カテゴリー: 関東宣教区
ローマ人への手紙講解メッセージ2023
ベースボールの祈り
ベースボールの祈り
ベースボールの監督の仕事は、選手たちを輝かせること。
牧師の仕事は、信徒たちを輝かせること。
聖書が教えている祈りは、例えて言うと、ベースボールのようだ。草野球、少年野球、高校野球、プロ野球、メジャーリーグ、マスターズ甲子園、そしてWBC。いろんなベースボールがあるが、聖書に耳を傾けると、ベースボールの祈りというスピリチャルな試合があり、僕たち選手一人一人に対して、励ましと応援の声が聞こえてくる。
誰かのために何かを祈り始めると、まずは1累にランナーを送り出すことができる。続けて祈り続けると、ランナーを2累に進めることができる。さらに祈り続けると、やがてランナーを3塁に立たせることができる。さらに粘り強く祈り続けるなら、最後にはランナーをホームベースに戻すことができる。けれども、ホームベースに戻すプロセスのどこかで、あきらめてしまったらどうだろうか。野球なら、せっかくの労苦が、残念ながら無駄になってしまう。
聖書が教えている祈りは、インスタントに答えられない。だから祈りが応えられるまで、チーム全員で励まし合い、支え合って、決してあきらめないで、つないでつないで祈り続けることが必要だ。あくまで求め続けること、粘り強く叩き続けること、あきらめないで、忍耐強く、全力で戦い続けることを聖書は教える。
Luke 18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」 6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。7 まして神は、 夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
弱くて不信仰な僕たちは、すぐにあきらめて、祈ることを止めてしまうかもしれない。でも、祈っていたことを思い出した時、その時にまた祈りを再開すればいい。七転び八起き。何度つまづいても、また起き上がって祈り続けるなら、必ず祈りの手応えを覚えることができる。そしたら夢は正夢!
祈りに味を占めることができたなら、もう勝利は遠くない。1点入るという形で目に見える結果が出る時、僕たちはベースボールの祈りにおいて、勝利への道を走り続けることができる。
ベースボールの監督の仕事は、選手たちを輝かせること。
牧師の仕事は、信徒たちを輝かせること。
ゲゲゲの女房の結婚カウンセリング
なぜ水木と結婚したのかと聞かれれば、いろいろと理由はあるけれど、つまるところ「私には水木と結婚する以外に道がないと思ったから」というのが本当のところです。恋愛に価値があると思っておられる方々には、これ以上の不運はないと思われるかもしれません。
でも、私の実感では、最初に燃え上がった恋愛感情だけで、その後の人生すべてが幸福になるとは、とても思えません。伴侶とともに歩んでいく過程で、お互いが「信頼関係」を築いていけるかどうかにこそ、すべてがかかっていると思うのです。私は、どんなに苦しいときでも、水木と別れたいとは思いませんでした。
どんな生き方を選んだとしても、最初から最後まで順風満帆の人生なんてあり得ないのではないでしょうか。人生は入口で決まるのではなく、選んだ道で『どう生きていくか』なんだろうと、私は思います。 武良布枝著「ゲゲゲの女房」より
「神の痛みの神学」のキリスト中心的理解 -キリスト者の生活における苦難の積極的意味を求めて-
1999年度 東海聖書神学塾 卒業論文
「神の痛みの神学」のキリスト中心的理解
-キリスト者の生活における苦難の積極的意味を求めて-
A graduation thesis of Tokai Theological Seminary in 1999
The Christ-centric understanding of
“Theology of the Pain of God”
-Seeking positive meaning of the pain in Christian life-
教職志願者コース4年 野町 真理
(所属教会:日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会)
賛美デボーション 2023-01-16
ローマにいる神に愛され召された聖徒たちへ 礼拝2023-01-15
キレイなものは遠くにあるからキレイなの
「置かれた場所で咲きなさい」というメッセージに対して、強烈に反発なさる方がおられます。確かに酷すぎる場所があります。
先日私は、「置かれた場所で咲きなさい」という内容のメッセージを、旧約聖書エレミヤ書29章から語りました。
4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。
『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
