2020年6月3日の聖書と祈り会メッセージ。破壊から再創造へ48「聖書の神は世界史の神」。旧約聖書エレミヤ書46章から。聖書の神は、世界史の神、諸国民の神、ヤコブ・イスラエルの神である。「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。─主のことば─わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」と主の御声が響く。資料はhttps://flic.kr/p/2j8fUNF
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今は伝道できないという人がいる。私はそうは思わない。
今は伝道できないという人がいる。私はそうは思わない。
今こそ、キリスト者一人一人が、この困難な状況をどう受け止め、どう祈り、どう信じ、何が見たくて、何のために、どう預けられた人生を生きているかが問われ、世の人々から注目されている。
苦悩しながらも、変わらない聖書の中から、今この時に私たちに語りかけておられる神の言葉を聞き取り、預かり、それを主とともに語っていく。
この困難の向こう、ポストコロナの時代に、日本とアジアと世界において、やがて星の数の人々が、共に天を見上げ、兄弟姉妹として一緒に神を礼拝し賛美する時が必ず来ると信じながら。
今こそ、私たちが招かれた信仰の道を伝える絶好の機会だと私は考えている。
墓掘り人の手記 by オズ・ギネスより
80年代初頭、我々の時代でもっとも知的なクリスチャン作家のオズ・ギネスが、C・S・ルイスの『悪魔の手紙』をふまえた『Grave Digger’s File(墓掘り人の記録)』という本を書いたが、教会を内側から壊滅させるための戦略を上級の悪魔が語るというその内容は、U2について考える上でも参考になりそうだ。この本のなかで最も強力な作戦として挙げられているのは、教会を「内部の者には魅力的でも、外部とは切り離された世界にする」ということだった。
#墓掘り人の手記(by オズ・ギネス)より
##作戦4 教会をプライベート動物園化する
###所見:これはキリスト教会の福音宣教に対する最も効果的な迎撃方法だと思われる。
###作戦内容:教会(一人一人のキリスト者)を完全にパブリックから切り離し、孤立したプライベート空間に留まらせ、全世界の祝福の基としての使命を放棄させる。
###プライベートとバブリックの断絶化・断片化
教会と世界、キリスト者と社会、個人生活と公同生活の間にグランドキャニオンのような深い谷間を!
家族の縮小化 最小単位の核家族へ
家族の個人主義 社会貢献よりも個人の人生の充実を追い求める
家族の非生産化 熱望よりもただなんとなく過ごし、生産よりも消費志向
今最もモダンな人々は、リアルな自分でいれる孤島としてのプライベート空間を体験している?リアルな世界に生活していないリアルな自分?
ホームインフォメーションセンター 電子コテージ
教会の最高の仕事は、世界の宣教である
教会の最高の仕事は、世界の宣教である。by オズワルド・J・スミス
編集後記1
特別寄稿文までの最初の部分を、編集後記としてまとめてみたいと思います。
時期尚早と思われても熱い祈りが積まれ、世界宣教に果敢にチャレンジし続けた50年。宣教された経験を生かして、日本とアジアと世界に仕えることを試みた日本同盟基督教団の歴史。
最初の15年は「準備と派遣」、次の10年は「継続と発展」、その後の15年は「成熟と調整」、そして最近の10年は「新たな挑戦」の時です。戦争の70年があり、戦争放棄の70年がありました。今は「人・もの・情報」の世界的大移動がもたらすグローバル化と多元化が急激に起こっています。次の半世紀を見据えた新たな挑戦の時です。
20年後に迎える国外宣教70周年に向けて、アジア全域に宣教師を派遣することをビジョンとして掲げています。日本国内にいる外国人や国外にいる日本人がますます増え続けています。毎年1600名以上を数える海外で主イエスに出会った帰国者のフォローも急務です。国内と国外。実はそんなふうに考えることが改めて問われています。置かれている場所がエルサレムであり、そこにおいても世界宣教が可能であり、そこから世界を宣教区として、地の果てを目指します。
教師と信徒。それぞれに日本人もいますが国籍や文化の違う人たちもいます。多様化は今後ますます進むと思われます。正教師を中心とした教職宣教師と信徒宣教師、長期と短期、技術宣教師、医療宣教師、委託派遣などなど。特に各教会から海外に遣わされる信徒の一人一人が、これからの宣教の鍵を握っていると思われます。
各教会において、各宣教区において、各大会において、共に主イエス・キリストの御声に聞く祈りから始めることができたなら、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と仰せられる主が、私たち日本同盟基督教団をこれまで以上に豊かに用いてくださり、様々な教団や宣教団体との宣教協力の中で、世界宣教を成し遂げてくださると私は堅く信じています。
前国外宣教委員 野町真理(杉戸キリスト教会牧師)
日本同盟基督教団105周年記念大会 横浜宣言
日本同盟基督教団105周年記念大会—横浜宣言—
私たちは、日本同盟基督教団に連なる全ての聖徒たちと共に、宣教105周年のこの記念すべき時に、初期の宣教師たちの霊的遺産を受けとめ、神のみ許しの中で刻んできた教団の宣教の「きのう」、「きょう」、「あす」を見つめ直し、21世紀にむかい、神のみ前に以下の宣言をします。
1.日本同盟基督教団の歩みは、フレデリック・フランソンとその仲間たちによって米国シカゴに設立された「北米スカンジナビアン・アライアンス・ミッション」から日本に派遣された、スカンジナビア出身の男女15名の宣教師たちの横浜上陸(1891年・明治24年11月23日)をもって開始されました。
2.宣教師たちの来日した時代は、福音宣教にとって、必ずしも好機とは言えませんでした。「大日本帝国憲法」発布(1889年・明治22年)、「教育勅語」発令(1890年・明治23年)など、明治国家の基軸がすえられ、西洋思想排斥や民族回帰思想の強まる時代でした。それでも、宣教の熱意に燃えた宣教師たちは、それまで他教派の踏み込まない「伊豆半島」、「房総半島」、「伊豆七島」、「飛騨」、「アイヌ人地域 」など、日本各地の福音未伝地に向かいました。当時の未伝地伝道は、多大の困難と迫害の伴う生死をかけた宣教であり、強い信仰と忍耐を要し、宣教の基盤をすえるまでには長い年月を必要としました。しかし、宣教師たちは幾多の試練を乗り越え、困難によく耐え、伝道と奉仕の業に努め、各地に教会の基礎を築きました。「日本同盟基督教団」は、こうした霊的遺産と宣教の基盤を受け継いで、今日に至っています。
3.その後、宣教師たちとの間に「日瑞(にっすい)同盟基督協会」の誕生を見、「日本同盟基督協会」(1922年・大正11年)が形成されました。戦時下には、「宗教団体法」の実施に伴い、「日本基督教団」(1941年・昭和16年)設立時に、第八部に合同しました。戦後、その一部の教会は日本基督教団離脱を決意し、新たに「日本同盟基督教団」(1949年・昭和24年)を結成しました。
4.かえりみて、戦時下、特に「昭和15年戦争(1931-1945年)」の間、私たちの教団 は、天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家神道を偶像問題として拒否できず、かえって国民儀礼として受け入れ、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」・「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではなら ない。それらに仕えてはならない」との十戒の第一戒と第二戒を守り抜くことができませんでした。さらに近隣諸国の諸教会と積極的に平和をつくり出す者として生きることができず、国家が推進した植民地支配や侵略戦争に加担し、アジア地域の侵略に協力しました。こうして神と隣人の前に、とりわけアジアの人々に、偶像礼拝の強要と侵略の罪を犯し、しかも戦後、この事実に気付かず、悔い改めに至ることもなく、無自覚なままその大半を過ごしました。
近代日本の100年余の歴史に重なる私たちの教団の歴史をかえりみ、私たち教職・信徒は、「信仰と生活の唯一絶対の規範」である神のみことばに、十分聞き従い続けることができなかったことを主のみ前に告白し、悔い改め、神と隣人とに心から赦しをこい求めます。私たちは、今、あらためて、堅く聖書信仰の原理に立ち、聖霊の助けにより、福音にふさわしい内実を伴ったキリストの教会へと変革されることを心から願います。
5.私たちは、21世紀を目前にした歴史的節目にあたり、戦前・戦後の宣教師たちの 「世界的視野に立った宣教」、「犠牲をおしまない救霊の情熱」、「教派形成にとらわれない宣教協力」という優れた霊的遺産を受け継いできた光栄を覚えます。その背後にあったフランソン宣教師のモットー「キリストとの恒常的、自覚的、親密な交わり」 (Constant,Conscious,Communion with JESUS CHRIST)に示される敬虔な信仰姿勢を深く心に刻みます。さらに、初期宣教師たちが、この困難な異教の地盤に鍬をおろし、あえて福音未伝地を目指した宣教精神を受け継ぐことを決意します。
6.宣教105年をかえりみて、私たちの教団の使命とそのあり方は、福音宣教に果敢に生きることにあります。さらに、すべての教会が一致・協力して、キリスト再臨の待望に生き、聖霊の力を頂き、潔い生活を目指し、世の終わりまで、全世界に出て行ってすべての造られた者に福音を宣べ伝えることです。 国内宣教においては、国家が再び危険な道を歩み始めている今日、主から託された見張りの使命を自覚しつつ「1億2千万宣教」に励み、国外宣教においては、全世界の諸国・諸民族間の分裂と混迷と困窮の時代にあって、「マケドニアの叫び」を聞きつつ、 世界宣教の使命を果たします。そのために、教団内の組織と機関を再点検し、活性化させ、個人、家庭、教会、教団の宣教体制をさらに整えてゆきます。
私たちの、21世紀の宣教にむかう祈りは、日本と、アジアと、世界に目をむけ、全世界の神の民と福音を共有できることを喜び、犠牲をいとわず、福音宣教に燃えて輝く群れとなることにあります。ここに、私たち日本同盟基督教団の教職・信徒は、父なる神と、み子イエスと、聖霊のみ前にあって、新たなる前進を図ることを決意し、表明します。
『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』(マタイ 24:14)
1996.11.19 MISSION 21 Yokohama
立体的福音宣教について
立体的福音宣教について
私たち日本同盟基督教団は、国内宣教、国外宣教、そして次世代育成の青年宣教を三本柱にしています。現在私は国外宣教委員会から伝道部(国内宣教)に移り、宣教区長も他の先生にしていただいております。
けれども、廣瀬薫理事長が教団誌「世の光」の2019年5月号に書かれている「立体的な宣教」とは、やはり「国内宣教だけに限定されない世界宣教」だと覚えます。
海外在住の邦人宣教、国内在住の外国人宣教、さらには海外で信仰に導かれた後に日本に帰国されるリターニーのフォローアップ。実に聖書が語る「立体的な宣教」とは、それらが互いにリンクしあった、立体的、統合的、多角的な宣教協力ではないでしょうか。さらには、国内宣教においても、諸外国から派遣される宣教師との宣教協力が立体的な宣教をもたらします。
アメリカから次々に遣わされ日本国内で実践的訓練を受けている次世代のTEAM宣教師たち。韓国を中心としたアジアからの多くの宣教師たち。そのような宣教師たちとの宣教協力がさらに豊かにされる。そのような「立体的な宣教」によって、日本とアジアと世界に仕える世界宣教が成し遂げられていくことを夢見ています。
聖書 新改訳2017 のまちゃん牧師の聖句メモ
宗教改革500周年記念で出版された聖書新改訳2017。47年ぶりの大改訂。改めて丁寧な比較と対話が必要なことを覚えています。加筆修正しつつ、のまちゃん牧師が聖句メモを記します。この冬には新共同訳も新しくなります。文語訳、口語訳、新改訳、新共同訳、リビングバイブルなどに加えて、聖書協会共同訳。新たな日本語訳の聖書が増えることは恵みです。履き慣れた靴以上に、使い慣れた聖書は変えがたいです。でも、いつも新鮮な生きた神の言葉を聞き続けるために、新しい聖書は強力な助けになります。
