カテゴリー: 牧会学
聖書が語る伝道と教会形成を目指して
聖書が語る伝道と教会形成を目指して
杉戸キリスト教会牧師 野町 真理
1、私の個人的体験から
個人伝道は決して個人プレーではない。チームワーク・教会の働き。名前が真理なのに、未信者家庭で生まれ育った私。フィリピンから日本の高知県に来た留学生による個人伝道(友人伝道)で救われた私。私の救いと受洗の背後にあった教会の祈り。洗礼式の時、初対面の方々に言われたこと➡「野町さん、おめでとうございます!あなたのために祈ってましたよ!」
2、伝道する動機について:実利的プレッシャーに対する処方箋
近年、伝道者・牧会者のメシア・コンプレックスや燃え尽き症候群という言葉を耳にする。もともと燃え尽き症候群という言葉は、対人関係を中心とする仕事に就いている人々の間で生まれた言葉。なぜなら対人関係においては自分の思いどうりにならないことが多く、また目に見える形ではなかなか結果が見えてこないから。伝道者や牧会者もこの例にもれず、実利主義的に受洗者の数や礼拝出席者の数でその働きを人間的に評価されやすい中にあって、その意義と安全を何に置くかが予防の鍵となる。即戦力、スピーディーな結果が求められる中にあって、神ご自身の中に働きの意義と安全を見いだすことは、牧会伝道をする動機と目的、つまり何のために、何が見たくてそれをするのかという動機を健全なものとし、私たちを同労者同士の妬み合いなどからも解放し、私たちの働きをただ神にのみ栄光を帰するものとする。
★「意義」と「安全」を神によって得る。(存在の喜び)
★人の評価でなく神の評価を求める
★週に一度、できる限り家族で普段の生活から離れて安息の時を持つ。
美しい自然の中に出かけるのが一番。特に教会堂と牧師館が一体になっているような教会で奉仕している場合は要注意。休日も夜も四六時中ずっと職場に居続ける異常さ。休まないで働き続けることこそ深刻な罪!休まなければいい奉仕ができない!
★洗礼に導くこと・洗礼を受けることをゴールにしないことが大切
入門クラス、求道者会、洗礼準備会。受洗後クラス(アフターバプテスマクラス)。一人を大切にすること。リプロダクション伝道。寄り添う牧会伝道。タオル一本分の間合い
3、ヨハネ福音書1章1−18節と4つの法則による福音提示
イエス・キリストを信じ受け入れる時に与えられる「神の子どもとされる特権」
1、神を私のお父さんと呼べる特権
2、神のものをすべて相続する特権(永遠のいのち、復活のからだ、新しい天地)
3、キリストに似た者に変えられる特権
聖霊に祈りつつ、みことばを伝えていく
創造主というイメージの大切さ
日本語の「神」という言葉が持つイメージを越えて
母の胎の中で私たちを組み立てられたメーカー(詩篇139篇)
受肉前のキリスト、受肉(クリスマス)、
私たちのための十字架の死、復活(イースター)
信じるとは、神と神の約束を信頼して、受け入れること(飲食と同じ)
黙示録3:20が約束している素晴らしいことは、クリスマスの家畜小屋のような私たちの心の中に入ってくださり、一緒においしく食事ができるほどに心の洗濯をしてくださるということ。イエス様を信頼して心の扉を開き、心の王座に迎える祈りをされませんか?
