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礼拝メッセージ「すべてのことの意味」ローマ19
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聖書箇所:ローマ人への手紙8章26ー30節
26 御霊も同じようにして、
弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、
御霊の思いが何かをよく知っておられます。
なぜなら、御霊は、
神のみこころに従って、
聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、
御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
それは、御子が多くの兄弟たちの中で
長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、
召した人々をさらに義と認め、
義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
ローマ人への手紙8章26-30節
すべてのことが益とされる。万事が益とされる。
そこにすべてのことの意味があります。
1、まずあなたが神を愛する者となるために、
神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。
2、次に召されたあなたを磨き上げ、
キリストのような栄光の姿にあなたを変えるために、
神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。
ペンテコステ礼拝メッセージ「聖霊とは何か」ローマ17
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聖書箇所:ローマ人への手紙8章1ー17節
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、
神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、
罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、
律法の要求が全うされるためなのです。
5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、
御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。
それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、
あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、
からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
ローマ人への手紙8章1-10節
礼拝メッセージ「人間とは何か」ローマ16
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聖書箇所:ローマ人への手紙7章1ー25節
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。ローマ人への手紙7章24-25節
聖書が語る私たち人間について、共に学びましょう。
1、非常に良かった神の作品としての人間
あなたは偶然の産物ではない。人間は神のかたちに似せて造られた神の作品だと聖書は語ります。創造主なる神によって人間が造られた時、人間は神の栄光を現す最高傑作として非常に良いものでした。
2、非常に悪くなったみじめな存在としての人間
堕落した天使(悪魔)に誘惑された人間は、罪の奴隷となり、美しい神のかたちを失ってしまいました。「神と隣人(他者)のものをむさぼってはならない」という神の戒めによって機会を捕らえた罪が、人間を欺き、戒めによって人間を殺したのです。
その結果私たち人間は、自分がしたいことではなく、したくないことをするようになりました。優しくなりたいけど優しくなれない。わかっちゃいるけど止められない。非常に悪い自分をどうしても自分で変えることができないみじめな存在。救い主が必要な存在。それが私たち人間の本当の姿です。
母の日歓迎礼拝メッセージ「永遠のいのちとは何か」ローマ15
母の日歓迎礼拝メッセージ「永遠のいのちとは何か」ローマ15(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙6章15ー23節
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ人への手紙6章23節
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。イザヤ書40章8節
草は枯れ、桜は散ります。確かにこの地上には永遠などありません。けれども死の向こうへと続く永遠が確かにある。永遠に変わらない神の言葉、聖書はそう語っています。
永遠のいのちとは、神の下さるプレゼントです。プレゼントですから、代金を支払わなくても感謝して受け取れば得ることができます。永遠のいのちは神のひとり子のいのちがかかっているほどに高価なものですから、代金を支払うような方法では、絶対に得ることができません。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ福音書3章16節
『現代人の生き方に見られる最も有害な点は、その近視眼的な考え方にあります。人生を最大限に活用するためには、永遠の視点を持たなければなりません。』リック・ウォレン「人生を導く5つの目的」(The Purpose Driven Life)より
豊橋技術科学大学の研究室で教えられたこと その3
豊橋技術科学大学の研究室で教えられたこと その3
「たどりつけると考えるうちは、他人事としてそのことを捕えている。何事でも、一生かかってもたどり着けないよ。マスター(修士)出ただけでは使い物にならない。3年目ぐらいで一人歩きが出来るようになり、5年目ぐらいでやっと成果が出始める。回り道をして来たという人は、回り道を通っているその時には、それが回り道だとは思ってなかったはず。だからその時その時を真剣に生きて来たはず。計算ずくの回り道ではだめ。命がけで一つのことに打ち込めない。魂が入らない。また迷う。企業にとっても、借りの仕事と考えている人を採用するのと、命がけでやろうとしている人を採用するのとは全然違う。貴花田だって柔道がうまくなろうとして相撲をやっているわけじゃない。もしそうだったらあんなに強くなれない。人生は短いし限られてる。やりたいことがあるんだったら、まっすぐにそれに打ち込むべき。」Y先生
「2、3日の間に約束を破るようなやつは、私は絶対牧師として、いや、人間として認めない。学業をおろそかにしている状態、ふらふらしている状態で人を説得できるわけがない。父さんに電話しなさい。頑張ってやっている。その一言だけでもいいから。」B先生
豊橋技術科学大学の研究室で教えられたこと その2
豊橋技術科学大学の研究室で教えられたこと
豊橋技術科学大学の研究室で教えられたこと その1
「トラブルがあったら、装置を止めて徹底的に原因を調査しなさい。原因がわからないうちは絶対に装置を動かしてはならない。そんなことをしたら、同じ事故が同じ原因で再び起こるから。原因を突き止め、問題に対処してから、装置は動かしなさい。」
工学、技術、科学、テクノロジーとかサイエンスといった分野では、実験によって真理をあぶり出し、実験によって研究を進める。実験によって再現性が得られるデータを出す。再現性とは、誰が実験を行っても同じ条件のもとに実験を再現でき、同じデータを得る事ができることを意味する。実に再現性によって、技術や科学は成り立っている。エンジニア(技術者)の卵として、訓練のために高価な実験装置のメンテナンス(維持・管理)を任される際、上記の言葉は耳にタコができるほど教えられた。
原子力発電所の再稼働においても、信頼と安全の回復のために、まさに上記の教えが妥協なく適用されなければならないと私は考える。安全や信頼も再現性の上に成り立つのだから。
礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14
礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙6章1ー14節
1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。ローマ人への手紙6章1-5節
自分に都合のいい解釈をしたい人間は、恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきだと主張します。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと反論し、洗礼(バプテスマ)とは何かを語ります。
キリストの死にあずかるバプテスマによって、私たちはキリストとともに葬られたのだとパウロは語ります。それは私たちが、キリストとともに復活し、新しい歩みをするためです。