かわぐちかいじ氏の漫画『ジパング』

かわぐちかいじ氏の漫画『ジパング』では、「みらいを知る機会が与えられ、それを恐れず勇気を持って見つめた者は、その生き方が変えられる。」という主題が巧みなイマジネーションによって見事に描かれている。

この漫画にインスパイアされて、私は牧師としてこう思う。

「聖書、特に一番最後のヨハネの黙示録という啓示によって未来を知る機会が与えられ、それを恐れず勇気を持って見つめた者は、その生き方が変えられる。」そしてその時、人は、反転するかみなりをもたらす、祈りという武器によって、歴史を大きく動かすことができる。

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創世記1章に啓示された天地創造の経緯

創世記1章に啓示された天地創造の経緯(加筆修正中)

初めに、神が天と地を創造した。創世記1章1節

創世記1章において固定されている視点は、あくまでも地球表面からのパースペクティブである。根拠は1章2節に「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と記されている通り。カメラのアングルはあくまでも地球表面なのだ。その時はまだ陸地がなかったので、アングルは水上に固定・フィックスされている。あくまでも地球表面上からの眺めであって大気圏外からの眺めではない。つまり宇宙から地球を見る視点ではない。この点に注意しながら天地創造の経緯に耳を傾けてみよう。すると驚くほど、科学的にも納得できる記述が立ち現れてくる。

※ただし天地創造の経緯を見た人間は誰もいない。人間の観察記録ではない。これはあくまでも創造主からの啓示によって明らかにされた内容である。

1日目

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

万物を創造された神は、一日目にまず、やみに覆われていた地球表面、その水面にまで光が届くようになさった。創造主なる神は、そのようにして夜しかなかった地球表面に夜明けと昼をもたらされた。

2日目

神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。

昼間に地球表面に光が届くようになると、やがて暖められた水は気体となって蒸発し、大空の上の水(水蒸気・雲)となり、大空の下の水と区別された。

3日目

神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三日。

地球表面に届くようになった光。その光によって暖められた水はどんどん蒸発して地球表面を覆っていた水は次第に空に引き上げられた。水かさが減ると地が顔を出しやすくなる。それと同時に火山活動とプレートの移動で地が形成されていった。

やがてかわいた地に、神は緑の植物を種類にしたがって植えられた。植物の光合成によって、この後大気も整えられていく。農業を試みようとするなら種が必要であるが、神は種を生じる植物をその種類に従ってデザインされ、植えられた。

穀物(米・稲、小麦、トウモロコシ、大麦、ライ麦、はと麦、ソバ、アワ、ヒエなど)

豆類(大豆、枝豆、そら豆、レンズ豆、エンドウ豆、インゲン豆、小豆、黒豆、グリーンピース、落花生・ピーナッツ、イナゴ豆など)

芋類(ジャガイモ、サツマイモ、里芋、山芋、蒟蒻など)

野菜(人参、玉葱、シソ、葱、長葱、ニラ、大根、ゴボウ、レンコン、茄子、キャベツ、レタス、セロリ、トマト、キュウリ、オクラ、よもぎ、菜の花、ピーマン、パプリカ、シシトウ、唐辛子、芥子、南瓜、もやし、白菜、春菊、ほうれん草、小松菜、水菜、みつば、青梗菜、菊、ワラビ、ゼンマイ、竹の子、フキ、イタドリ、タラ、ウド、ワサビ、つくし、らっきょう、ニンニク、生姜、ミョウガ、瓜、冬瓜、ゴーヤ、ブロッコリー、カリフラワー、アスパラガス、モロヘイヤ、ケールなど)

果樹(葡萄、無花果、林檎、梨、桃、栗、柿、蜜柑、小夏、文旦、柚、酢橘、バナナ、オレンジ、グレープフルーツ、梅、杏、銀杏、クルミ、カシューナッツ、ココナッツ、アーモンド、胡麻、マンゴー、パイナップル、パパイヤ、ドリアン、プルーン、プラム、アボガド、ストロベリー・苺、ブルーベリー、ブラックベリー、ラズベリー、サクランボ、スイカ、メロン、ザクロなど)

しいたけ、ぶなしめじ、マッシュルーム、えのきたけ、きくらげ、舞茸、なめこ、松茸など

緑茶、紅茶、珈琲、カカオ、ルイボス、サトウキビ、肉桂・シナモンなど

植物の種や草や果樹は、すべて人間と生き物たちの食べものや飲みもの、そして薬として備えられた。すべては私たち人間と生き物たちが健康で豊かに生きていける生活環境、喜びの園エデン(エデンは喜びの意味)を整えるためであった。

