Maybe Nobody Sees Like I Do
Shinri Nomachi(When I was 19 as a Student of the Kochi National College of Tech.)
Friends! First of all, I’ll introduce myself. My name is Shinri Nomahci. Ever since I was a little kid, I have always dreamed of a lot of things. I’ve been in Kochi since I was born. I’m a student of the Kochi National College of Technology. I’m in the fourth grade of the electrical engineering course.
I have a lot of hobbies. Listening to music, taking picture, seeing movies, going fishing, climbing mountains, reading books, and I’m crazy about rock music. I like best the songs of Corey Hart, Sting, The Beatles and so on.
My favorite colors are blue and green. There are four people in my family; father, mother, an younger sister and me. I belong to Karate club in my college. I’m learning very much from Karate but I’m not articulate enough to explain it to anyone. I’m also good at swimming, so in summer I go to the river and sea.
Last year I got a driver’s license. But I don’t have a car. It must be difficult to get used to driving through all the narrow streets. But I want to enjoy driving long distances with the stereo audio system on and window open when it is warm.
The Kagami River flows through the city of Kochi. This is the river where I usually go swimming and fishing. A big rock which is called “The Monster Rock” is in the river, and deep water whose color is dark green is under the rock. It is filled with clear water. The view from the top of the rock is wonderful. Sometimes I jump into the deep water and swim. I want to preserve nature like this forever.
In Japan we have four seasons, spring, summer, fall, and winter. I like all the seasons, but I like summer best of all. We have a little snow in Kochi, where I live, but have a lot of rain, and honest winter as a rule, doesn’t settle on our part of the country till late December. Spring and Fall are our leisure seasons, and many people go out to the fields or mountains. Spring is a beautiful season. Everything is in bloom and all the planets begin to bud. In summer the land is green and full of color. Everything is growing rapidly. In summer vacation we have Yosakoi Festival, one of the famous summer festivals. In autumn it is wonderful to see leaves turning yellow and red. I like the clear and cool air of autumn.
Looking back at the things last year, I see a lot happened around me. This year I want to keep company with more friends. And I want to correspond with a pen pal abroad, because I want to expand my English vocabulary. Maybe, there are some awkward expressions in my composition. But I’m not afraid of making mistakes.
I stood before the morning’s light and asked myself “Am I trapped again?”. I know there’s something trapped in me. There is no easy way out for my wants. I have always felt that I had to produce confidence in myself. A million dreams won’t set you free. Give you pain and never feed your hunger. Behind the clouds the sun is shining’. I don’t want to lose myself.
Maybe nobody sees like I do. And maybe somebody wants me to paint the sky blue. But I don’t really care, at least not today. Because today was the start of another day. Gee! My eyes can see a world that shines and maybe I’m a drifter. But I’d rather be that than to fall in line.
