利他的な生き方は聖書的か?

利他的な生き方は聖書的か?

紅一点

「利他」とか「利他的」という言葉が最近よく使われ、利他的な生き方こそ理想だと強調されている。キリスト信者であっても、利他的な生き方を目指すことが理想とされているようだ。また、キリスト信者に対して、利他的であることが期待されている。

けれども、C.S.ルイスが書いた、「栄光の重み THE WEIGHT OF GLORY」という本には、利他的な生き方が実は聖書的ではないことが冒頭で紹介されている。以下にその本文を紹介する。

『こんにち二十人の善き人に、何を徳の最高と考えるか尋ねたとするならば、十九人までが、利己的でないことだと答えるでしょう。しかし、もし昔のすぐれたキリスト者なら、ほとんどだれに尋ねたとしても、愛だと答えたことでしょう。

どういうことが起こったかお分かりでしょう。消極的な用語が積極的な用語にとって代わったのですが、これは言語学的な意味があります。利己的でないことという消極的な理念は、他人のために良いものを確保するのを第一義としないで、自分は良いものなしですませるという意味合いの含蓄があり、他人の幸福ではなしに自分の節制が大事な点みたいに聞こえます。これはキリスト教の愛の徳ではなさそうです。

新約には、自己否定について多くのことが述べられていますが、それは自己否定を目的そのものとすることについてではありません。わたしたちが、キリストに従うことのできるよう、己を捨てて自分の十字架を負いなさいと言われますし、そうすれば最後に見出されるものについて書かれているほとんどすべてのものに、願望への呼びかけが含まれています。

もしほとんどの近代人の心に、自分自身の善を欲し、その享受を熱心に望むことは悪いことだという観念がひそんでいるとしたら、この観念はカントとストア派から忍び込んだもので、けっしてキリスト教信仰と関わりあいのないものだと申し上げたいと思います。

実際、福音書の中の、臆面もない報いの約束と、その約束された報いが度胆を抜くようなものであるのを思うならば、わたしたちの主は、わたしたちの願望を強すぎるどころか弱すぎると見ておられるように思われます。

わたしたちは、気乗りのしない顔で、せっかく限りない欣びが差し出されているのに酒とセックスと野心をいじくりまわしていますが、無知な子どもが、海辺の休日につれて行ってくれようということの意味が分からずに、貧民窟で泥いじりを続けたがっているのに、それは似ています。わたしたちはあまりにもたわいないうれしがりやなのです。・・・』

なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?

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ロシアがウクライナに軍事侵攻を続けている今、「なぜ神さまは、プーチン大統領のような悪者をそのままにしておられるのか?」と疑問に思っておられる方も多いのではないか。実際あまりにも多くの血が、毎日のように流れ、100万単位の難民が祖国を追われ、流浪の民になっている。一刻も早く、この愚かで悲惨な戦いが止みますようにと、私も切に祈っている。

実は聖書を読んでいると、「なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?」という疑問が必ず起こる。なぜなら神さまは、悪魔に対して限定付きで悪事を働くことを許可されるし(旧約聖書ヨブ記冒頭参照)、悪事を働いていている悪者を放任しておられるような時が実際に多く見られるからである。

例えば最後の晩餐と言われる時(新約聖書ヨハネ福音書13章参照)、悪魔が暗躍し、イスカリオテのユダを操り、イエスを裏切ること・引き渡すことへと誘う。

「なぜ神さまは、悪魔や悪者をそのままにしておられるのか?」J.R.R.トールキンの書いた指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)は、この問題を取り扱っている。指輪物語には、ゴラムという悪者が登場する。ホビットのフロドは、狡猾なゴラムを殺そうとするが、魔法使いのガンダルフがそれを止める。「どんな悪者にも役割がある」とフロドを諭しながら。

あらゆる力を手にすることができる指輪を葬り去るために、フロドは仲間と共に旅を続ける。ネタバレになってしまうが、最後の最後で、フロドは指輪の持つ魔力に囚われ、指輪を滅ぼすことができなくなってしまう。その時あのゴラムがフロドに襲い掛かり、指輪争奪戦が始まる。ついに指輪を奪い取ったゴラムは、足を滑らせ、指輪と共に灼熱のマグマに落ちていく。結果的に悪者であるゴラムのおかげで、フロドと旅の仲間たちは、指輪を葬り去ることに成功するのである。

実は聖書が語る救済史においても、同じようなことが起こったのだ。悪魔とその手下となったイスカリオテ・ユダという悪者の存在が、結果的に主イエス・キリストを十字架の死へと向かわせることになるのである。そして、罪のない主イエスが、罪人の身代わりとして十字架で死なれることを通して、救いが完成し、新しい契約が成就し、主イエス・キリストは、死と悪魔と罪に勝利することができたのである。

神はなぜ戦争をお許しになるのか

発さなくてはならない問いは、「神はなぜ戦争をお許しになるのか」ではなく、むしろこうである。「なぜ神は、この世がその不義と罪の中で自滅していくのをお許しにならないのか。なぜ神は、その抑制の恵みによって、悪と罪に制限を設け、悪と罪が越えられない境界を定めておられるのか」。おゝ、この罪深い世に対する神の驚くばかりの忍耐は何と大きなものであろう!p112 神はなぜ戦争をお許しになるのか D・M・ロイドジョンズ著 いのちのことば社

神はなぜ戦争をお許しになるのか

殺されそうな時、神様を信頼すれば救われる?