4日目

神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日。

ここでも地球表面からのアングルで書き記されているという視点が大切である。光合成する植物によって、地球の大気は次第に透明度を増していった。その結果、地球の表面から太陽と月、そして夜空にまたたく星たちがはっきりと見えるようになった。夕には、西のそらを美しく夕焼けで染めながら太陽が沈み、夜には満天の星空が夜空を駆け巡る。北極星、北斗七星、カシオペア座、オリオン座、スバル、そして南十字星。天の川。そして朝になるとやみを切り裂いて太陽が規則正しく東から昇り、昼には勇者のようにその走路を走る。規則正しく動く天体は東西南北のしるしとなり、春夏秋冬という季節をもたらし、夕があり朝があるという1日のリズム、そして1年というサイクルをもたらすために人間に仕える存在とされた。太陽と地球の距離も絶妙に配置された。光速で約8分かかる距離。原子力エネルギーの起こす暖(the warmth of atomic energy)、原子力的な日光(the warmth of atomic sunshine)。少しでも離れているなら地上は氷河となり、少しでも近づくなら地上は灼熱となる。すべては偶然ではなく、すべてに意味と目的、存在価値がある。天体あるいはこの宇宙そのものは神ではなく、神がデザインした作品である。日本だけでなく、世界各国で月、星、太陽は神とされ、拝む対象とされている。だからあえてここでは、太陽とか月という言葉は使われていない。

5日目

神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日。

すべての水中生物と翼のあるすべての鳥類。創造主はそれらを種類にしたがってデザインされ、創造された。

プランクトン、めだかからジンベイザメまで、小鮒からカジキマグロまで、ダイオウイカからリュウグウノツカイや提灯アンコウまで。秋刀魚、鰯、鯵、鯖、鮭、鰹、鱈、鰤、飛魚、鰻、平目、鰈、鱸、平鱸、河豚、真鯛、黒鯛、石鯛、石垣鯛、鯉、鮎、山女魚、鯰、岩魚、草魚、青魚、雷魚、シシャモ、ニシン、アメゴ、ハヤ、オイカワ、ワカサギ、シロギス、ナイルパーチ、ウルメイワシ、ママカリ・サッパ、クロマグロ、メバチ、ビンナガ、キハダ、レイクトラウト、ブラウントラウト、キングサーモン、ウマズラハギ、メジナ、キビレ、サヨリ、ハゼ、ムツゴロウ、マンボウ、ヒラマサ、ミノカサゴ、カサゴ、ハリゼンボン、ボラ、ハクレン、コクレン、イトウ、バラマンティ、赤目、クエ、カマス、オニカマス、ゴンズイ、アイゴ、マゴチ、シイラ、メバル、ロウニンアジ・ジャイアントトレヴァリー(GT)。

伊勢エビ、ロブスター、手長エビ、カニ、ザリガニ、イカ、タコ、ウニ、ナマコ、アメフラシ、クラゲ、エイ、ヒトデ、タツノオトシゴ。

あさり、蛤、かき、ほたて貝、シジミ、珊瑚、イソギンチャク、クマノミ、チョウチョウウオ、コバルトスズメ、グッピー、エンゼルフィッシュ、コリドラス、ピラニア、ピラルク、海亀、スッポン、イルカ、鯨、シャチ、ホオジロザメ、シュモクザメ、チョウザメ、アリゲーターガー、ノーザンパイク、ブラックバス、テラピア、ウミヘビ、ウツボ、アザラシ、アシカ、トドなど。

ペンギン、雀、雲雀、鳩、山鳩、アオバト、アオゲラ、アカショウビン、アカエリカイツブリ、インコ、ウグイス、ウズラ、カワセミ、カラス、カモメ、カワウ、カケス、鶏、燕、鷲、鷹、ハヤブサ、ハゲタカ、サギ、白鳥、鶴、鴨、キジ、孔雀、ホトトギス、メジロ、シジュウカラ、オナガ、コマドリ、ヒヨドリ、フクロウ、コノハズク、ブッポウソウ、コウノトリ、フラミンゴ、九官鳥、トキ、モズ、ヤマセミ、ヤンバルクイナ、ヨタカ、雷鳥、ルリビタキ、ダチョウなどなど。

実に創造主は多様性を愛される。そして創造主は小さないのちを大切にしてくださる。一羽の雀でさえも、父なる神の許しなしには地に落ちない(新約聖書マタイ福音書10章29節参照)。鳥によって植物の種はより遠くまで運ばれ、植物は全地にふえ広がっていった。

6日目

神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

犬、猫、羊、山羊、馬、シマウマ、牛、豚、ロバ、ラバ、ラクダ、狼、コヨーテ、ライオン、虎、チーター、ヒョウ、ハイエナ、ツキノワグマ、ヒグマ、ホッキョクグマ、鹿、トナカイ、ヘラジカ・ムース、カモシカ、猪、狸、狐、アライグマ、ハクビシン、アナグマ、パンダ、レッサーパンダ、キリン、象、サイ、バッファロー、アメリカバイソン、猿、ゴリラ、オランウータン、マントヒヒ、ナマケモノ、コアラ、カンガルー、アリクイ、ネズミ、ウサギ、リス、プレーリードッグ、もぐら、ハリネズミ、山嵐、ムササビ、ビーバー、ラッコ、カワウソ、ヌートリア、カピバラ、蛇、トカゲ、イグアナ、カメレオンなどなど。

