。実際あまりにも多くの血が、毎日のように流れ、100万単位の難民が祖国を追われ、流浪の民になっている。一刻も早く、この愚かで悲惨な戦いが止みますようにと、私も切に祈っている。
実は聖書を読んでいると、「なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?」という疑問が必ず起こる。なぜなら神さまは、悪魔に対して限定付きで悪事を働くことを許可されるし(旧約聖書ヨブ記冒頭参照)、悪事を働いていている悪者を放任しておられるような時が実際に多く見られるからである。
例えば最後の晩餐と言われる時(新約聖書ヨハネ福音書13章参照)、悪魔が暗躍し、イスカリオテのユダを操り、イエスを裏切ること・引き渡すことへと誘う。
「なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?」J.R.R.トールキンの書いた指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)は、この問題を取り扱っている。指輪物語には、ゴラムという悪者が登場する。ホビットのフロドは、狡猾なゴラムを殺そうとするが、魔法使いのガンダルフがそれを止める。「どんな悪者にも役割がある」とフロドを諭しながら。
あらゆる力を手にすることができる指輪を葬り去るために、フロドは仲間と共に旅を続ける。ネタバレになってしまうが、最後の最後で、フロドは指輪の持つ魔力に囚われ、指輪を滅ぼすことができなくなってしまう。その時あのゴラムがフロドに襲い掛かり、指輪争奪戦が始まる。ついに指輪を奪い取ったゴラムは、足を滑らせ、指輪と共に灼熱のマグマに落ちていく。結果的に悪者であるゴラムのおかげで、フロドと旅の仲間たちは、指輪を葬り去ることに成功するのである。
実は聖書が語る救済史においても、同じようなことが起こったのだ。悪魔とその手下となったイスカリオテ・ユダという悪者の存在が、結果的に主イエス・キリストを十字架の死へと向かわせることになるのである。そして、罪のない主イエスが、罪人の身代わりとして十字架で死なれることを通して、救いが完成し、新しい契約が成就し、主イエス・キリストは、死と悪魔と罪に勝利することができたのである。
私たち人間ひとりひとりは、ジグソーパズルの一つ一つのピースのようです。どのピースも形が微妙に違っていて、オンリーワンです。実はあなたも、オンリーワンです。世界中探したって、あなたのようなユニークな人はいません。ですからあなたは、かけがえのない大切な存在です。もしあなたが死んだら、だれもあなたの代わりはできません。
けれども私たちの現実は、ジグソーパズルの全体像が失われたまま、パズルのピースが全部バラバラになってしまったような状態です。それが「断片化」と言われる状態です。自分が本来いるべき場所がわからないのです。どこから来てどこに行くかもわかりません。何のために生まれてきたのか?何のために生きるのか?どんなに悩んでも、どんなに自分探しをしても、人生の意味や生きる理由は見つかりません。
しかし、ジグソーパズルの全体像は、パズルの作者によって、パッケージなどに美しく描かれ、明らかにされています。同じように、断片化し、全体像・世界観が見失われた中で、人間を造られた神、天地万物の創造主である神は、書き記された66巻の聖書を通して、時空を貫く全体像・世界観を見事に描いて見せておられます。