旧約聖書
創世記3章1節
さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(新改訳2017)
さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(これまでの新改訳)
蛇(悪魔)に関して、「一番狡猾であった」から「ほかのどれよりも賢かった」に改訳されました。原語の意味には、両面あります。人間が蛇(悪魔)の誘導尋問に囚われて接した時、蛇(悪魔)は「ほかのどれよりも賢かった」と見えたからこそ、人間は蛇(悪魔)の言葉を信じて聞き従ったのでしょう。その時もし蛇(悪魔)が「一番狡猾であった」と見抜くことができたなら、善悪の知識の木からその実を取って食べることはなかったでしょう。
創世記15章5節
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」(新改訳2017)
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(これまでの新改訳)
「星を数えることができるなら、それを数えなさい」が「星を数えられるなら数えなさい。」と簡潔になりました。これが新旧約を貫く教会のイメージ、神のビジョン(His Vision)です。
創世記15章6節
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(新改訳2017)
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(これまでの新改訳)
旧約聖書の創世記に記されている信仰義認の箇所。これまでは「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」でしたが、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という表現になりました。「信じたことが義と認められた理由」であると、しっかり伝わってきます。新旧約を貫いて、信仰によって義と認められることがより明確になりました。
出エジプト記20章1−17節(十戒)
それから神は次のすべてのことばを告げられた。 2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。 3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。 4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。 5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。 8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。 9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。 10 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。 11 それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。 12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。 13 殺してはならない。 14 姦淫してはならない。 15 盗んではならない。 16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。 17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(新改訳2017)
それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。 2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。 3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 7 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。 8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。−−あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も−− 11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。 12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。 13 殺してはならない。 14 姦淫してはならない。 15 盗んではならない。 16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。 17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」 (これまでの新改訳)
十戒は細かい所が改訳されています。
レビ記19章13ー18節
あなたの隣人を虐げてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで自分のもとにとどめておいてはならない。 14 あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは主である。 15 不正な裁判をしてはならない。弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しくさばかなければならない。 16 あなたは、民の中で人を中傷して回り、隣人のいのちを危険にさらすことがあってはならない。わたしは主である。 17 心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。 18 あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。(新改訳2017)
あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。 14 あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは【主】である。 15 不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。 16 人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは【主】である。 17 心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。 18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。(これまでの新改訳)
民数記13章30ー33節
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」 31 しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」 32 彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 33 私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」(新改訳2017)
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」 31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」 32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(これまでの新改訳)
申命記8章1ー10節
私が今日あなたに命じるすべての命令を、あなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生きて数を増やし、主があなたがたの父祖たちに誓われた地に入って、それを所有することができる。 2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。 4 この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。 5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。 6 あなたの神、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。 7 あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、 8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。 9 そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。 10 あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。(新改訳2017)
私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、【主】があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。 2 あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを、知らなければならない。 6 あなたの神、【主】の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 7 あなたの神、【主】が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、 8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。 9 そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。 10 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、【主】をほめたたえなければならない。 (これまでの新改訳)
ヨシュア記5章13ー15節
ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」 14 彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」 15 主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(新改訳2017)
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」 14 すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」 15 すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(これまでの新改訳)
「主に対する服従によって勝利者となれる」という霊的真理が教えられている大切な箇所。「ヨシュアがエリコの近くにいたとき」が「ヨシュアがエリコにいたとき」に。そびえ立つエリコの城壁を前にしてヨシュアが目を上げた時、主の軍の将が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。そんな光景が描かれています。
士師記6章11ー14節
さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。 12 主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」 13 ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」 14 すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(新改訳2017)
さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。 12 【主】の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」 13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、【主】は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」 14 すると、【主】は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(これまでの新改訳)
自分の無力さを覚えていたギデオンが、主の働き手として主に召される場面。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」が「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」に。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」が「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」に。1991年の夏に韓国で聞いた神の言葉が、2018年に新しく響いています。
ルツ記1章16ー17節
ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 17 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」 (新改訳2017)
ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」(これまでの新改訳)
死に至るまで忠実に歩むことを誓うルツの信仰告白。「あなた」が「お母様」と訳されることで、まるでお芝居を見ているように、ルツの姿が立ち上がってきます。
サムエル記第一1章15ー18節
ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。 16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」 17 エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」 18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。(新改訳2017)
ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は【主】の前に、私の心を注ぎ出していたのです。 16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」 17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」 18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(これまでの新改訳)
サムエルの母とされたハンナの、心を注ぎ出す長い祈り。食事も喉を通らなかったほど悩み苦しんでいたハンナが、美味しく食事することができるようになった理由。
サムエル記第二1章17ー27節
ダビデは、サウルのため、その息子ヨナタンのために、次の哀歌を歌った。これはユダの子らに弓を教えるためのもので、『ヤシャルの書』にまさしく記されている。「イスラエルよ、君主はおまえの高き所で殺された。ああ、勇士たちは倒れた。これをガテに告げるな。アシュケロンの通りに告げ知らせるな。ペリシテ人の娘らを喜ばせないために。 無割礼の者の娘らが喜び躍ることがないために。ギルボアの山よ。高原の野よ。おまえたちの上に、露は降りるな。雨も降るな。そこでは勇士たちの盾が汚され、サウルの盾に油も塗られなかったからだ。殺された者の血から、勇士たちの脂から、ヨナタンの弓は退くことがなく、サウルの剣も、空しく帰ることがなかった。サウルもヨナタンも、愛される、立派な人だった。生きているときも死ぬときも、二人は離れることはなく、鷲よりも速く、雄獅子よりも強かった。イスラエルの娘たちよ、サウルのために泣け。サウルは、紅の衣を華やかにおまえたちに着せ、おまえたちの装いに金の飾りを着けてくれた。ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。あなたのために私はいたく悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜び楽しませ、あなたの愛は、私にとって女の愛にもまさって、すばらしかった。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器は失せた。」(新改訳2017)
ダビデは、サウルのため、その子ヨナタンのために、この哀歌を作り、この弓の歌をユダの子らに教えるように命じた。これはヤシャルの書にしるされている。「イスラエルの誉れは、おまえの高き所で殺された。ああ、勇士たちは倒れた。これをガテに告げるな。アシュケロンのちまたに告げ知らせるな。ペリシテ人の娘らを喜ばせないために。割礼のない者の娘らを勝ち誇らせないために。ギルボアの山々よ。お前たちの上に、露は降りるな。雨も降るな。いけにえがささげられた野の上にも。そこでは勇士たちの盾は汚され、サウルの盾に油も塗られなかった。ただ、殺された者の血、勇士たちのあぶらのほかは。ヨナタンの弓は、退いたことがなく、サウルの剣は、むなしく帰ったことがなかった。サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、鷲よりも速く、雄獅子よりも強かった。イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。」(これまでの新改訳)
あれほどダビデの命を狙ったサウル王が死んだ時、ダビデは衣を割いてサウルのために泣き、哀歌を作り、ユダの子らに弓を教えるために歌わせた。喜ぶ神と共に喜び、痛む神と共に痛む。ダビデの心は、それほど主と一つになっていた。喜ぶ神と共に喜び、痛む神と共に痛む。そのような心がなければ、決して幸せではない。
列王記第一19章1ー8節
アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。 2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」 3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、 4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」 5 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。 6 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。 7 主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。 8 彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。(新改訳2017)
アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。 2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」 3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、 4 自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「【主】よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」 5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。 6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。 7 それから、【主】の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。 8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。(これまでの新改訳)
危機の時代に力強く神の言葉を語った預言者エリヤにも、弱い時、早く死にたいと願うほどにうつ的な時があった。それは、痛んだ葦を折ることなく、くすぶる灯芯を消すことのない優しい主を知る絶好の機会となった。
列王記第二2章9ー14節
9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。 10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」 11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。 12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。 13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。 14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。(新改訳2017)
渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。 10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」 11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。 12 エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。 13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。 14 彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、【主】はどこにおられるのですか」と言った。彼も水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。(これまでの新改訳)
「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」が「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」に。預言者エリヤから預言者エリシャへバトンタッチの時。口を大きく開けて大胆に2倍のものを求めたエリシャは、その後、質量ともに2倍の働きのために用いられていった。
歴代誌第一4章9ー10節
9 ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけていた。 10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。(新改訳2017)
9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。 10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。(これまでの新改訳)
