カテゴリー: 未来論
THE REMAINS OF THE DAY
いのちのことば2017-3
閉塞感を突き破る神の言葉<3> 神のことば=出来事
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ書55章10−11節
「神のことば」を表すヘブル語「ダバール」は、「出来事」とも訳すことができます。神のことばは必ず出来事になるからです。上記のみことばは、そんな神のことばの力強さを教えています。
旧約聖書には、閉塞感に囚われ、神の約束を信じられなかったアブラハムとその妻サラの姿が記されています。創世記17章17節が語るアブラハムは、本音と建前を使い分け、ひれ伏しながら作り笑いをします。信仰の父アブラハムも、閉塞感に囚われて神の約束を信じられなかったのです。夫婦は似てきます。創世記18章12節が語るサラもまた、神の約束を信じられませんでした。ニヒルな笑いが響くサラの心の中は、まるで氷点下です。
厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、閉塞感に囚われた者に救いはありません。静かにあきらめ、ニヒルに笑う仮面の道化師として、行き止まりの路地裏で死ぬ以外に道はありません。アブラハム夫婦がイサクを授かることもなかったでしょう。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが来られるクリスマスも、十字架で私たちのために死なれたキリストが復活するイースターもなかったでしょう。
しかし、「神のことば」は、聖書信仰によって「出来事」と訳すことができます。なぜなら聖書に書き記された神のことばは、私たちの閉塞感を突き破って、時が来れば必ず出来事になるからです。アーメン。主イエスの再臨と救いの完成がますます近づいています。閉塞感を突き破る神のことばをしっかりと握りしめ、天を見上げて地上を旅しましょう。
いのちのことば2017-2
閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。』創世記15章5節
上記のみことばから3つのことを記します。第1に、このみことばは北極星のように不動です。ですからこのみことばを指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性をもって旅ができます。目先のことに囚われて見るべきものを見失ってしまう。そのような私たちには、北極星のように変わらない確かなみことばが必要です。
第2に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされています。ギリシア語で人間を意味する「アンスローポス」には「上を見上げる」という意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、俯くことしかできません。上を向いて歩く時、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番楽な方法は、仰向けになることです。朝目覚めた時、車に轢かれて干からびたカエルのような心であっても、仰向けで天を見上げればいいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がることができます。
第3に、天国はにぎやかな所です。閉塞感に囚われている人は、天国にはあまり沢山の人がいないというイメージを持っています。しかし全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数え切れない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人々、だれにも数えることのできない人々を、神は救いに招かれます。天国はにぎやかな所です。私は信じます。神のことばは私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になると。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって、注がれる聖なる神の霊によって、近い将来、日本のキリスト者にリバイバルが起き、青年は幻を見、老人は夢を見、そして諸教会に行列が出来ることを。
聖書が語るのは世界泥沼論!
日本泥沼論で終わっていたら、井の中の蛙!聖書が語るのは、世界泥沼論!
ユダヤ人も異邦人も同じ泥沼。日本もアジア諸国も、アメリカもヨーロッパもみんな泥沼。
全ての人間の心の中が泥沼である!つまり、あなたの心の中も泥沼である!
しかし、どんな泥沼であっても、福音の花は美しく咲き乱れ、いつまでも残る豊かな実を結ぶ。
ちょうど泥沼から美しく咲く蓮の花のように。
ペテロを始めとする12弟子たちは全員踏み絵を踏んだような弱い者たち。
主イエスを見捨てて全員逃げ出したから。
特にシモン・ペテロは、3回駄目押しのように、踏み絵を踏みにじったような弱い者。
しかし彼は、先行する恵み、先行する赦し、先行するとりなしによって立ち直り、兄弟たちを力づけることができる強い者、岩(ペテロ)へと変えられた!