By the way, people assess qualities by their value to themselves. I’m thinking about the meaning of life. A wise man said “You only have one life to live, so use it well.” Human beings tend to fall into idleness. Life can be quite complex at times. Someone says “You became an adult when you stopped caring what other people thought about you and started to care what you thought about them.” Life abounds in a variety of temptations. I want to make meaningful use of my time. It’s relaxing to get away form the city and have contact with nature. I haven’t yet demonstrated 100% of my personal ability. I reflect calmly on my inner self. It’s better to live and die with a fixed objective. Once the wind’s direction becomes fixed, I’ll be off.
のまちゃん牧師のMUSIC ALBUMより
宗教改革記念日に
アルケミスト 夢を旅した少年
バルメン宣言の後に続くもの
朝岡勝牧師の著書、お勧めの本です。
私も神学校で卒論を書く時に、バルメン宣言に出会いました。その後、待ったなしの牧会伝道の現場(自殺未遂、リストカット、ホームレス、うつ、離婚、病気、介護、事故、疎外、いじめ、虐待、DV、ハラスメント、リストラ、酒乱、各種中毒・依存症、姦淫、詐欺、堕胎、悪霊つき、孤独、死、葬儀を味わっている人間たちが呻いている所。まさに戦場です)に派遣されつつ、かろうじてまとめ上げた、キリスト者日本人の歩く道を以下に記します。
バルメン宣言の後、シュトゥットガルト罪責告白(1945年)、ダルムシュタット宣言(1947年)と続く、ドイツ告白教会の足跡があります。
特にダルムシュタット宣言の中には、世界が今なお直面し、行き詰まっている問題解決の糸口が提示されています。
ダルムシュタット宣言・日本版のために(2001年)
第一項-罪責の認識はキリストによる和解に基づいてのみ存在する
第二項-ナショナリズムと日本民族優越主義に対して
第三項-教会と保守勢力との同盟
第四項-悪しき者たちに対する善き者たちの戦線
第五項-共産主義が提示している、忘れられた教会の使命
第六項-キリスト者・教会に与えられている自由
第七項-正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕える新しい日本国
参考文献
第一項-罪責の認識はキリストによる和解に基づいてのみ存在する †
われわれには、イエス・キリストの十字架と復活において、世界が神と和解されたという福音が語られている。この和解の福音をわれわれはまず聞き、それを本当に味わうことによってそれに生き、また伝えなければならない。もしわれわれが、自らのすべての罪責、つまり父祖たちとわれわれ自身の罪責から解き放たれておらず、われわれが日本人として、われわれの政治的意図・行動において過ちに踏み込んでしまったすべての誤った悪しき道から、良い羊飼いであるイエス・キリストによって呼び戻されていないとするならば、この和解の福音は聞かれておらず、受け入れられておらず、行われても伝えられてもいないことになるのである。
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第二項-ナショナリズムと日本民族優越主義に対して †
われわれは、あたかも世界は日本的本質(国体)に触れることによって救われるかのように、特別に日本には使命があるなどという夢を見始めた時、過ちに踏み込んでしまった。また、われわれは、われわれが聞くべき王の王、主の主としてのイエス・キリストに聞くことをしなかった。そのことによってわれわれは、政治的権力の無制限の使用に対して道を備え、われわれの民族を神の御座の上に置いた。われわれは自分たちの国家を内に対してはただ強い政府の上に、外に対してはただ軍事的な力の展開の上に基礎づけ始めたが、これは致命的に誤っていた。そのことによってわれわれは、われわれ日本人に与えられている贈物をもって、諸国民の共通の課題に仕えつつ協力するという召しを否定してしまったのである。
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第三項-教会と保守勢力との同盟 †
われわれは、人間の社会生活の中で必要となってきた新しい秩序に対して、「キリスト教的戦線」なるものを結成し始めた時、過ちに踏み込んでしまった。古い・在来のものを維持する保守勢力と教会の同盟は、われわれに対するきびしい報復となって帰ってきた。われわれは、人間の共同生活がそのような変革を求めているところで、生活の諸様式を変えることをわれわれに許しかつ命ずる、キリスト教的自由を売り渡してしまった。われわれは革命への権利は否定したのに、絶対的独裁制への発展は許容し、歓迎したのである。
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第四項-悪しき者たちに対する善き者たちの戦線 †
われわれは、政治的な生活の中で、政治的手段によって、悪しき者たちに対する善き者たちの、暗黒に対する光の、義しからざる者たちに対する義しき者たちの戦線なるものを結成しなければならないと考えた時、過ちに踏み込んでしまった。それと共にわれわれは、政治的、社会的、世界観的な統一戦線の結成によって、すべての人に対する神の恵みの自由な提供を変造し、世界をその自己義認にゆだねてしまったのである。
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第五項-共産主義が提示している、忘れられた教会の使命 †
われわれは、マルクス主義的教説の経済的な唯物主義が、この世における人間の生活と共同生活のために与えられている教会の委託や約束を果たすように、教会に注意を促さなければならなかったのだということを見過ごした時、過ちに踏み込んでしまった。われわれは、来たるべき神の国の福音にふさわしく、貧しい人々や権利を奪われた人々の事柄を、キリスト教会の事柄とすることをなおざりにしたのである。
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第六項-キリスト者・教会に与えられている自由 †
われわれが以上のことを認めて告白するとき、われわれは自分たちがイエス・キリストの教会として、神の栄光と人間の永遠的また時間的な救いのために、新しく、そしてより良く奉仕するべく自由にされていることを知るのである。キリスト教と日本文化といったスローガンではなく、イエス・キリストの死と復活の力によって神のもとへ立ち戻り、隣り人のところへ赴くことこそが、われわれの民族、また民族の真只中で、とくにわれわれキリスト者に必要なことである。
