カテゴリー: マタイ福音書 MATTHEW
一羽の雀 with PENTAX K-7
クリスマスイブ礼拝メッセージ「命狙われた幼子」
礼拝メッセージ「使命のために」
聖書箇所:マタイ福音書28章1ー20節
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ福音書28:19-20
いよいよ人生を導く5つ目の目的、「あなたは使命のために造られた」を学びます。
使命は、「命を使う」と書きます。人生とは、命を使うことです。しかし、何のために、誰のために命を使うのかによって、人生は大きく変わります。
主イエスは、「魂の救い」と「弟子作り」という大切な使命を、教会に、私たち一人一人に与えておられます。あなたは、自分の周りにいるまだ神を知らない人たちに対して、責任を負っているのです。
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08 Mother’s Day 母の日歓迎礼拝メッセージ「一時的な務め」
聖書箇所:マタイ福音書25:31ー46
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』マタイ25:40
神の視点から見た人生は、テストであり、預かりものであり、一時的な務めです。
特に子育てはそうです。神から預けられた子どもに、親としてどう向き合い、どう育てるのか。神の代理人である父と母は日々問われ、子どもと共に成長します。しかし時が来ると、子どもは巣立っていきます。産みの苦しみは一時的ですが、重い永遠の栄光をもたらします。
なぜなら、王である主イエスが、『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』と言われるからです。
子育てに限りません。最も小さい者たち、すなわち空腹な者、渇いた者、宿なき旅人、裸の者、病気の者、牢にいる者と共におられる主イエスにどう接したのか。主イエスがあなたに問われるのはそのことです。御霊の実(愛:ガラテヤ5:22-23)を、結んでいるかどうかが問われるのです。
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礼拝メッセージ「神の視点から見た人生」
聖書箇所:マタイ福音書25:14ー30
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。マタイ25:14
聖書に耳を傾けるなら、神の視点から人生を見ることができます。神の視点から見た人生、それはテストであり、預かりものであり、一時的な務めです。
1、人生はテストである
テストは、バリアと言い換えることもできます。段差があると、つまずいて転んでしまう可能性も十分あります。しかし段差等のバリアが全くないと、体力等が著しく衰えてしまうのです。神は私たちの成長のために、バリアフリーではなくバリアアリーの人生を、深い配慮と共に備えてくださっています。
2、人生は預かりものである
収入を得るために必要な健康、仕事、能力、意欲。これらはすべて、神からの預かりものです。いのちや時間もそうです。あなたが神から預かっているものには、次のような形(SHAPE)もあります。状況、心意気、才能、性格、経験。レッツ・シェイプアップ!
3、人生は一時的な務めである
やがてテスト期間は終わり、主なる神から預かったものをどう用いたのかが問われます。人からではなく、神から良い評価をいただける者は幸いです!
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新年礼拝メッセージ「神のビジョン」
聖書箇所:創世記15章1-6節
さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。…あなたの子孫はこのようになる。創世記15章5節
神のビジョンは、心の救いに留まりません。神のビジョンは、一市町村やこの国の救いに留まりません。神のビジョンは世界大であり、宇宙大です。使徒パウロが「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている(ローマ8:22)」と表現しているとおりです。
天を見上げるということは、宇宙を見上げるということです。光さえ私たちの目に届くのに時差が生じるほど壮大な空間が、天には広がっています。太陽の光は、約8分かかって地球に届いています。私たちが太陽を見る時、約8分前の過去を見ています。オリオン座の場合は、約1600年前の光です。
かつて主は、信仰の父アブラハムに、上記のみことばを語られました。アブラハムはこの主のみことばを信じ、主はそれを彼の義と認められました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として降誕された主イエス・キリストを信じることによって義と認められた私たちにも、このみことばは語られています。
その主イエスの大宣教教育命令を記します。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ福音書28:18-20)
杉戸キリスト教会に、星の数ほどの老若男女が満ちあふれることを夢見つつ、その夢をかなえるために、聖霊に満たされることを互いに祈り求めましょう。
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礼拝メッセージ「和解の福音」
聖書箇所:ルカ福音書11:1-13
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。マタイ18章33節
王様から6000億円を借りて、返すことができずにいた人がいました。その人は王様の前に土下座してあわれみを求めました。王様は、彼の借金のすべてを赦されました。その後、王様に赦された人は、100万円を貸していた仲間に会いましたが、すぐ返さないからといって怒り、牢屋に入れてしまいました。それを聞いた王様は怒り、赦されたのに仲間を赦さなかった人を牢屋に入れてしまいました。
大きな大きな罪を赦された人が、なぜ仲間の小さな罪を赦すことができなかったのか。その理由を考えてみましょう。
自己中心だから、自分は正しいとしか思えず、人の罪が大きく感じられ、赦すことができない。
ただあわれみによって赦されたということを理解してないから、赦すことができない。
大切なことは、神のあわれみの大きさを知り、ただあわれみによって赦されたことを心にしっかりと刻むことです。神様のあわれみの大きさを知るということは、神様に対する自分の罪の大きさを知るということです。