ヤベツの祈り。「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」が「私が痛みのうちにこの子を産んだから」に。「私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」が「私が痛みを覚えることのないようにしてください。」に。
歴代誌第二36章11ー21節
11 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。 12 彼はその神、主の目に悪であることを行い、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。 13 彼はまた、彼に神にかけて誓わせたネブカドネツァル王に反逆した。彼はうなじを固くし、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。 14 そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の忌み嫌うべきすべての慣わしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。 15 彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに早くからたびたび使者を遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の住まいをあわれまれたからである。 16 ところが、彼らは神の使者たちを侮り、そのみことばを蔑み、その預言者たちを笑いものにしたので、ついに主の激しい憤りが民に対して燃え上がり、もはや癒やされることがないまでになった。 17 主は、彼らのもとにカルデア人の王を攻め上らせた。彼は、聖所の中で若い男たちを剣で殺し、若い男も若い女も、年寄りも弱い者も容赦しなかった。主は、すべてのものを彼の手に渡された。 18 彼は、神の宮の大小すべての器、主の宮の財宝と、王とその高官たちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。 19 神の宮は焼かれ、エルサレムの城壁は打ち壊され、その高殿はすべて火で焼かれ、その中の宝としていた器も一つ残らず破壊された。 20 彼は、剣を逃れた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして彼らは、ペルシア王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。 21 これは、エレミヤによって告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。(新改訳2017)
11 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。 12 彼はその神、【主】の目の前に悪を行い、【主】のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。 13 彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、【主】に立ち返らなかった。 14 そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された【主】の宮を汚した。 15 彼らの父祖の神、【主】は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。 16 ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、【主】の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。 17 そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。 18 彼は、神の宮のすべての大小の器具、【主】の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。 19 彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。 20 彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。 21 これは、エレミヤにより告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。(これまでの新改訳)
亡国の歴史。バビロン捕囚に至った記録。
エズラ記1章1ー5節
ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。 2 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。 3 あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。 4 あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」 5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。(新改訳2017)
ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。 2 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。 3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。 4 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」 5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある【主】の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。(これまでの新改訳)
「ペルシヤの王クロス」が「ペルシアの王キュロス」に。異国の王の霊を奮い立たせ、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち全員の霊を奮い立たせて、エルサレムの神殿再建のために用いられる神を改めて覚える。同じ主が私たち全員の霊も奮い立たせてくださるように!
ネヘミヤ記1章1ー4節
ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がスサの城にいたときのことであった。 2 私の兄弟の一人ハナニが、ユダから来た数人の者と一緒にやって来た。私は、捕囚されずに残された逃れの者であるユダヤ人たちについて、またエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。 3 彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」 4 このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。(新改訳2017)
ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、 2 私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。 3 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」 4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、(これまでの新改訳)
「シュシャンの城」が「スサの城」に。城の名前も慣れ親しんだ名前が変わるとかなり違和感があります。
エステル記6章1ー2節
その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じた。そしてそれは王の前で読まれた。 2 その中に、入り口を守っていた王の二人の宦官ビグタナとテレシュが、クセルクセス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれているのを見つけた。(新改訳2017)
その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。 2 その中に、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタナとテレシュが、アハシュエロス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれてあるのが見つかった。(これまでの新改訳)
エステル記の分水嶺となっている6章冒頭の聖句。心を合わせた真剣な祈りは、このような形で見事に応えられ、民族全体のいのちが救われていった。「アハシュエロス王」が「クセルクセス王」に。これは1章1節の欄外注に記されているように、ヘブル語表記との違い。
ヨブ記2章9ー10節
9 すると、妻が彼に言った。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」 10 しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。(新改訳2017)
9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」 10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。(これまでの新改訳)
サタン(悪魔)が限定付きでヨブを攻撃した時の、ヨブの妻とヨブとの会話。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」が「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」に。「幸せ半分、不幸半分、それでもいいね?」とヨブは改めて彼女にプロポーズしている。
詩篇1篇3節
その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。(新改訳2017)
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(これまでの新改訳)
「水路のそばに植わった木」から「流れのほとりに植えられた木」に。自分で植わったわけではなく、植えられた(受身形)であることが明確になりました。新共同訳と同じ「流れのほとり」という表現も素敵です。
詩篇81篇10−16節
わたしは あなたの神 主である。わたしが あなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしが それを満たそう。しかし わたしの民はわたしの声を聞かずイスラエルは わたしに服従しなかった。それでわたしは 彼らを頑なな心のままに任せ自分たちのはかりごとのままに歩ませた。ああ ただ わたしの民がわたしに聞き従いイスラエルがわたしの道を歩んでいたなら。わたしはただちに 彼らの敵を征服し彼らに逆らう者に 手を下したのに。主を憎む者どもは主にへつらうが 彼らの刑罰の時は永遠にまで至る。しかし主は 最良の小麦を御民に食べさせる。わたしは岩から滴る蜜で あなたを満ち足らせる。」(新改訳2017)
わたしが、あなたの神、【主】である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」【主】を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」(これまでの新改訳)
「しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。」が「しかし主は 最良の小麦を御民に食べさせる。」に。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」が、「わたしは岩から滴る蜜で あなたを満ち足らせる。」に。主よ!私たちが口をもっと大きく開けることができますように。そしてあなたが、私たちの口を、最良の小麦と岩から滴る蜜で満たしてくださいますように!