実に多様性を愛される神は、種類にしたがって様々な地上の生き物を造られた。そして万物創造の最後に、創造主は何を造られたのか?それが私たち人間である。

あなたは偶然の産物ではない。神があなたを最高傑作、マスターピース、創造の冠として創造された。だからあなたには存在価値がある。あなたにしかできない使命がある。そしてあなたの人生には意味がある。

続く(加筆修正中)・・・

受難日に

受難週に、特に主イエスが十字架で死なれた受難日・聖金曜日に、
私たち人間の内側・心の奥底に潜んでいる罪深さを改めて覚えている。

普通の人間の内にある心の闇、罪深さは、
条件さえ整えば外側に言動となって吹き出す。
しかしそれ以前においても、
主イエスが教えてくださった主の祈りによって、最も明瞭に暴き出される。

天からの啓示・神の言葉という強力なスポットライトによって、
闇に紛れていた的が照らし出される時、
初めて何が的外れ・罪なのかが明らかにされる。

見事に的を照らし出している主の祈りを裏返すと、
私たち罪人の内にあるエゴイスティックで邪悪な願望が、以下のように明文化される。

「私の名前があがめられるように。
 私を中心とした私の国が来るように。
 私の心願が成就するように。地においても天においても。
 私は己の力と悟りによって今日も収入を得、自力で糧を得ることができる。
 神など必要ない。
 誰でも私に罪を犯す者は、決して赦さないでいつか必ず報復してやる。倍返しだ。
 私は自力であらゆる誘惑に打ち勝ち、己を己によって悪から救い出そう。
 救い主・キリストなど必要ない。私が救い主だ。
 国と力と栄え、世界に満ちているすべてのものは、私のものだ。」
 
これほど自己中心な祈りがあるだろうか。
これほど自分勝手な祈りがあるだろうか。
これほど的外れな祈りがあるだろうか。
これほど悪魔的な祈りがあるだろうか。
そして罪人にとって、これほど自然な祈りがあるだろうか。

これは神を神とせず、 自分が神になることを願う祈り。
これは神を第一とせず、自分を第一とする祈り。
これは神を中心とせず、自分を中心にする祈り。
これは神の義を求めず、自分の義を求める祈り。
これは心を尽くして自分に拠り頼み、自分の悟りにたより、主なる神を認めない祈り。
この内容と方向性こそが聖書が語っている罪。
そしてこれが、私たち人間が、
人となられた神の御子・主イエス・キリストを十字架につけて殺した動機。

絶対にこの祈りに意識的にアーメンと言ってはならない。
主の祈りを己の祈りとすることによって、この罪に立ち向かい続け、
罪と死に勝利された主イエスによって、この罪に勝利しなければならない。

礼拝メッセージ「義人は信仰によって生きる」ローマ3

礼拝メッセージ「義人は信仰によって生きる」ローマ3(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙1章16ー17節

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマ人への手紙1章16-17節

帝国の首都ローマにおいて、福音を恥と思ってしまうキリスト者がいたとしても不思議ではありません。パウロはそんな人々に配慮して、「私は福音を恥とは思いません」と語ります。なぜパウロが福音を恥と思わないのか、その理由は2つです。

①福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だから。

もし福音が、人を救うことができない無力なものであれば、あなたは福音を恥じることしかできないでしょう。けれども福音はあなたを救うことのできる神の力です。

②福音には神の義が啓示されていて、神の義は信仰によって人を義人として生かすから。

「義」という漢字は「我」の上に「羊」と書きます。「羊」とは主イエスです。主イエスを信頼し、あなたの上に迎えるならば、あなたは救われ、神との正しい関係・絆を回復することができます。主イエスは、あなたの罪を十字架によって取り除き、3日目に墓から復活され、今も生きておられます。

礼拝メッセージ「預言のことばを封じるな」

礼拝メッセージ「預言のことばを封じるな」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録22章8ー15節

また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。黙示録22章10-14節

神は、「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」と命じておられます。

神に背を向け続けて不正と汚れをますます行うのか、それとも、神の方に向きを変えて、正しさと聖さを追い求めるのか。的外れの人生を歩み続けるのか、それとも、主イエスの十字架が私の罪のためであったと信じて着物を洗い、的を射た人生を歩み続けるのか。神は今日あなたに、二者択一を迫っています。

的外れの人生の先には、天国の外に用意された報いしかありません。けれども、的を射た人生の先には、天国の中に用意された素晴らしい報いがあります。

主イエスは言われます。「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」

クリスマス礼拝メッセージ「いのちの書」

クリスマス礼拝メッセージ「いのちの書」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録20章1ー15節

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。黙示録20章12-15節

今年は東日本大震災等によって、多くの方々が亡くなられました。残された方々の上に慰めを祈りつつ、聖書が啓示する死の向こうの未来を、勇気を持って見つめたいと思います。

まず、この地上の生き方が、死の向こうの未来に大きく影響します。「自分の行いに応じてさばかれた」と繰り返し語られているからです。

次に、いのちの書に名のしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれてしまいます。(15節)

最後に、あなたの名前をいのちの書に記すために、クリスマスにイエス・キリストが与えられました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ福音書3章16節)