かわぐちかいじ氏の漫画『ジパング』

かわぐちかいじ氏の漫画『ジパング』では、「みらいを知る機会が与えられ、それを恐れず勇気を持って見つめた者は、その生き方が変えられる。」という主題が巧みなイマジネーションによって見事に描かれている。この漫画にインスパイアされて、私は牧師としてこう思う。「聖書という啓示によって未来を知る機会が与えられ、それを恐れず勇気を持って見つめた者は、その生き方が変えられる。」
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閉塞感に囚われる原因とブレイクスルー

閉塞感に囚われる原因とブレイクスルー
1、報い・結果を求めてもなかなか見えないことによる失望。しかし見えない時でも、聖書に約束されている報い・結果から目をそらさないなら、本気で信じて従い、やがて青空を見上げることができる。
2、報い・結果に関する期待と現実の違いによる失望。こんなはずじゃなかったと理想と現実の違いに愕然とする時でも、心を注ぎ出して神に本気で祈るなら、まず心の中で青空を見上げることができる。
3、報い・結果から意図的に目をそらしながら(あるいはそれを否定しながら)、大きな犠牲、献身、ハイリスクを払い続けるため。大きな犠牲、献身、ハイリスクを払い続けるためには、豊かな実り、豊かな報い、ハイリターンがどうしても必要。ぜひご自分で調べてみてほしい。聖書にどれほど多く「報い」の約束がちりばめられているかを。本気でハイリスクな信仰の旅、フェイスミッションをするためにこそ、数え切れないほどのハイリターンの約束が与えられている。おそらく信仰の父と呼ばれる者に変えられたアブラハムも、創世記12章冒頭に約束されているハイリターンの約束がなければ、安住の地に留まり続けたはずだ。
創世記12章1-5節
閉塞感に対するブレークスルーは、報い(結果)から目を離さないこと!

うつになった聖徒たち

うつになった聖徒たち When Saints Sing the Blues
「うつになった聖徒たち」の目次
1、モーセ 背負っている荷が重すぎるとき
2、ナオミ 苦々しい思いが増すとき
3、ヨブ  すべてを失ったとき
4、ハンナ 絶望したとき
5、サウル 嫉妬の炎が燃え上がるとき
6、エリヤ ひとりで神に仕えるとき
7、エレミヤ 仕えることが義務のように感じられるとき
8、ヨナ   怒りがふつふつとわき上がるとき
9、ソロモン 皮肉な考えに陥るとき
10、ある詩篇の作者 霊的喪失感にさいなまれるとき
11、パウロ プレッシャーに押しつぶされそうなとき
12、暗闇にある宝

キリスト讃歌(ピリピ人への手紙2章6−11節)

キリスト讃歌

アドベントの讃歌

マリヤの讃歌
ザカリヤの讃歌

閉塞感に対するブレークスルーは、報い(結果)から目を離さないこと!

閉塞感に対するブレークスルーは、報い(結果)から目を離さないこと!

アルケミスト 夢を旅した少年

アルケミスト 夢を旅した少年

「おまえが何かを望む時には、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ」p29

上記の言葉は、聖書の原則に沿って以下のようにするといい。「おまえが主なる神のみこころにかなった何かを望む時には、三位一体の神が協力して宇宙全体を動かし、それを実現するために助けてくれるのだよ!」
根拠となる聖書のみことばは、以下に記す1ヨハネの手紙5章14−15節。

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

市川白弦著「仏教者の戦争責任」

仏教者の戦争責任

一九四五年の日本の壊滅的な敗戦のあと、もっとも根源的な自己批判を展開した日本の仏教徒、市川白弦が、侵略的軍国主義の正当化の支えとなった、仏教の伝統における十二の特徴をあげたとき、そのリストに仏教の基本的教義のほとんどすべてーたとえば、あらゆる現象は絶えざる流動のなかにあるとみなす、縁起ないし因果をめぐる仏教的教義とそれに関連した無我をめぐる教義、厳格なドグマの不在と人格<神>の不在、正義ではなく内面的平安を重視すること、等々ーを入れざるをえなかったのは、なんら不思議なことではない。 ・・・スラヴォイ・ジジェク著『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』青土社p49-50より

以下、市川白弦著「仏教者の戦争責任」春秋社1970年より引用

歴史的世界の悪を傍観して自己の清潔を守る宗教者の「徳」を、D・ボンヘッファーは宗教者の「敬虔なる怠慢」とよんでいる(森野善右衛門訳『現代キリスト教倫理』二六四頁)p4

西欧では宗教の名による戦争がしばしばおこなわれたが、仏教のばあいは決してそうではなかった、というたぐいのことばを、明治以後に生まれた仏教者、「破邪」「折伏」などの論理を「聖戦」に奉仕させたわれわれ仏教者は、つつしみたいと思う。中国を侵略した仏教は、もともと中国から学んだものであった。p20