ふさわしくない時・弱い時にあなたを愛して、将来必ずあなたをふさわしい者・強い者・勝利者に変えてくださる!これが聖書が語る福音。
空港にて 村上龍
駅前、カラオケルーム、空港、披露宴会場という、どこにでもある四つの場所を舞台にした短編は「オール讀物」に連載した。わたしはそれらの短編に何か希望のようなものを書き込みたかった。希望というのは、将来が今よりも良いものになるだろうという思いだ。近代化途上の日本は貧しかったが、希望だけはあった。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
そういう台詞を中学生が言う長編小説を書いてから、希望について考えることが多くなった。社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に、絶望と退廃があふれかえっている。・・・この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。 村上龍著「空港にて」あとがきより
2016年に教えられたことの一つ
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。エレミヤ29:7
2016年に教えられたことの一つは、その町の繁栄を求めて、そのために祈るということ。教会(その地域に呼び集められたキリスト者一人一人)は地域の祝福のために存在し、派遣されているから。
主イエス・キリストの父なる神さま!どうか杉戸町と宮代町を祝福してください。若者たちが移り住み、この町で子どもたちを育てたいと願うような魅力と希望に溢れた町にしてください。年配の方々が移り住み、地上を旅する人生において、終の住処にしたいと願うような愛と平安(シャローム)に溢れた町にしてください。そのために、私たち杉戸キリスト教会が地域にお仕えすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ書55章10−11節
「神のことば」を表すヘブル語「ダバール」は、「出来事」とも訳すことができます。神のことばは必ず出来事になるからです。上記のみことばは、そんな神のことばの力強さを教えています。
旧約聖書には、閉塞感に囚われ、神の約束を信じられなかったアブラハムとその妻サラの姿が記されています。創世記17章17節が語るアブラハムは、本音と建前を使い分け、ひれ伏しながら作り笑いをします。信仰の父アブラハムも、閉塞感に囚われて神の約束を信じられなかったのです。夫婦は似てきます。創世記18章12節が語るサラもまた、神の約束を信じられませんでした。ニヒルな笑いが響くサラの心の中は、まるで氷点下です。
厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、閉塞感に囚われた者に救いはありません。静かにあきらめ、ニヒルに笑う仮面の道化師として、行き止まりの路地裏で死ぬ以外に道はありません。アブラハム夫婦がイサクを授かることもなかったでしょう。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが来られるクリスマスも、十字架で私たちのために死なれたキリストが復活するイースターもなかったでしょう。
しかし、「神のことば」は、聖書信仰によって「出来事」と訳すことができます。なぜなら聖書に書き記された神のことばは、私たちの閉塞感を突き破って、時が来れば必ず出来事になるからです。アーメン。主イエスの再臨と救いの完成がますます近づいています。閉塞感を突き破る神のことばをしっかりと握りしめ、天を見上げて地上を旅しましょう。
閉塞感を突き破る神の言葉<1>
閉塞感を突き破る神の言葉<1>
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』ルカ福音書1章20節
ルカ福音書1章には、閉塞感に囚われていた祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツが登場します。忠実な二人でしたが、祈りが答えられない年月によって年輪を重ねた結果、御使いによって子どもを授かると聞いても信じられませんでした。もう年ですから。長い間祈りが答えられない中での高齢化は、じわじわと効いて私たちを閉塞感へと誘います。けれども不妊の女だったエリサベツは、全能の神によって身ごもり、高齢出産でも守られ、キリストの道備えをするバプテスマのヨハネの母とされました。
ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまで、期間限定でものが言えなくなりました。けれども神の言葉は、人の不信仰を超えて、その時が来れば実現したのです。『私のことばを信じなかったからです。(けれども)私のことばは、その時が来れば実現します。』と聖書は語ります。「信じなかったから、あなたはもうおしまい。あなたの信仰の通りにしかならないから。」と切り捨てると、もはやキリスト教ではなくキリステ教になってしまいます。聖書の語る福音は、信じられない者にとっても福音です。
厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるでしょう。世界宣教によって宇宙を再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは閉塞感の中で滅んでいくしかありません。しかし神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず出来事になります。そのことを聖書は力強く証言しています。閉塞感を突き破る神の言葉を体験する。それが世界を覆っている暗雲を跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩です。
閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する
閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。』創世記15章5節
上記のみことばから3つのことを記します。第1に、このみことばは北極星のように不動です。ですからこのみことばを指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性をもって旅ができます。目先のことに囚われて見るべきものを見失ってしまう。そのような私たちには、北極星のように変わらない確かなみことばが必要です。
第2に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされています。ギリシア語で人間を意味する「アンスローポス」には「上を見上げる」という意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、俯くことしかできません。上を向いて歩く時、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番楽な方法は、仰向けになることです。朝目覚めた時、車に轢かれて干からびたカエルのような心であっても、仰向けで天を見上げればいいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がることができます。
第3に、天国はにぎやかな所です。閉塞感に囚われている人は、天国にはあまり沢山の人がいないというイメージを持っています。しかし全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数え切れない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人々、だれにも数えることのできない人々を、神は救いに招かれます。天国はにぎやかな所です。私は信じます。神のことばは私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になると。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって、注がれる聖なる神の霊によって、近い将来、日本のキリスト者にリバイバルが起き、青年は幻を見、老人は夢を見、そして諸教会に行列が出来ることを。