月: 2016年5月
PRAISE BAND WITH GOSPEL CHOIR
キリエ KYRIE 宗教詩集より教会暦
キリエ KYRIE 宗教詩集
ヨッヘン・クレッパー 著
富田恵美子・ドロテア 富田裕 訳
p34-37より
教会暦
あなたは星としてわたしたちの上にのぼり、
初めから輝きとして近づかれた。
わたしたちは闇に包まれていたが、
突然に道を見出した。
雲間から射す光の後を
わたしたちは胸を弾ませてついて行った。
長い旅路の終わりに
あなたは馬屋でわたしたちに休息を与えた。
藁と飼い葉桶が示したものを、
ただただ驚きのうちに掴んだ。
描き出された約束ではなく、
その約束は果たされていた。
そして、飼い葉桶と星と羊飼いたちの上に
あなたの山ゴルゴタの山が聳えたち、
道に迷った人たちの目前に
闇の中からあなたの十字架が浮かび上がった。
わたしたちのためにあなたが死んだ十字架の立つところで、
わたしたちは信じた。
岩に穿たれた墓の前に
堅い、重い石が置かれた。
翌朝、香油を塗るためにやって来て
わたしたちが目にしたものは、ただあなたの屍衣。
いかなる岩もあなたの道を阻むことなく、
わたしたちは、主よ、あなたに立ち帰り、ついて行った。
あなたの脇腹に開いた傷に
あなた自らがわたしたちの手を取って触れさせた。
そしてあなたと別れる時まで
あなたの傍においてパンと葡萄酒でもてなした。
あなたを天に引き上げた雲は、
私たちを恐れと恥から解き放った。
鳩のように、光の降り注ぐ中を、
あなたはそっと降りて来られた、
わたしたちに炎の輝きを注ぎ、
残された者たちに賜物をお与えになった。
天が開かれ、
あなたがわたしたちに祈りを授けられた。
星と飼い葉桶、十字架と鳩を通して、
岩と雲、パンと葡萄酒を通して
たゆまずわたしたちの信仰は
ひたすら御言葉の深みに入りゆく。
飛び去るわれらの時代にも、
あなたの到来を見ない年月はない。
都市伝道に関する本
ロドニー・スターク著「キリスト教とローマ帝国 小さなメシア運動が帝国に広がった理由」
The Rise of Christianity
社会学的分析から浮かび上がってきたその急速な伝播(でんぱ)の理由とは?
10年につき40%(1年につき3.42%)の割合でずっと増加し続けた。
初期教徒の社会層の幅広さ(下層から上層)、
ディアスポラ(離散)ユダヤ人の多さ、
人的ネットワーク、
疫病に対する看護(クリスチャン・ナース)、
女性の役割、
都市共同体の結束のゆるみ、
キリスト教の中心教義の積極的評価=人を惹きつけ、自由にし、効果的な社会関係を生み出し、支えるもの
災害や環境の劣悪さの中でのクリスチャンの献身的行動・寄り添う支援
7章:都市の混乱と危機ーアンティオキアの場合
ホームレスと貧困者だらけの町に、キリスト教は希望とともに慈善活動を提供した。新参者とよそ者だらけの町に、キリスト教はただちに愛着関係を結べる礎を提供した。孤児と寡婦であふれた町に、キリスト教は新しい、より大きな家族観をもたらした。民族間の抗争で引き裂かれた町に、キリスト教は社会的連帯の新しい基盤をもたらした。そして疫病、火事、地震に悩む町に、キリスト教はよく働く看護の奉仕を提供した。p204
愛という御霊の実を結ぶために ガラテヤ5:22−23
しかし、御霊の実(単数形)は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
求めなさい。そうすれば与えられます。
ぶどうの木である主イエス・キリストに枝としてとどまり続けなさい。そうすれば必ず御霊の実を結べます。
His Eye Is On The Sparrow
カラヴァッジョ展の恵み
昨日、これまで敬遠していた東京の良さと、東京に隣接する埼玉の良さを改めて知る素敵な時が与えられた。
いろいろな事が重なって、素敵な時が与えられたことに深く感謝。まず、私が牧師をしている杉戸キリスト教会のある方が、「上野の国立西洋美術館で開催されているカラヴァッジョ展をぜひ見に行ってください」と言って先立つものをプレゼントしてくださった。そして、昨日予定していた求道中の方との聖書の学びが急遽キャンセルになり、午後の予定が空いた。さらに、外に出かけたくなるような青空と陽光と新緑が眩しい5月の晴れた日だった。
私の住んでいる埼玉県北葛飾郡杉戸町から東京の上野までは、東武スカイツリーラインと地下鉄日比谷線の相互乗り入れのおかげで約1時間で行ける。飛行機や電車を乗り継いではるばる東京に出てこられる方も多いのに、わずか1時間で上野の美術館に行けるというのは埼玉の素晴らしい点。
東京と言っても超高層ビルが立ち並ぶ所だけではない。上野公園には新緑の木々や正岡子規記念球場や西郷さんの像がある。関東大空襲による戦後の焼け野原では、遠くから上野の西郷さんの像だけが見えたと聞く。