4、洗礼・バプテスマとは何か
洗礼は本来、信仰を持って救われた人が、自発的に自分の意志で受けるものです。
A、お葬式と誕生式 イエス・キリストの十字架の死、墓への葬り、3日目の復活
B、誓約と入会式 教会につながることの大切さ
C、任命と派遣式
洗礼は、スタートであってゴールではありません。教会(神の家族)といっしょにゴールを目指して歩み始めるスタートラインです。ゴールは、私たちがキリストのように変えられることです。
5、洗礼・バプテスマを受ける者への3つの指針
A、主の祈り=神の国とその義をまず第一に求める祈り⇔罪人の自己中心な祈り
罪人の的外れな祈り(主の祈りをひっくり返すと恐ろしい祈りに・・・)
私の名前があがめられますように。私を中心とした私の国が来ますように。
私が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。
わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。
主の祈り=神中心の祈り=的を射た祈り=義人の祈り=罪人にとっては不自然な祈り=神の国とその義とをまず第一に求める祈り
自己中心の祈り=的外れな祈り=罪人の祈り=罪人にとっては自然な祈り =自分の国とその義とをまず第一に求める祈り
B、十戒=先行する神の愛によって救われ、赦され、自由へと解放された者に語られる神と隣人を愛する人生の指針 。前文がとても大切。神のものを盗んではならない 。
十戒をひっくり返すと恐ろしい指針に
あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってもいい。
自分のためにご利益のあるいろんな偶像を造って拝んでもいい。
自分の欲望を満たすために偶像に仕えてもいい。
神の御名をみだりに唱えてもいい。
安息日も覚えなくていい。休まず働いていい。
私の父と母は敬わなくてもいい。利用出来るだけ利用して後は姥捨山へ。
殺してもいい。気に入らない者や厄介者はすべて死ねばいい。
姦淫してもいい。相手を自分の欲望を満たす道具として惜しみなく利用する。
盗んでもいい。欲しいものがあったら神のものでも他人のものでも。
偽証してもいい。嘘をつくことはいい。
隣人のもの、隣人の家や妻や夫、財産や不動産を欲しがってもいい。
収入を得るために必要な4つの預かりもの
A、健康
B、才能・能力
C、職場・仕事
D、やる気
➡溢れるほどの祝福を注ぐかどうかを試してみよ!収入の十分の一によって
C、使徒信条=三位一体の神=天地万物を創造された神を信頼する信仰
メーカー、デザイナー、クリエイターであられる神
父なる神、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神(御霊)
6、線香花火にならないために・残る実を結ぶために
➡教会形成:個人の生活習慣の改善、教会の体質改善
7、人生を導く5つの目的(THE PURPOSE DRIVEN LIFE)リック・ウォレン著
あなたの人生をドライブしているものは何でしょうか?
本来造られた目的・デザインにドライブされて生きるなら、
世界で一人だけのあなたが、一番あなたらしく生きることができます。
礼拝、交わり、成長、奉仕、宣教
来会者数、礼拝出席者数、受洗者数、弟子の数、奉仕者数、宣教者数
1、神を愛し神を喜ぶ礼拝に招く
2、神の家族の交わりに招く
3、キリストを目指す成長に招く
4、ユニークな賜物の形(SHAPE)を用いた奉仕に招く
5、伝道、世界宣教に招く
8、健康な教会へのかぎ(THE PURPOSE DRIVEN CHURCH)
教会をドライブしているものは何でしょうか?
神が命じておられる5つのことをバランス良く大切にすることが大切です。
9、閉塞感を突き破るもの・ブレイクスルー信仰
人間の不信仰を越えて約束を成就される神の真実=閉塞感を突き破るもの
10、閉塞感から涙の祈りによる種まきへ!
天国に入れる人、救われる人は少ない???
収穫は多いが働き手が少ない。目を上げて畑を見なさい。
星の数ほどのだれにも数えきれないほどの人々!
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう
11、健全な聖霊の教えと世界的視野の大切さ
WWW:World Wide Witness(使徒1:8より)
ワールドワイドなキリスト者、世界に通用する、世界標準のキリスト者を目指そう!
聖書が語るのは世界泥沼論!
日本泥沼論で終わっていたら、井の中の蛙!聖書が語るのは、世界泥沼論!
ユダヤ人も異邦人も同じ泥沼。日本もアジア諸国も、アメリカもヨーロッパもみんな泥沼。
全ての人間の心の中が泥沼である!つまり、あなたの心の中も泥沼である!
しかし、どんな泥沼であっても、福音の花は美しく咲き乱れ、いつまでも残る豊かな実を結ぶ。
ちょうど泥沼から美しく咲く蓮の花のように。
ペテロを始めとする12弟子たちは全員踏み絵を踏んだような弱い者たち。
主イエスを見捨てて全員逃げ出したから。
特にシモン・ペテロは、3回駄目押しのように、踏み絵を踏みにじったような弱い者。
しかし彼は、先行する恵み、先行する赦し、先行するとりなしによって立ち直り、兄弟たちを力づけることができる強い者、岩(ペテロ)へと変えられた!