箴言3章5−6節
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。(新改訳2017)
心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(これまでの新改訳)
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」が「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。」に。杉戸キリスト教会の辻浦定俊牧師が、繰り返し教えてくださった大切な聖句。
伝道者の書10章10節
斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。(新改訳2017)
もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。(これまでの新改訳)
ただがむしゃらに、ただ真面目に、休まないで働き続けることが、いかに非効率で馬鹿げているかを教える聖句。何事においても、とくに人の命がかかっている職業についている人はなおさら、定期的にしっかり休みを取り、刃を研ぐように知恵、すなわち熟練技術(スキル)を磨き続けることがどうしても必要です。燃え尽き症候群にならないためにも。
雅歌8章4節
エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。(新改訳2017)
エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(これまでの新改訳)
「誓っていただきます。」が「お願いします。」に。「愛が目ざめたいと思うときまでは。」が「愛がそうしたいと思うときまでは。」に。歌の中の歌が、より優雅な日本語になりました。
イザヤ40章8節
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(新改訳2017)
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(これまでの新改訳)
「草は枯れ、花はしぼむ」が「草はしおれ、花は散る」に。儚い桜を愛でる日本人には、「花は散る」という日本語がしっくりくるのではないでしょうか。人生80年といっても、2万9千2百日しかありませんから。
イザヤ40章31節
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(新改訳2017)
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(これまでの新改訳)
「翼をかって上る」が「翼を広げて上る」に、「走ってもたゆまず」が「走っても力衰えず」に。この箇所の変更には、若い世代への配慮を感じます。
エレミヤ31章3節
主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。(新改訳2017)
【主】は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(これまでの新改訳)
「誠実を尽くし続けた。」が「真実の愛を尽くし続けた。」に。”True Love”ですね。
エレミヤ31章20節
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──(新改訳2017)
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。−−【主】の御告げ−− (これまでの新改訳)
「神のはらわたがわななく」理由として、「わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。」が「わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。」に。これはより原文の意味に近づいた良い翻訳でしょう。北森嘉蔵師による「神の痛みの神学」で有名な聖句です。
エレミヤ31章34節
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」(新改訳2017)
そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。−−【主】の御告げ−−わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(これまでの新改訳)
「彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」が「もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」に。私としては「二度と思い出さない」という表現に何度も励まされてきたので、ちょっと残念な改訳。「もはや」という日本語は否定的表現で使われることも多いので。(例:もはやこれまで、もはや手遅れ)
哀歌3章21−24節
私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(新改訳2017)
私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(これまでの新改訳)
この箇所では、節を超えて改訳されています。実に、私たちは滅び失せなかった理由。それは、主のあわれみが尽きないからです。主のあわれみが朝ごとに新しいからです。
エゼキエル24章15−18節
次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、見よ、わたしは一打ちで、あなたの目の喜びを取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。死者のためにうめけ。しかし、喪に服してはならない。頭にターバンを巻き付け、足に履き物をはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。(新改訳2017)
次のような【主】のことばが私にあった。「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。(これまでの新改訳)
「あなたの愛する者」が「あなたの目の喜び」に。「声をたてずに悲しめ。」が「死者のためにうめけ。」に。預言者エゼキエルに対する、主なる神からの厳しいメッセージ。愛する妻が死んだ時、エゼキエルは命じられたとおりにした。
ダニエル12章2−3節
ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。(新改訳2017)
地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(これまでの新改訳)
「多くの者を義とした者」が「多くの者を義に導いた者」に。義とする方は神ご自身であることが強調された。
ホセア1章2節
主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」(新改訳2017)
【主】がホセアに語り始められたとき、【主】はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は【主】を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」(これまでの新改訳)
霊的な姦淫(宗教や占いなど)と肉的な姦淫(フリーセックス、不倫、浮気、婚前交渉など)にふけっている私たち人間に対する、主なる神さまの気持ちを知らせるために、預言者ホセアに命じられた聖句。「この国は【主】を見捨てて」が「この国は主に背を向け」に。
ヨエル2章28−29節
その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。(新改訳2017)
その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(これまでの新改訳)
「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」が、「老人は夢を見、青年は幻を見る。」に改訳されました。「しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」が、「男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」になりました。ペンテコステ(聖霊降臨日)に出来事になった預言ですが、今の時代にも、まさに必要な聖霊の油注ぎが、老若男女に約束されています。
アモス8章11節
見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。(新改訳2017)
見よ。その日が来る。−−神である主の御告げ−−その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。(これまでの新改訳)
「その日」が「その時代」に、「ききん」が「飢饉」になりました。「主のことばを聞くことの飢饉」ほど恐ろしいものはありません。日本の牧師の9割が50歳以上です。高齢化した教会において若手牧師に即戦力が求められる中、日本の牧師は既に絶滅危惧種です。「若い牧師が続々と起こされますように」と、大収穫の主に真剣に祈りましょう。
オバデヤ13−15節
おまえは彼らのわざわいの日に、わたしの民の門に入ってはならない。ほかでもないおまえが、彼の破局の日に、そのわざわいを眺めていてはならない。彼の破局の日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。その逃れる者を断つために、別れ道に立ちふさがってはならない。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡してはならない。 なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。(新改訳2017)
彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。【主】の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。(これまでの新改訳)
なぜ対岸の火事のように、他人の不幸を眺めていてはならないのか。その理由が「なぜなら」という接続詞によって明らかにされました。文脈を関連づける接続詞は、とても大切です。
ヨナ4章10−11節
主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」(新改訳2017)
【主】は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(これまでの新改訳)
福音の空洞化が起こっている未伝地としての大都市に対する、主なる神の救霊の情熱がほとばしる聖句。「町」から「都」に、「とうごま」が「唐胡麻」になるとだいぶ響きが違ってきますね。私たち日本同盟基督教団は、このみことばを覚えて、東京や大阪といった大都市に対する犠牲を惜しまない開拓伝道(都市伝道)のために祈り備えています。
ミカ5章2節
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(新改訳2017)
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(これまでの新改訳)
大都市ではなくあまりに小さい地方。エルサレムではなくユダヤのベツレヘム。若者がどんどん出て行くような片田舎で、メシア(キリスト)が生まれる。それが永遠の昔からの定めでした。クリスマスにイエス・キリストがベツレヘム(パンの村=穀倉地帯)で生まれることは、旧約聖書で預言されていました。
ナホム1章2節
主はねたんで復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はご自分に逆らう者に復讐し、敵に対して怒る方。(新改訳2017)
【主】はねたみ、復讐する神。【主】は復讐し、憤る方。【主】はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。(これまでの新改訳)