さて、最初私はカラヴァッジョと聞くと、残酷な首切り画家というような印象しかなく、あまり行きたくないなと思っていた。けれども調べてみると、私の大好きなレンブラントにも大きく影響を与えた画家だということがわかり、楽しみにしながらいろいろとネットで下調べをして鑑賞に備えたが、百聞は一見に如かずだった。
西洋の文学や美術には、BIBLE・聖書の内容をテーマにしたものが多いが、もちろんカラヴァッジョの作品にも多い。「洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)」、「エマオの晩餐」における復活の主イエス・キリスト、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」、「法悦のマグダラのマリア」などが今回の公開作品にはあった。
世界初公開という「法悦のマグダラのマリア」。実は彼女の前になるキャンバスの左上には、ライティングによって背景の闇の中からかすかに浮かび上がってくる十字架が描かれている。彼女は、手をしっかりと水平に組みながら仰け反り、左腕を後ろによじらせながら、骸骨の上に左肘をつけて体重を支えている。
注目すべきは左上の十字架と右下の骸骨を結ぶライン。そしてもう一つは左上に仰け反り右下に下半身を投げ出している彼女の体の傾きによって描かれているライン。この二つのラインがキャンバスにXの構図を描き出している。そして対照的なのは左右の腕の色。十字架に近い右腕は明るく白く描かれているが、骸骨に上半身の体重を預けている左腕は暗く、ほとんど黒に近い濃さで描かれている。そして彼女が見上げている左上、十字架の上だけにはうっすらと光がある。彼女は上半身は白い衣を着て、下半身は赤い衣をまとっている。彼女のお腹は妊婦さんのように膨らんでいるが、腹部の衣は白がかなり黒ずんでいることから、罪を孕んでいることの象徴のように見える。
この作品は、人を殺め、逃亡しながらも最後までカラヴァッジョが手放さなかった作品だそうだ。恐らくカラヴァッジョは、罪を孕み、赦しを求め、死との闘いの中で十字架を見上げ、神のあわれみを求め、晩年には罪の赦しに基づく平安と歓喜の中で、自ら描いたマグダラのマリアのように法悦していたのではないかと私は想像する。
十字架も骸骨も死の象徴である。けれども十字架は罪の赦しの象徴であり、罪から来る報酬である死に打ち勝ち、復活の命を与える神の愛の象徴である。罪のない神の御子、主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれた。けれども主イエスは3日目に復活なさり、罪と死に勝利された。そのような主イエス・キリストの福音による罪と死に対する勝利がこの絵には描かれているように感じた。
『氷点』解凍 森下辰衛
神から離れているために生きる目的がわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために愛されていることがわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために愛することができなくなるとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために罪をゆるされることがわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
p239-240
同じことをしても、人がしたら悪く、自分がしたら悪くないのだ。不倫の場合などは更に顕著だ。他人のしている不倫は世にも汚らわしいものだが、自分がするのは美しい運命の恋ということになる。そして他人のした善行は「当たり前のこと」なのに、自分のそれは世界に伝えるべき美談になるのだ。人間を計る尺度に自分用と他人用がある。それは、神の方を向かないから可能なのだ。そして、人は皆、自己中心に生きたいので、神の方を向こうとはしない。p69
漱石は、自由や独立や自己という概念をよきものとして移入してきた近代の日本人の心を観察して、その「淋しみ」を描いたのだが、三浦綾子はもうひとつの日本近代の節目であり、また彼女自身の人生の転換点でもあった敗戦後において、日本人の心の実験を始めようとしている。見本林の「すぐ傍ら」に辻口家が設定され、戦後の十七年余の時代を背景にその家族と彼らをめぐる人間たちの愛し憎み、葛藤する心が実験観察されることになる。つまり辻口家は戦後の日本の家族と日本人の心の見本であるのだ。「和、洋館から成る辻口病院長邸」にもそれは表れている。・・・日本的なものと西洋的なものが折衷した家、それはそのまま戦後の日本人の心の時代状況なのだ。p57
「地獄とは、もう愛せないということだ」by ドストエフスキー
「罪とは、もう愛さないということだ」by 森下辰衛
ここには三浦綾子の、そして同時に神の、胸の裂けるような痛みと懊悩と涙があるように感じられる。誰でもいいほど淋しかったのに、誰にも愛されず、誰をも愛せない。それが人間なのか。そこに愛の本源たる神を離れた人間の悲惨がある。p105