ふさわしくない時・弱い時にあなたを愛して、将来必ずあなたをふさわしい者・強い者・勝利者に変えてくださる!これが聖書が語る福音。
忙しすぎてクルシミマスになりやすい
忙しすぎてクルシミマスになりやすい
どの職場でもそうだと思うが、牧会伝道の現場はまるで戦場のようだ。特にクリスマスの時期は、忙しすぎてクルシミマスになりやすい。
2016年のクリスマスは、クリスマス前後に90歳と97歳のご夫妻が相次いで天に召された。22日(木)午後、クリスマスプレゼントを持って病院に行くと、既にお父様は召されていた。ご遺体と一緒に24日(土)夜にクリスマスイブ礼拝、25日(日)にクリスマス礼拝と祝会、そして夕礼拝を行い、眠りに就いた。
けれども、26日(月)の午前1時ぐらいに携帯電話の呼び出し音が鳴り、お母様危篤の知らせを受けた。真夜中息子さんと一緒に車で病院に駆けつけ、そして看取る。朝まで葬儀の打ち合わせなどをして、27日(火)にご夫妻一緒に葬儀を行い、順番に火葬することになった。
さらに代務教会の会員で遠隔地におられるおばあちゃんも天に召されてしまった。遠隔地なので、さすがにそのおばあちゃんの葬儀は近隣の牧師先生に依頼した。
そんなこんなで1月1日の新年礼拝が終わるまで、ジェットコースターに乗ってノンストップのような状態だった。
牧師家族の冬休み1日目
けれども、新年礼拝の後、予定していた2日からの冬休みが取れそうな状況になり、家族でゆっくりと時を刻むことができた。
自分らしく時を刻む。これは昨年からの1つのテーマ。
2日月曜日、荷物をまとめ、車に積み込み、そして牧師館兼教会堂を後にする。
幸手ICに乗る前に、すでに昼になっていたので、カスミに寄ってランチを買い、食べながら出発。
圏央道から東北道、そして外環から首都高へと入り、トンネルを抜けてアクアラインを目指す。
かなりの渋滞の中、海ほたるで一休み。
千葉に渡ってからは道路もすいて、のんびりドライブ。
目指すは館山サンセットユースホステル。
子どもを授かる前には、夫婦二人でよくユースホステルを利用したが、子どもを授かってからは初めてのユース利用。
サンライズではなく、サンセットという言葉を用いているからには、きっと夕陽がきれいなのだろう。
アクアラインの渋滞でかなり到着が遅れ、夕方5時過ぎに到着。初日は既にサンセット後で残念。
ここのユースは朝食しか出ないので、夕食を求めて改めてコンビニに向かう。
とにかく無事に宿泊場所にたどり着けたことに感謝。
完全に暗くなる前だったので、見落としやすい案内看板をたどって、細い道を抜けて、運転お疲れさまでした。
家族でお風呂に入り、ベッドで横になりながら聖書を読み、神学書を読み、そしておやすみなさい。
明日から房総半島をまわるのが楽しみ。
牧師家族の冬休み2日目
館山での目覚め。
ユースのペアレントさんが作ってくださったおいしいおせち朝食を食べる。
息子はいつものお母さんの味とは違うので、ちょっと食べれないものが多い。
かまぼこ、たつくり、くりきんとん、なます、昆布巻きなどなど。ごちそうさまでした。
朝ごはんを食べた後、まずは海を目指して出発。
早速袋小路にはまり、Uターンしながら地元の方に道を聞き、そして海へ出る。
房総フラワーラインと呼ばれる道をドライブする。
天気は晴れ。最高だ!
フラワーラインの道沿いには、菜の花がずっと咲いていて、もう春のような気持ちになる。
フラワーラインから漁港に入り、さらに海沿いを走る。
赤いアロエの花と青い海と空が美しい。
遠くに富士山も見えた。
漁港を通り越して細い道を進み、そして歩いて海辺に出る。
夏に関東宣教区プロジェクトが予定されている伊豆大島も眺望できる。
しばらく海辺で遊ぶ。
海辺のサーファーがかっこいい。
そして野島岬、房総半島最南端へ
・・・続く
牧師にとって両刃の剣のような本
ある意味で、本書は、牧師にとって、また牧師を志す人々にとって、「両刃の剣」のようなものであると言えるかもしれない。それはつまり、私たちが本書を、牧師としての進むべき道を指し示し、その道を切り開く上での力強い助けとして受けとめることもできると共に、他方では、それと同時に、本書が私たちを刺し通し、私たちの内なる思いや考えを奥底まで切り分け、明るみにさらすようなものとして立ち現れてくる場合もあるということである。おそらくは本書における著者のねらいもそうしたところにあるのであって、さらに想像をたくましくするならば、こうした複雑な叙述の奥には、著者自身も歩んできた牧師としてのいろいろな体験が、ことに痛みを伴う失敗や挫折といった経験とそこから学んだことが、色濃く反映されているようにも思われてならないのである。
ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきより(p566-567)