「その仇」を「ご自分に逆らう者」に。最近あまり使われなくなった日本語を、わかりやすい表現に変えています。
ハバクク2章4節
見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(新改訳2017)
見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(これまでの新改訳)
旧新約を貫く信仰義認に関する聖句。大切なことは変わりません。
ゼパニヤ3章17節
あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。(新改訳2017)
あなたの神、【主】は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(これまでの新改訳)
「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ」が「主があなたのことを大いに喜び」に。「主があなたを喜ばれる」というメッセージが繰り返しによって強調されています。
ハガイ1章4−5節
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」今、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。(新改訳2017)
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の【主】はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。(これまでの新改訳)
いつの時代にも、神のことよりも自分のことを優先したい私たちに対する主からのメッセージ。「あなたがたの現状をよく考えよ。」が「あなたがたの歩みをよく考えよ。」に。現状というよりは生き方、ライフスタイル、生活習慣が問われています。
ゼカリヤ8章2節
万軍の主はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。(新改訳2017)
万軍の【主】はこう仰せられる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」(これまでの新改訳)
「ひどい憤りでこれをねたむ。」が「激しい憤りをもってこれをねたむ。」に。訳語を統一して「ひどい」という日本語が持つ否定的な響きを避けました。
ゼカリヤ9章9節
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。(新改訳2017)
シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(これまでの新改訳)
王なるイエス様が、ろばの子に乗って来られることが預言されている聖句。エルサレム入城の時に出来事になりました。
ゼカリヤ11章13節
主は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。(新改訳2017)
【主】は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。(これまでの新改訳)
イエス様が銀貨30枚で売り渡される(引き渡される)ことが預言されている聖句。イスカリオテ・ユダによって出来事になりました。
マラキ3章10節
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(新改訳2017)
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。−−万軍の【主】は仰せられる−−わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(これまでの新改訳)
「月定献金」ではなく、「十分の一献金」を教えている聖句の一つ。「神を試してみよ」と勧められているユニークな箇所。私はこれを試してから、本当に経済的に困ることがなくなりました。ハレルヤ!
新約聖書
マタイ福音書1章11−12節
バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、(新改訳2017)
ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、(これまでの新改訳)
マタイ福音書1章で、大きな変更点は、カタカナの名前が大幅に変更されたこと以上に、「バビロン移住」が「バビロン捕囚」になったこと。日本においては、「終戦」を「敗戦」と改訳したほどのインパクトではないでしょうか。旧約聖書に書き記されたイスラエルの歴史に耳を傾けると、自らの罪と恥の結果、主なる神の怒りを買い、無条件降服、そして強制連行によってバビロン捕囚に至る経緯が明記されています。自らの罪をごまかしたり、なかったことにしたり、お茶を濁すような曖昧な言葉ではなく、ごまかさない、なかったことにしない、お茶を濁さないこの新改訳2017の言葉こそ、ルターが語った「日々悔い改め」の初めの一歩ではないでしょうか。
マタイ福音書2章18節
東日本大震災の後に日本で出版される日本語訳の聖書として、心に響きます。
「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」
マタイ福音書6章13節
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』(新改訳2017)
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕(これまでの新改訳)
これまで主の祈りの最後の頌栄の部分は、後から弟子たちが付け加えたものという共通の理解のもとでカッコ〔〕に入っていました。信頼できる古い写本には、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」という頌栄の部分はありませんから。ですから新改訳2017では、あえて頌栄の部分をカットしました。つまり、最初にイエス様が主の祈りを教えられた時には、頌栄の部分はなくて、「祈りはすべてお願いでよい」と教えてくださったとの理解です。でもそのような主のご配慮を覚えれば覚えるほど、私たちの応答として、頌栄を付け加えるのは自然です。
マタイ福音書6章34節
「だから、あすのための心配は無用です。」が「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」に。
心配性の私たちに優しく寄り添う素敵な訳です。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
マタイ福音書の18章3節
「悔い改めて」を「向きを変えて」に新改訳!これで「悔い改める」という聖書的専門用語の意味が明快に伝わってきます。素晴らしいですね。
こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どものようにならなければ、決して天の御国には入れません。
マルコ福音書5章25ー30節
そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」(新改訳2017)
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。(これまでの新改訳)
ヤイロの娘の癒しの間に、十二年長血をわずらっている女の癒しが記されている。かなり改訳されている。
ルカ福音書12章27節
草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。(新改訳2017)
ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。(これまでの新改訳)
「ゆりの花」が「草花」になってしまいました。これは前の訳が良かったと私は思います。「ソロモンでさえ、この花の一つほどにも」と続きますから。
ルカ福音書15章10節
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」(新改訳2017)
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(これまでの新改訳)
この聖書の箇所に限っては、ちょっと残念な訳になったという印象。一人の人がイエス様を信じ受け入れて救われる時、天国では神とともに天使たちも歓喜し、喜びがわき起こる。そのような喜びを一緒に味わっていきたいと切に願う。
ルカ福音書15章20節
「走り寄って彼を抱き、口づけした。」が「駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」に。
「走り寄る神」というメッセージ題がありましたが、今度は「駆け寄る神」。
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
ルカ福音書24章36ー53節
36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。 38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。 39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」 40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。 41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。 42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。 44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」 45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、 48 あなたがたは、これらのことの証人となります。 49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」 50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。 52 彼らは**イエスを礼拝した後**、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、 53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。(新改訳2017)
36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。 37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」 40 〔イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった。〕 41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。 42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、 43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。 44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」 45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 48 あなたがたは、これらのことの証人です。 49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」 50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。 52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、 53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。(これまでの新改訳)