しかし、私たちがまだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、
神は 私たちに対するご自分の愛を 明らかにしておられます。新約聖書・ローマ人への手紙5章8節

ある方からこんな質問があった。
「神様を信頼すれば、自分の命を狙っている人から救われますか?」

私は以下のように答えた。
「十字架のイエス様を見上げてイエス様を信頼すれば、自分の命を狙っている人、つまり自分の敵でさえ愛することができるように変えられます。私たちがまだイエス様の敵であった時、イエス様は命をかけて私たちを愛してくれましたから。」

人生の旅を聖書とともに

『主の教えを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。』詩篇1篇2−3節

旧約聖書の詩篇1篇には、実を結ぶ人生の秘訣がある。「主の教え」、すなわち「みことば」と呼ばれる「聖書」を喜びとし、昼も夜も口ずさみ、何度も何度も思い巡らす。繰り返し繰り返しリフレインする。そうすれば、時が来ると必ず実を結ぶことができる。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。さああなたも、今日から人生の旅を聖書とともに生きよう。

聖書新改訳2017

ジーザスバイブルストーリー

聖書協会共同訳

HOLY BIBLE

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BIBLIA HEBRAICA STUTTGARTENSIA

ローマン・ロード

ローマン・ロード

①ローマ人への手紙 3章23節
 
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

②ローマ人への手紙 6章23節

 罪の報酬は死です。
 しかし神の賜物は、
 私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

③ローマ人への手紙 5章8節
 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、
 キリストが私たちのために死なれたことによって、
 神は私たちに対するご自分の愛を 明らかにしておられます。

④ローマ人への手紙 10章9節
 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
 あなたの心で 神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、
 あなたは救われるからです。

⑤ローマ人への手紙 10章10節
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

⑥ローマ人への手紙 10章13節
 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」

のまちゃん牧師の忘備録

のまちゃん牧師の忘備録

福音によって自分が変えられなければ、何度やっても同じこと。

福音によって自分が変えられるためには、イエス・キリストを呼び求めることが必要。

イエス・キリストの福音によって自分が変えられることが、人生の分水嶺となる。

SKY WALKING

写真は谷川岳から西側へと伸びる分水嶺。稜線の右に降った雨や雪は日本海側に、稜線の左に降った雨や雪は太平洋側に流れていく。

分水嶺:分水界になっている山脈。雨水を異なった水系に分かつ山の峰々。分水山脈。

祈りによる力 POWER THROUGH PRAYER by E. M. BOUNDS

祈りによる力

祈りによる力 POWER THROUGH PRAYER by E. M. BOUNDS
E. M. バウンズ著 羽鳥純二訳 いのちのことば社 より

教会は、もっとよい方法はないかと求めていますが、神はさらにすぐれた人を求めておられます。p6

「手早く祈りをすましてしまうことによって、信仰は弱まり、罪を感じることが鈍くなり、敬虔さはいかがわしいものになってしまいます。神とともに過ごすことが少ないならば、神のために少ししか役にたたなくなってしまいます。祈りを短く切り上げてしまうことによって、すべての信仰的な性格が小さくけちくさく、そしてだらしないものとなってしまうのです。」p115

もし、自分の牧師のことに不満ばかり言いつづけているクリスチャンが、人まえでそんなことを言うのをやめて、神の前でその牧師のために全力を尽くして祈ってさえいたならーへりくだった熱心な絶え間ない祈りによって、いわば天の御国を激しく攻めたてていさえしていたらーその牧師たちはもっともっと成功していたことでしょう。ージョナサン・エドワーズ p105

説教者は祈らなければならず、また人々は説教者のために祈らなければならないのです。説教者がその恐るべき責任を果たすために、またその重大な働きにおいて最大のそして最も真実な成功を得るために、彼はあらんかぎりの力をふりしぼって祈らなければなりませんし、また彼のためにあらんかぎりの力で祈らなければならないのです。ほんとうの説教者は、まず第一に自分自身で祈りの精神を養い育て、また実際に祈ることを学んでいくものです。しかし、次に神の民である人々の祈りを心からせつに求めています。p106

祈らない信徒は、信徒の中で実にみじめであって、そういう人は、聖徒としての熱心さも美しさも力も持っていないのです。いったいだれがこの破壊の傷口をなおすのでしょう。教会を祈るようにできる人こそ、最大の改革者であり、使徒でありましょう。個人また教会の生涯に、新時代を画するほどの霊的革命を起こしうるような、根源的で意欲的な祈り・信仰・生涯・奉仕をもたらす、力強い信仰と汚れのないきよさと著しい活力と燃えるような熱心を備えている人こそ、現代の、またあらゆる時代の教会が大いに必要としている人たちなのだということが、私たちが真剣に考えた末の判断です。p121

LOVE SUGITO 新年聖会のご案内 2022-01-10

LOVE SUGITO 新年聖会のご案内 2022-01-10

クリスマスのご案内2021

今年もいよいよクリスマスイブです。杉戸キリスト教会では、12月24日(金)19時から、クリスマスイブ燭火礼拝があります。マスクをしてお集いください。後からこのホームページで配信も行います。オンラインもご利用ください。

クリスマスイブ燭火礼拝のご案内 光が輝く

クリスマス案内2021

クリスマス案内2021