対抗文化(カウンター・カルチャー)を生み出すために働く存在
牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由
牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由
ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の第13章より
1、教会の奉仕(仕事)には終わりがない
小学校の教師と一緒に仕事をしているある人物にインタビューをしたことことがある。「良き教師は、刈り取る者であるよりも、種蒔く者であることに満足しなければならない」と、彼は言った。「教師は自分の努力が、即座に、明確に、そして具体的に成果を上げるのを見ようと思ってはならない。もしそうした努力が生徒に何らかの影響を与えるとしたら、それは彼らのその後の人生においてであって、生徒たちが学校を去ってからずいぶんたった後のことなのだ。」牧師の働きにもこれと同じことが言える。パウロが記しているように、彼が植え、誰かが水を注ぎ、そしてまた、別な誰かがその収穫にあずかることになるのだが、いずれにしても成長させてくださるのは神なのである(1コリント3:6)。
2、教会が明確な「良い牧師像」を共有していない
ひとりひとりの教会員の思い描く「良い牧師像」が漠然としており、彼らが牧師の果たすべきことがらとして期待するものがあまりにも多岐にわたりばらばらであるために、あわれにも、教会員に十分な仕事を果たしていないと感じる牧師があまりにも多く存在する。
3、教会は、非常に困窮している人々の港であり、避難所である
よく言われるように、教会は「病人にとっての病院」のような存在である。病気のせいで痛みを抱えている人々は、往々にして気難しく、また要求過多になることがある。こうした人々は、空虚さや混乱、困窮、そして期待を抱えながら、教会にやって来る。多くの場合、人間は傷ついているときに敵対的な姿勢を示すことがある。一方では助けが欲しいと感じているにもかかわらず、助けを拒み、かえって、助けようとしている人に向かって非難を浴びせることすらある。もし教会がこうした仕事を引き受けようとするなら、おそらく教会の中には、他のいろいろな施設よりも高い割合で、このような傷つき困窮した人々が存在することになるだろう。
4、牧師はペルソナのもとで多くの時間を過ごさなければならない(仮面の道化師の心理)
ペルソナ(仮面)は、必ずしも演技でもなければ、欺瞞的なゼスチャーということでもない。それは、私たちの中のある部分を隠すことによって、自分自身を守る手段である。それは、私たちが自分の責任を果たすために世の中に出て行くときの職業上の顔なのだ。牧師がジェームズ・スミス氏のところに行ってお悔やみを言い、そのケアをするとき、それは決して彼を欺いているわけではない。そうしたとき、牧師は悲嘆にくれている人間に対して牧師としての心遣いを示すという、より大きな善を行うために、自分の個人的感情を脇においているだけなのである。
けれどもペルソナがうまく機能しないときもある。牧師の役割から離れる機会を拒む牧師はひじょうに多い。そうした人々はつねに牧師であろうとする。彼らは、マスクをはずし、足を投げ出して休むような時を、片時も持たない。・・・このマスクをつけっぱなしにして、あまりに多くのエネルギーを使いすぎると、すなわち、牧師という役を降りてマスクをはずし、自分自身の姿に戻る機会が失われてしまうと、本当の自己と私たちが演じている役割との間に根本的な分離が生じることになる。
5、困難な状況のストレスで、疲労困憊する
「あなたは外科医に何を期待しますか」と、彼女は答えた。「私たちのする仕事の90パーセントは、ただ患者のそばに立って、自然の成り行きによって状態が好転するか、それともまったくの機能不全に陥るかを見守っているだけなのです。重い脳の障害や損傷に対して、実際に対処できることはほとんどありません。無力なまま、どうすることもできずに、何日間もそばに立ったまま、その人の寿命が尽きるのを見ているだけです。それが、私たちがその人にしてあげれることなのです。」
教会の牧師もまた、人々が死んでいくのを、彼らの結婚が失敗に終わるのを、彼らの癌が治らないのを、彼らの情熱が衰えていくのを、そして、彼らの以前からの自殺願望がふたたび頭をもたげてくるのを、どうすることもできないまま、ただそばに立っているしかないという経験を、何度も何度も繰り返すことになる。それが牧師のしなければならないことなのだ。だからこそ、アクィナスは、牧会者の徳目表の最初に「弱っている人々のために忍耐すること」と挙げたのである。
6、物質主義の時代的・文化的背景との大きなギャップ
