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洗礼とは何か
連休のため今日の福音喫茶はお休みです。これまでの番組は録画にて配信中!
連休のため今日の福音喫茶はお休みです。これまでの番組は録画にて配信中です。あなたの上に守りと祝福が豊かにありますように! (Broadcasting live at http://ustre.am/GDwm)
青年福音喫茶 SUGITO GOSPEL CAFEのご案内
今日も夜7時半から青年福音喫茶OPENします。
USTREAMも午後8時ごろから試験配信予定です。
杉戸近辺の方はぜひお気軽に杉戸キリスト教会にお集いください。
番組ページはこちら。
番組ページにて、これまでのライブ配信の録画を視聴できます。
礼拝メッセージ「あなたのために死ぬ愛」ローマ12
礼拝メッセージ「あなたのために死ぬ愛」ローマ12(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙5章6ー11節
6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。ローマ5章6-11節
あなたが正しい人でも、あなたのために死ぬ人はほとんどいないでしょう。あなたが情け深い人なら、あなたのために進んで死ぬ人がいるかもしれません。
けれども、あなたがまだ罪人・不敬虔な者・敵であったとき、イエス・キリストがあなたのために死んでくださったことにより、神はあなたに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
青年福音喫茶 SUGITO GOSPEL CAFEのご案内
今日も夜7時半から青年福音喫茶OPENします。
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杉戸近辺の方はぜひお気軽に杉戸キリスト教会にお集いください。
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イースター召天者記念礼拝メッセージ「死者を生かす神」ローマ10
イースター召天者記念礼拝メッセージ「死者を生かす神」ローマ10(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙4章17ー25節
17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 ローマ4章17-25節
パウロがローマ人への手紙において語るアブラハムの姿は、罪や不信仰がおおわれたアブラハムの姿です。
おおわれる前のアブラハムの姿は、創世記17章17節に以下のように記録されています。
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
礼拝メッセージ「価なしに義と認められる」ローマ8
礼拝メッセージ「価なしに義と認められる」ローマ8(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙3章19ー31節
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ローマ3章19-24節
ローマ人への手紙の主題は、「信仰義認」という四文字熟語で言い表すことができます。これは「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、あなたは神の前に価なしに義と認められる」という聖書の真理、イエス・キリストの福音を要約したものです。
けれども多くの人になじみ深いのは、「信仰義認」ではなく「行為義認」です。これは「自分の努力と頑張り、行為によって、代価を払うことのできた者だけが神の前に義と認められる」という考えです。
「信仰義認」の真理は、あなたを義と認め、罪責感や良心のとがめ、劣等感や優越感から解放し、あなたに喜びと平安と神への賛美を与えます。
プレイズバンド賛美2012年3月
プレイズバンド賛美2012年3月(クリックで聴けます)
我が主キリスト
スティル(静まって知れ)
驚くばかりの
君は愛されるため生まれた
礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7
礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙3章1ー18節
しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか‐‐私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。‐‐もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。ローマ3章5-9節
悲惨な出来事の中で、「神がいるならどうしてこんなことが起こるのか?」という問いが生じます。
この問いの背後には、「怒りを下す神は不正である」という人間中心的な神学があります。「愛の神は正しいが、怒りを下す神は正しくない」、「赦す神は正しいが、裁く神は間違っている」というような考えです。このような神学は、「十字架を必要としない見せかけの神の愛と赦し」に行き着きます。
このような人間中心的な神学に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強調します。
本当の神は、私たちの身代わりとして、十字架に磔にされたひとり子イエス・キリストの上に、容赦のない怒りを下された神です。