安息日龍王峡ハイキング

予定がキャンセルになったので、安息日として龍王峡に行って来ました。

まずは幸手のジョイフル本田でガソリンを入れ、4号線から五霞を通り抜けて4号バイパスへ。
宇都宮でランチ。宇都宮餃子とラーメンを食べる。

ランチの後、宇都宮環状道路から宇都宮北道路を通り、徳次郎から日光街道の杉並木に入り7本桜から鬼怒川方面に。実は鬼怒川方面は日光オリーブの里以外は初めてのドライブ。

龍王峡の駐車場に車を止めて、いつものようにPENTAXの一眼レフカメラを持って安息日ハイキングスタート。
水彩画を描いている人たちがたくさんいる。それもそのはず。まさに絵になる風景の連続。

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龍王峡

龍王峡

モリアオガエルの白い卵塊を初めて見ることができて感謝!

モリアオガエルの卵塊

眠れない夜、不安な夜のためのバイブル

眠れない夜、不安な夜のためのバイブル

新約聖書 マタイの福音書6章25ー34節より(新改訳2017)

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

祈る主イエス

皇海山山麓栗原川林道

梅雨の合間に皇海山山麓にある栗原川林道に行ってきました。
途中で車を止めて林道を歩くと、狸、鹿、雉などに出会いました。
時間の関係で皇海山の登山口にはたどり着けなくて、途中で引き返しました。

ワークアウト詳細

栗原川林道の絶壁

狸

雉

皇海山山麓栗原川林道2019-06-17

立体的福音宣教について

立体的福音宣教について

私たち日本同盟基督教団は、国内宣教、国外宣教、そして次世代育成の青年宣教を三本柱にしています。現在私は国外宣教委員会から伝道部(国内宣教)に移り、宣教区長も他の先生にしていただいております。

けれども、廣瀬薫理事長が教団誌「世の光」の2019年5月号に書かれている「立体的な宣教」とは、やはり「国内宣教だけに限定されない世界宣教」だと覚えます。

海外在住の邦人宣教、国内在住の外国人宣教、さらには海外で信仰に導かれた後に日本に帰国されるリターニーのフォローアップ。実に聖書が語る「立体的な宣教」とは、それらが互いにリンクしあった、立体的、統合的、多角的な宣教協力ではないでしょうか。さらには、国内宣教においても、諸外国から派遣される宣教師との宣教協力が立体的な宣教をもたらします。

アメリカから次々に遣わされ日本国内で実践的訓練を受けている次世代のTEAM宣教師たち。韓国を中心としたアジアからの多くの宣教師たち。そのような宣教師たちとの宣教協力がさらに豊かにされる。そのような「立体的な宣教」によって、日本とアジアと世界に仕える世界宣教が成し遂げられていくことを夢見ています。

憲法記念日に

憲法の無意識 柄谷行人

 日本では外から危機が生じるとき、いいかえれば、超越的なものが外から到来するとき、内部で天皇を超越化するということです。それを示す最初の例は「大化の改新」(六四五年)です。これが起こったのは、唐が新羅とともにヤマトに到来することが必至と見えた時期です。したがって、つぎのようにいっていいでしょう。日本では、天皇が超越的な存在として実権をもつような時期は、内外において危機的な状態にある、戦乱状態にあるということです。p67

 くりかえすと、憲法九条が根ざすのは、明治維新以後七七年、日本人が目指してきたことの総体に対する悔恨です。それは「徳川の平和」を破って急激にたどった道程への悔恨です。したがって、徳川の「国制」こそ、戦後憲法九条の先行形態であるといえます。
 ただ、私がそのようにいうのは、憲法九条は日本文化に根ざしているという意味ではありません。また、徳川時代の国制を称賛したいわけでもありません。憲法九条が含意するのは、カントが明確にした普遍的な理念です。それについては次章で考えますが、ここまで私が試みてきたのは、その普遍的な理念が、なぜいかにして、他ならぬ日本において制度として定着したのかを示すことです。それは、日本人の意思あるいは理想主義によるものではない。それはむしろ、日本が侵略戦争を行ったことを通して、さらに占領軍による強制を通して実現された。私がそこに見いだすのは、いわば「自然の狡知」です。p79

孤独死とひきこもりについて

近年、孤独死なさる方やひきこもりの方が増えていますが、これは他人事ではないです。もしも私が、キリスト信仰に導かれていなかったとしたら、おそらく私自身がひきこもって、緩やかな自殺を試みたり、孤独死への道を歩んでいたはずだからです。

もしあなたが、ひきこもっておられるなら、以下の聖書のメッセージにぜひ耳を傾けてください。あなたを決して見捨てず、あなたを離れない神、主イエス・キリストの守りと導きが、あなたの上に豊かにありますように。

歌集 高遠

歌集 高遠

あとがきより

・・・二十代に辞めた作歌を七十代後半になって再び始めることになりました。
 その直接のきっかけは、阪神淡路大震災の報道でした。「震災と戦争いずれが悲惨ですか。」と問うリポーターに、愛新覚羅浩さんが、「震災は助け合いがございます。戦争はただ憎み合い殺し合うのみでございます。」と答えておられました。むごい質問だと痛感しました。満州国皇帝の義妹で、日本の皇族の血縁という立場。四才と七才の二児を連れての逃避行。こういった背景の予備知識を持たない質問だったのでしょう。
 私はこの時、自分の戦争体験をうたう事でその一部でも伝えたいと考えました。沈黙を守って来たのは間違いだったと気付いたのです。・・・

望郷・ふる里福島

望郷・ふる里福島

終わりにより

 平成二十八年三月、未曾有の震災の影響で避難していた高齢だった母は、避難先の病院で九十五歳の誕生日を前に生涯を終えました。
 日頃から「死ぬ時は自分の家で、畳の上で死にたい」と言っていた母が、「家に帰りたい」と言いながら、避難先の病院で息を引き取りました。
 母の生涯は何だったのだろうかと思います。最後まで「原発は安全」と信じていた母の最期を思うと残念でなりません。まだ冷静になれない私がいます。虚しく思い、悔し涙がこみ上げてくるのです。
 私は人と人の関係を大事にしたいから、原発には賛成できません。二度とこのような事故を繰り返してはならないと思います。・・・

クリスマス以上の喜びを、一緒に味わいましょう!

クリスマス以上の喜びを、一緒に味わいましょう!

2019復活祭歓迎礼拝

杉戸キリスト教会地図2016