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第七項-正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕える新しい日本国 †
われわれは、「イエス・キリストによって、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放がわれわれに与えられる」と告白した。そして、今日新しくそれを告白する。それゆえにわれわれは、切に訴える。絶望をあなたの主たらしめるな。なぜなら、キリストが主なのであるから。すべての不信仰な無関心に別れを告げよ。昔はもっと良かったといったたぐいの夢想や、来たるべき戦争の思わくなどに惑わされず、この自由において、また大いなる冷静さをもって、われわれのすべて、われわれの各自がより良き日本の国の建設のために負っている責任を自覚せよ。新しい日本国は、正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕えるものなのです。
参考文献 †
ベルトールト・クラッパート『和解と希望-告白教会の伝統と現在における神学』、新教出版社、1993年
J.モルトマン『二十世紀神学の展望』、新教出版社、1989年
栄光在主
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
市川白弦著「仏教者の戦争責任」
一九四五年の日本の壊滅的な敗戦のあと、もっとも根源的な自己批判を展開した日本の仏教徒、市川白弦が、侵略的軍国主義の正当化の支えとなった、仏教の伝統における十二の特徴をあげたとき、そのリストに仏教の基本的教義のほとんどすべてーたとえば、あらゆる現象は絶えざる流動のなかにあるとみなす、縁起ないし因果をめぐる仏教的教義とそれに関連した無我をめぐる教義、厳格なドグマの不在と人格<神>の不在、正義ではなく内面的平安を重視すること、等々ーを入れざるをえなかったのは、なんら不思議なことではない。 ・・・スラヴォイ・ジジェク著『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』青土社p49-50より
以下、市川白弦著「仏教者の戦争責任」春秋社1970年より引用
歴史的世界の悪を傍観して自己の清潔を守る宗教者の「徳」を、D・ボンヘッファーは宗教者の「敬虔なる怠慢」とよんでいる(森野善右衛門訳『現代キリスト教倫理』二六四頁)p4
西欧では宗教の名による戦争がしばしばおこなわれたが、仏教のばあいは決してそうではなかった、というたぐいのことばを、明治以後に生まれた仏教者、「破邪」「折伏」などの論理を「聖戦」に奉仕させたわれわれ仏教者は、つつしみたいと思う。中国を侵略した仏教は、もともと中国から学んだものであった。p20
山道でタイヤがパンクしてしまったが、何とか無事に帰宅
家族で日光の大笹牧場にドライブに出かけた帰り道、霧降高原の山道でタイヤがパンクしてしまったが、何とか無事に帰宅することができてホッとしたというお話。主に感謝します。
行きに印象的だった紅葉を帰りながら撮影するため、側道のスペースに駐車しようと考えた。停車するために減速して車道から路肩に乗り上げた時、「ボスッ」とイヤな音がした。降りて見ると、なんとタイヤが見事にパンクしていた。
夏前の車検の際、タイヤ交換をしておけば良かったかもしれない。その時すでに、タイヤの溝はまだ十分あるが、タイヤの横に少しヒビが入っていたから。路肩に乗り上げる際のタイヤ側面への衝撃でついにパンクしたらしい。
JAFを呼ぼうとしたけど携帯が圏外。スペアタイヤと工具があったので、何とかタイヤ交換をして帰って来れた。まだ左肩付近の鎖骨骨折が完治していないので、妻にも少し手伝ってもらってのタイヤ交換。高速走行中やこの前一人で三国峠を越えて中津川林道を通った時にこうならなくて本当に感謝。
Culture of the Kingdom 天国の文化 回復への旅
戦争のための道具は、文化を生み出すための豊かな手段に変えられます。預言者イザヤは、未来についての神の幻を得たのです。本書では、現代における聖書的真理の回復について、そして、神の御国が国の文化と接触する最前線で、私が発見した事柄を記しました。p17
私は、自分が、民主的な国家の市民だと理解していましたが、これまで一度も、神の国の住民だと考えたことはありませんでした。王であるイエスに仕えるとはどんな意味なのでしょう。このテーマこそ、これから改めて、本書で取り扱おうとしているテーマです。p52
敵を愛しなさいというイエスの戒めは、神の御国において最も偉大な真理の一つです。その真理の原則とは、戦争で敵を打ち負かすより、敵の心と魂を勝ち取るほうがより力強くそして好ましいということです。どちらが最終的に、永続的な本当の平和をもたらすでしょうか。p99
闘いや戦争のとき、その結果受ける心の傷は、単純な肉体の傷より、さらに深く人を傷つけます。暴力が収まった後でも、双方ともなお生命を破壊し続ける心的外傷の苦痛にたえなければなりません。p99
熱心に正義が求められなければならないし、正義は犯罪に対して厳正に適用されなければなりません。それでもなお多くの場合において、完全な正義が行われることはないでしょう。北アイルランド、南アフリカ、ルワンダなどの場所で唯一の解決をもたらしたのは、共通に悲しみと痛みを覚えながら、平和と和解を模索することでした。相手を人間だと思わなくなると、そこに増悪が生まれ、虐殺さえ起こります。愛とは、互いを人間であると理解し合うところに始まるのです。復讐と増悪の悪循環を壊せるのは、ただ愛だけです。p99-100
by ピーター・ツカヒラ
The marriage course マリッジコース
愛する日本の教会・キリスト者へ
「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」マタイによる福音書 11:12
荒野でストイックな生活をし、一世を風靡するリバイバルの中でキリストの道備えをしたバプテスマのヨハネ。預言者エリヤの霊と確信に満ちて、主イエスを来たるべきキリスト・救い主として指し示し、主イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネ。彼は獄中にいた時に、鍔迫り合いのような激しい霊的戦いを強いられていた。その時の様子を聖書は次のように語っている。
「さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、 イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。マタイによる福音書 11:2-3
強い信仰者というイメージを持つバプテスマのヨハネが、ここまで弱くなっていた。なぜならその時すでに、天国は激しく襲われ始めていたから。
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」マタイによる福音書 11:12
韓国の教会は祈る教会、日本の教会は議論する教会と言われる。
確かに韓国のキリスト者は、祈り倒すという言葉がぴったりの激しさで祈る。祈祷院などで祈りに専念し、祝福と勝利と解決が与えられるまで、決してあきらめないで、ヤコブのように粘り強く、激しく大声で叫び、祈り続ける。
それに対して私たち日本のキリスト者は、祈りにおいてあまりにおとなしく、お祈りしているのかお寝りしているのかわからないような状態だったかもしれない。
しかし今こそ、日本のキリスト者が、祈りという武器をしっかり手に取り、激しく祈る教会になる時ではないか。ー戦後70年目のターニングポイントにて