ルカ福音書の最後の部分においては、36節、40節、51節、52節において、これまで欄外注で紹介されていたいくつかの内容が、聖書本文として加えられています。特に40節はこれまでありませんでしたが、加えられました。
ヨハネ福音書10章29節
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。(新改訳2017)
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(これまでの新改訳)
聖書(写本)の異本をどう扱うのかということで生じた大きな変化。使徒20章28節の「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」と同じ響きを持つ素晴らしい訳になりました。
使徒の働き14章8ー10節
さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。(新改訳2017)
ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。(これまでの新改訳)
「ある足のきかない人」が「足の不自由な人」に。「生まれつき足のなえた人」が「生まれつき足が動かず」に。新改訳第3版でも差別用語がかなり改訳されていましたが、さらに良くなりました。「いやされる信仰があるのを見て」が「癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て」に。
ローマ人への手紙12章1−2節
「自分を変えなさい」が「自分を変えていただきなさい」に見事に新改訳され、原文の受身形が鮮明になりました。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
コリント人への手紙第一12章21節
これまでの訳だと、以下のようでした。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
新改訳2017では、以下のようになりました。
目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
すぐに「あなたはいらない」という言葉が多用される今の日本にとって、まさに必要な翻訳ではないでしょうか。
コリント人への手紙第一15章14節
以前の訳では、以下のようになっていました。つい先日メッセージしたのですが、「実質のないもの」というとても難しい言葉が使われていました。
そして、 キリストが復活されなかったのなら、 私たちの宣教は実質のないものになり、 あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
新改訳2017では、以下のようになりました。シンプルで、とてもわかりやすい訳に感謝です!
そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
コリント人への手紙第二4章17節
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
が、以下のように改訳されました!
私たちの一時(いっとき)の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
今の時の苦難がずっと続くかのように思い込んでしまいやすいのですが、「一時(いっとき)の軽い苦難」と訳してくれると、本当に救いになります。
乗り越えていく力、立ち向かっていく勇気が与えられます。
ガラテヤ人への手紙2章16節
以前の新改訳では、
「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」
でしたが、以下のように新しく改訳されました。
しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
エペソ人への手紙1章23節
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(新改訳2017)
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(これまでの新改訳)
「いっさいのもの」を「すべてのもの」に。明瞭に簡潔にという方向性の改訳です。キリストのからだとしての教会に、すべてのものをすべてのもので満たすイエス様が、かしらとして満ちておられることに感謝します。
ピリピ人への手紙3章21節
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(新改訳2017)
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(これまでの新改訳)
洗礼(バプテスマ)がゴールではなくスタートであること。ゴールはキリストのように変えられることが明記されている聖句。万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちをご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださることに感謝!
コロサイ人への手紙1章6節
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。(新改訳2017)
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。(これまでの新改訳)
これまでの聖書でも別訳が紹介されていましたが、明瞭に簡潔になりました。
テサロニケ人への手紙第一2章13節
こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。(新改訳2017)
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(これまでの新改訳)
「私たちから神の使信のことばを受けたとき」が「私たちから聞いた神のことばを受けたとき」に。神のことばである主イエス・キリスト、宣教された神のことば、そして書き記された神のことばとしての聖書。神のことばの3形態を覚えます。
テサロニケ人への手紙第二3章6−8節
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。(新改訳2017)
兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。(これまでの新改訳)
「締まりのない歩み方」が「怠惰な歩み」に。「締まりのないことはしなかったし」が「怠惰に暮らすことはなく」に。真の再臨信仰は、怠惰な歩みではないことを教える良い訳になったかと思う。
テモテへの手紙第一5章1−3節
年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。(新改訳2017)
年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。(これまでの新改訳)
「年寄り」が「年配の男の人」に、「年とった婦人たち」が「年配の女の人」に。超高齢化社会だからこそ必要な改訳でしょう。
テモテへの手紙第二2章15節
あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。(新改訳2017)
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(これまでの新改訳)
「熟練した者」が「務めにふさわしいと認められる人」に、「努め励みなさい」が「最善を尽くしなさい」に。熟練した者という言葉も捨てがたいのですが、神によって務めにふさわしいと認められる人として最善を尽くすことが勧められています。最初から熟練した人はいません。最初から即戦力になれる人もいません。でも神に召された者として最善を尽くしていくなら、やがて熟練した者、即戦力になれる人へと変えられます。そんなふうに若い牧師を励まして育てる、素敵な改訳だと思います。
テモテへの手紙第二4章3ー5節
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。(新改訳2017)
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。(これまでの新改訳)
「健全な教えに耳を貸そうとせず」が「健全な教えに耐えられなくなり」に。「自分につごうの良いことを言ってもらうために」が「耳に心地よい話を聞こうと」に。「気ままな願いをもって」が「自分の好みにしたがって」に。ますます自分ファースト、自己中心、自分勝手、わがままになっていく時代だからこそ、必要な訳になっています。
テトスへの手紙2章6ー8節
同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。(新改訳2017)
同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。(これまでの新改訳)
現場で戦っている若い働き人への適切なアドバイスとして、さらに良い訳になったかと思います。
ピレモンへの手紙6ー7節
私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。(新改訳2017)
私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行いをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。(これまでの新改訳)
命令ではなく懇願としての手紙が、さらに洗練された日本語になりました。
ヘブル人への手紙12章5−6節
そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。 「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」 (新改訳2017)
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(これまでの新改訳)
「主の懲らしめ」が「主の訓練」になりました。「懲らしめ」と言うと、どうしても罰を受けているかのような否定的な響きがありますが、「訓練」であれば、積極的な響きです。これまでの訳でも続く7節では「訓練」となっていましたので、より統一されて良い訳になった箇所です。
ヤコブの手紙1章17節
すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。(新改訳2017)
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。(これまでの新改訳)
「父には移り変わりや、移り行く影はありません。」が「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」に。欄外注にあるように直訳は「運行の影」ですが、よりわかりやすく説明的な訳、「天体の運行によって生じる影」になりました。
ペテロの手紙第一2章22ー25節
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。(新改訳2017)
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(これまでの新改訳)
この箇所は全体的に、より簡潔により明瞭になりました。
ペテロの手紙第二3章9節
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(新改訳2017)
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(これまでの新改訳)
「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」が「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」に。主の忍耐に感謝!