8 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。
9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──主のことば。』
10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。 それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。
バビロン捕囚の時代、神の都エルサレムも焼け野原となり、強制連行されたバビロンでも難民状態でした。
しかし彼らが置かれた場所バビロンは、実は神が植えてくださった流れのほとりでした。
そこにも神がいつもいのちの水の流れとして共におられ、平安と将来と希望を与える計画をもって、着々とイスラエルの民を導かれたのです。
あなたが今置かれている場所も、神が置いてくださった場所なら、耐えられない試練はなく、必ず出口があります。
置かれた場所において、旅人や客人ではなく住人になる時、その場所やそこに住む人々を豊かに用いて、神があなたを自身を豊かに変えていかれるのです。
『キレイなものは遠くにあるからキレイなの』(Superflyの「愛を込めて花束を」より)
悲しみつきざる浮世にありても
改めて、詩篇1篇に、ご一緒に耳を傾けてみましょう。
Psa. 1
1 幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし
昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。4 悪しき者は そうではない。
まさしく 風が吹き飛ばす籾殻だ。
5 それゆえ 悪しき者はさばきに
罪人は正しい者の集いに 立ち得ない。6 まことに 正しい者の道は主が知っておられ
悪しき者の道は滅び去る。
弱い私たちは、知らず知らずのうちに、
みことばとみことばを語っておられる主ご自身を嘲る者の座についてしまっていることがあります。
アーメン(真実)である主が、上記のように語り、約束しておられるのに、
「そんな薄っぺらい信仰なのか!」と。
主のおしえ、つまり主イエス・キリストご自身のみことばを喜びとし(主と主のみことばを嘲る者にならず)、
昼も夜もみことばを口ずさみ、思い巡らすなら(主イエスを繰り返し心の王座にお迎えするなら)、
この大患難時代のような地上の人生の只中においても、ここがすでに天の御国、神の国になります。
なぜなら、ここにすでに主イエス・キリストが来られ、
共に痛み苦しみ、愛によって私たちのすべてをご支配なさるからです。
御国とは、死の向こうにある国だけではなく、
この地上の現実の只中で、本当に体験することができる国です。
「御国とは、主イエス・キリストの愛によるご支配」ですから。
聖歌467番「みくにのここちす」の歌詞の通りです。
悲しみつきざる 浮世にありても
日々主と歩めば 御国のここちす
ハレルヤ! 罪とが 消されしわが身は
いずくにありても 御国のここちす
主にありて
野町 真理
あなたは空を打つような拳闘をしてはいないか?
あなたは空を打つような拳闘をしてはいないか?
ボクシングの世界でモンスターと呼ばれる井上尚弥(いのうえなおや)選手。先日埼玉スーパーアリーナで持たれたノニト・ドネア選手との試合において、彼は恐ろしいほど「圧倒的な勝利者(新約聖書ローマ人への手紙8章37節)」となった。前回の試合とは対照的に、まさに圧倒的だった。1ラウンドの終わり、かつて憧れたドネア選手の動きを冷静に見極め、厳しい反復練習によって体得した絶妙なカウンターパンチを、絶妙なタイミングで放った。意識が飛ぶほどの強烈なダメージを受けたドネア選手に対し、彼は2ラウンドで畳み掛け、見事な2ラウンドKO勝ちを手にした。モンスターは「空を打つような拳闘(新約聖書コリント人への手紙第一9章26節)」をしない。
それに対して、聖書を良く学んでいるはずの、日本のキリスト教会、日本のクリスチャンはどうだろうか。まさに「空を打つような拳闘」をしてはいないだろうか?祈った後、祈りがどれだけ答えられたかを毎回チェックしているだろうか?そのために、答えられたかどうかがはっきりわかるように祈っているだろうか?祈りがどれだけ答えられたかを確認していく作業こそ、祈りにおいて、信仰生活において、「空を打つような拳闘」をしない秘訣ではないだろうか。
日本のキリスト教会でも、伸びているごく少数の教会は真剣に祈っている。特に若者が多く集っているキリスト教会には、真剣な祈りがある。日本のキリスト教会よ、日本のクリスチャンよ、今こそ「空を打つような拳闘」に終止符を打ち、真剣な祈りによって「圧倒的な勝利者」とならせていただこうではありませんか!
そして、真剣に祈り始めると、悪しき者らの激しい攻撃が始まる。