駅前、カラオケルーム、空港、披露宴会場という、どこにでもある四つの場所を舞台にした短編は「オール讀物」に連載した。わたしはそれらの短編に何か希望のようなものを書き込みたかった。希望というのは、将来が今よりも良いものになるだろうという思いだ。近代化途上の日本は貧しかったが、希望だけはあった。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
そういう台詞を中学生が言う長編小説を書いてから、希望について考えることが多くなった。社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に、絶望と退廃があふれかえっている。・・・この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。 村上龍著「空港にて」あとがきより
カテゴリー: 祈り PRAYER
2016年に教えられたことの一つ
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。エレミヤ29:7
2016年に教えられたことの一つは、その町の繁栄を求めて、そのために祈るということ。教会(その地域に呼び集められたキリスト者一人一人)は地域の祝福のために存在し、派遣されているから。
主イエス・キリストの父なる神さま!どうか杉戸町と宮代町を祝福してください。若者たちが移り住み、この町で子どもたちを育てたいと願うような魅力と希望に溢れた町にしてください。年配の方々が移り住み、地上を旅する人生において、終の住処にしたいと願うような愛と平安(シャローム)に溢れた町にしてください。そのために、私たち杉戸キリスト教会が地域にお仕えすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
先行する恵み
聖書の中に命令が出てきたら、まず神がその命令を私に対して実践してくださったこと(先行する恵み)に思いを向ける。例えば、マタイ22章34−40節に記されている聖書の中で一番大切な命令について、実践してみよう。
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ
<1>まず神が、心(カルディア・ハート・感情)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
まず神が、喜ぶあなたとともに喜び、泣くあなたとともに泣いてくださっている。
<2>まず神が、思い(プシュケー・ソウル・魂)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
魂の叫び、心の奥底から、スプランクニゾマイ(内臓がわななく)
<3>まず神が、知力(ディアノイア・マインド・アンダスタンディング・頭・考え、理解)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
知力を尽くして
総合的・統合的・包括的・全人的知識・情報を尽くして
設計、デザイン
人体の不思議、地球、宇宙の不思議
Designed by God in Heaven
あなたの隣人を自分自身のように愛せよ
まず神が、私の良き隣人となって寄り添い、私をご自身のように愛してくださったことに思いを向ける。(ルカ福音書10:30−37 良きサマリヤ人のように、反対側を見て見ぬふりをして通り過ぎずに)
このようにまず私を愛してくださった神に思いを向けるなら、神を喜び、神に感謝し、神を愛することはそんなに難しいことではなくなる。これが福音的な聖書の読み方のコツ。先行する恵みにいつも思いを向けること。
十戒における先行する恵み
一番大切な十戒の前文=まず語られている先行する恵み(救い、愛、赦し)
出エジプト20章、申命記5章
わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した(自由へと解放した)、あなたの神、主である(救い主・キリストである)。(だから)
そして先行する恵みの後に続く十戒
十戒の前半と後半で、それぞれ具体的に展開されていく大切な二つの戒め(十字架の縦棒と横棒)
前半:たいせつな第一の戒め=十戒の前半=対神関係=十字架の縦棒
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
1、ほかの神々をもたない
2、自分のために偶像を造らない
3、主の御名をみだりに唱えない
4、安息日を覚えて聖なる日とする
後半:同じようにたいせつな第二の戒め=十戒の後半=対人関係=十字架の横棒
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
5、生まれてきた時に最初の隣人となってくれた父と母を敬う
6、隣人を殺さない
7、隣人と姦淫しない
8、隣人のものを盗まない
9、隣人に対して偽りの証言をしない
10、隣人の家・妻を欲しがらない=むさぼり
主の祈りにおける先行する恵み
マタイ6章7−8節に、「先行する恵み」が明記されています。驚くべきことに、私たちが願う前に、父なる神は、私たちに必要なものを知ってくださっています!
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
⭐️先行する恵みをいつも覚えることができるように
私たちは愛しています。**(なぜなら)神がまず私たちを愛してくださったから**です。
1ヨハネの手紙4章19節
ヨハネ福音書の主イエスの新しい戒め 福音的な聖書の読み方
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。**わたしがあなたがたを愛したように**、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ福音書13章34−35節
互いに愛し合いなさい。なぜなら、主がまず私たちを本気で愛してくださったから。
互いに仕え合いなさい。なぜなら、主がまず私たちに仕え、汚れた足を洗ってくださったから。
互いに赦し合いなさい。なぜなら、主がまず私たちを赦してくださったから。
実は主の愛と赦しは、実は私たちの悔い改めにも先行します。
あらゆるものに先行する恵み。それを知った時初めて、私たちは真に悔い改めることができるのです。
ルカ福音書23章34節には、私たちの悔い改めに先立つ神の赦しが、十字架の主イエスによって明確に啓示されています。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
私たちがまだ神の敵であった時。
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歴史における科学とキリスト教
閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ書55章10−11節
「神のことば」を表すヘブル語「ダバール」は、「出来事」とも訳すことができます。神のことばは必ず出来事になるからです。上記のみことばは、そんな神のことばの力強さを教えています。
旧約聖書には、閉塞感に囚われ、神の約束を信じられなかったアブラハムとその妻サラの姿が記されています。創世記17章17節が語るアブラハムは、本音と建前を使い分け、ひれ伏しながら作り笑いをします。信仰の父アブラハムも、閉塞感に囚われて神の約束を信じられなかったのです。夫婦は似てきます。創世記18章12節が語るサラもまた、神の約束を信じられませんでした。ニヒルな笑いが響くサラの心の中は、まるで氷点下です。
厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、閉塞感に囚われた者に救いはありません。静かにあきらめ、ニヒルに笑う仮面の道化師として、行き止まりの路地裏で死ぬ以外に道はありません。アブラハム夫婦がイサクを授かることもなかったでしょう。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが来られるクリスマスも、十字架で私たちのために死なれたキリストが復活するイースターもなかったでしょう。
しかし、「神のことば」は、聖書信仰によって「出来事」と訳すことができます。なぜなら聖書に書き記された神のことばは、私たちの閉塞感を突き破って、時が来れば必ず出来事になるからです。アーメン。主イエスの再臨と救いの完成がますます近づいています。閉塞感を突き破る神のことばをしっかりと握りしめ、天を見上げて地上を旅しましょう。
SUGITO GOSPEL CAFE 2016-11-25
牧師にとって両刃の剣のような本
ある意味で、本書は、牧師にとって、また牧師を志す人々にとって、「両刃の剣」のようなものであると言えるかもしれない。それはつまり、私たちが本書を、牧師としての進むべき道を指し示し、その道を切り開く上での力強い助けとして受けとめることもできると共に、他方では、それと同時に、本書が私たちを刺し通し、私たちの内なる思いや考えを奥底まで切り分け、明るみにさらすようなものとして立ち現れてくる場合もあるということである。おそらくは本書における著者のねらいもそうしたところにあるのであって、さらに想像をたくましくするならば、こうした複雑な叙述の奥には、著者自身も歩んできた牧師としてのいろいろな体験が、ことに痛みを伴う失敗や挫折といった経験とそこから学んだことが、色濃く反映されているようにも思われてならないのである。
ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきより(p566-567)