ヨハネの手紙第一5章14−15節
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。(新改訳2017)
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(これまでの新改訳)
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」が「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」に。祈りが聞かれる範囲と条件が、より明確になりました。
ヨハネの手紙第二6−7節
私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(新改訳2017)
愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(これまでの新改訳)
イエス・キリストが人となって来られたこと。それが世界で初めのクリスマスに起こった出来事です。
ヨハネの手紙第三5−8節
愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。(新改訳2017)
愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなことは、真実な行いです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。(これまでの新改訳)
「旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなこと」が「兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働き」に。よそから来た兄弟たちを受け入れることは、真理に歩むことです。
ユダの手紙5−7節
あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。(新改訳2017)
あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。(これまでの新改訳)
「主」が「イエス」になりました。それによって、「主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということ」が「イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました」といった斬新な訳になりました。これまで異本として欄外注で紹介していた表現を、新たに聖書本文として採用した結果です。
黙示録7章9−10節
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(新改訳2017)
その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」 (これまでの新改訳)
「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」が「だれも数えきれないほどの大勢の群衆」に。「しゅろの枝」が「なつめ椰子の枝」に。「小羊」が「子羊」に。旧新約を貫く教会、神の国、天国のイメージは、星の数ほどの、だれも数えきれないほどの大勢の群衆です。
全体的に日本語がよりこなれて、わかりやすくなった印象です。
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ノジコ!ナミ!誰にも負けるな!女の子だって強くなくちゃいけない!何があっても、生まれてきたこの時代を憎まないで!人に褒められなくたって構わない!いつでも笑ってられる強さを忘れないで。生き抜けば必ず楽しいことが・・・たくさん起こるから・・・!
巻九 第79話「生きる」より ベルメールの言葉
「おれは剣術を使えねぇんだコノヤロー!航海術も持ってねぇし!料理も作れねぇし!ウソもつけねぇ!おれは助けてもらわねぇと生きていけねぇ自信がある!」
巻十 第90話「何ができる」よりモンキー・D・ルフィーの言葉
己の行動に罪を感じた時、人は最も弱くなる。
巻二十七 第255話「うわばみと探索組」より ガン・フォールの言葉
傷つけるのはお前じゃねぇだろ?政府の人間もお前の存在を罪というが、どんな凶器をかかえてようとも、そこにいるだけで罪になるなんて事はねぇ!存在することは罪にならねぇ!!!
巻三十九 第375話「エニエス・ロビーの超人達」より フランキーの言葉
あなた達の生きる未来を、私達が諦めるわけにはいかない!
巻四十一 第396話「サウロ」より ニコ・オルビアの言葉
”歴史”は・・・人の財産。あなた達がこれから生きる未来をきっと照らしてくれる。だけど過去から受け取った歴史は、次の時代へ引き渡さなくちゃ消えていくの。
巻四十一 第396話「サウロ」より ニコ・オルビアの言葉
よく聞けロビン・・・。今は一人だけどもよ、いつか必ず”仲間”に会えるでよ!海は広いんだで・・・いつか必ず!!!お前を守ってくれる”仲間”が現れる!この世に生まれて一人ぼっちなんて事は絶対にないんだで!!!
巻四十一 第397話「未来へ届くように」より ハグワールの言葉
ごめんね。ーもっとみんなを遠くまで運んであげたかった・・・ごめんね。ずっと一緒に冒険したかった・・・だけどぼくは、だけどぼくは、幸せだった。今まで大切にしてくれてどうもありがとう。ぼくは本当に幸せだった。
巻四十四 第430話「降りそそぐ追想の淡雪」より ゴーイング・メリー号の言葉
船長が”威厳”を失った一味は必ず崩壊する!!!
巻四十五 第438話「プライド」より ロロノア・ゾロの言葉
災難ってモンはたたみかけるのが世の常だ。言い訳したらどなたか助けてくれんのか?死んだらおれはただそこまでの男・・・!
巻五十 第484話「ぷに」より ロロノア・ゾロの言葉
能力や技じゃない。ーその場にいる者達を次々に自分の味方につける。この海において、あの男は最も恐るべき力を持っている・・・!
巻五十七 第561話「ルフィVSミホーク」より ジュラキュール・ミホークの言葉
今は辛かろうがルフィー・・・!それらを押し殺せ!失った物ばかり数えるな!無いものは無い!確認せい!お前にまだ、残っておるものは何じゃ!!!
巻六十 第590話「弟よ」より ジンベイの言葉