現代の私たちは、金銭に価値を置き、給料の額で人の値打ちを決めるような文化の中に暮らしている。脳外科医の仕事は難しく、緊張の連続で、きつい仕事である。そして、それに相応して、外科医は高給取りでもある。他方、牧師の仕事は、人々から賞賛されはするものの、その給料のことを考えてみると、物質主義的な階級制度の中で自分がどの辺りに位置するかを、牧師ははっきり知らされることになる。もっとも愛他主義の精神に満ちた牧師であっても、この給料の低さでは、自分の値打ちが十分に測られていると実感することは困難である。
7、「教勢の低下」という状況の下で失望する
ふたりの宗教社会学者が著した『アメリカの主流派宗教ー変わりゆく形態と未来』の中で、著者たちは、教会に属する人々の動向を包括的に研究し、以下のような予言を記している。
主要なプロテスタントの諸教派は、長期にわたって減衰の一途をたどってきたが、数的な面においても、社会的な実力や影響力においても、今後も引き続きその地盤を失い続けていくことになるだろう。プロテスタントに属する人口の割合は、来る数十年の間に徐々に低下し続けるだろう。
8、教会の働きの多くは「頭中心」のデスクワークになりがち
感情的な問題や人間関係の問題は、肉体を無視した結果だったということがよくあるものだ。多くの研究が、肉体の運動はストレスを大いに軽減することを示している。一般的に言って、仕事の内容が頭脳に関わるものであればあるほど、身体に養分を補給する必要がある。人は、脳だけの存在でもなければ、肉体を持たない魂というわけでもない。私たちは被造物であり、その行動のすべてにおいて心身の相関性を備えた動物なのである。人間の生き物としての被造性を忘れることは危険である。
9、時間管理の不手際による精神的消耗
故ヘンリ・ナウエンが語ったように、「もし、牧師が自らの職務における絶対的本質が何であるかを知らないなら、その牧師は、『いわゆる大切とみなされること』を行うようになっていく。」牧師の行うことの大半はいずれも「大切なこと」なのだから、本質的なことを見分けることができないとすれば、任職された牧師の上には、飽き飽きするほどの達成不能な重荷の数々が負わされることになるだけである。
10、牧師の職務は通常混乱状態の中で行われることを認められない性格
ある牧会カウンセラーから教えられたことだが、牧師という職務を幸いな形で成し遂げる上で欠くことのできない性格とは、「曖昧さに対する許容度の高さ」であるという。「几帳面であること。正確であること。そして秩序だっていることをとりわけ重視する正確の牧師は、その職務において悲惨な結果を迎える。人生とは混乱したものであり、人々は不可解な存在であり、(あなたが人々のことを知れば知るほど)牧師の望む基準に達するような人間はわずかしかいないことが分かるようになる。印刷関係の仕事や写真家のような仕事をしていた人々は、決して牧師になどなるべきではない。
もちろん、この発言には冗談も含まれている。しかし、彼の示す禁止事項はなかなか興味深い。緻密であることを求められる印刷業者、読みやすく整然とした仕事を求められる印刷業者からすれば、教会生活は混乱したものに見えることだろう。また、もしあなたが人生というものを、ピントを合わせ、すべての動きを固定した上で、カメラの小さな穴を通して見えることがらに限定するような仕方で理解しているとすれば、教会の中で牧師は正気を失ってしまうことだろう。
11、所属教派の価値観、神学的立場、職制、規則などとの不一致
牧師や信徒が教派の中のリーダーや計画のことであれこれと言い合っても構わないが、それでも、自分たちがその教派の一員であり、全体の方向性には共感を持っているという状態が保たれていなければならない。教派の方向性もしくは性格の転換、あるいは牧師や信徒の神学もしくは性格の転換は、個々人と教会組織の間に深刻な亀裂を生み出すことがある。
12、女性教職の受ける性差別的な意識の犠牲
私たちが二十世紀の後半に学んだことは、単に女性の任職を実施し、女性にも牧師としての召命に応えることを認めるだけでは、彼女たちが牧師の職務を果たすことを支えるには不十分だということであった。女性教職に対する抵抗、偏見、敵意との絶えざる闘いが、彼女たちを疲弊させている。
13、「この世の諸々の支配と権威」が福音と説教者に敵対している
これまでに列挙した多くの要因が示していることは、教会そのものが牧師の職務に対する敵となることがあるという事実である。否、聖書によれば(エペソ6:12)、福音は宇宙的な諸々の力と敵対するものなのだ。任職された牧師のリーダーシップに対する挑戦は、社会学的なものだけでなく、神学的なものである。サタンとその仲間は、私たち牧師の職務を打倒しようとして躍起になっているのだ。