礼拝メッセージ「世界を変える祈り」

礼拝メッセージ「世界を変える祈り」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。…ルカ福音書11章1-2節

主イエスに聴く祈りをする時にだけ、静まって聖書に耳を傾ける時にだけ、祈ることが出来る素晴らしい祈りがあります。それが「主の祈り」と呼ばれている祈りです。「主の祈り」は、神が私たち人間に与えて下さった「世界を変える祈り」です。

いじめ、虐待、家庭内暴力、離婚、心の病、自殺、殺人、テロ、報復戦争、地球規模の異常気象災害。この世界は今、孤独と絶望と無関心に満ちた不毛の地になっています。なぜなら、私たち人間が神を神とせず、自分を神として歩んでいるからです。「自分さえよければそれでいい」と考え、どこまでも自己中心に生活しているからです。人間の罪がこの世界を不毛の地に変えているのです。

しかし私たちが「主の祈り」を祈るなら、不毛の地に信仰と希望と愛の木が芽生え、豊かなオアシスが現れます。いのちを奪い取っていくのではなく、いのちを与え、活き活きと生かしていく世界が育まれていくのです。なぜなら「主の祈り」とは、「罪人の自己中心な祈り」とは正反対の祈りだからです。

主の祈りを、その一つ一つの言葉の意味を考えながら祈る時、あなたも世界を変える一人となることができます。

教会創立記念礼拝メッセージ「原点に立ち返って」

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教会創立記念礼拝メッセージ「原点に立ち返って」

聖書箇所:ルカ福音書10:38-42

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ福音書7:37-38

信仰の原点は、神の御言葉に聴く祈りにあります。

神の御言葉に聴く人は、山からの豊かな流れ込みを受けている湖のようです。主イエスの足もとに座って、静かに御言葉に聴き入るマリヤの心は、いのちの水で豊かに潤されていったことでしょう。

神の御言葉に聴かない人は、流れ込みを受け入れない湖のようです。しばらくは、蓄えた水を外に注ぎ出すことができます。しかし受けることを止めて流し続ければ、どんなに豊かな水瓶も、やがて枯れてしまいます。

受けることを止めて流し続ける。これがマルタの心の状態でした。最初は喜んでイエス様をもてなしていましたが、すぐにその心は渇いてしまいました。熱心に忙しく動き回っている姿とは裏腹に、義務感だけがあり、不満やいらだちで一杯になって、疲れを覚えたことでしょう。

しかしもしマルタが、忙しく動いていても休憩の時を持って、主イエスの御言葉に耳を傾けたとしたら、どうでしょうか。たとえ忙しい中にあっても、不平不満で一杯になることはなかったでしょう。そして、喜びと感謝の心をもって、最後までイエス様に喜んで頂けるおもてなしをすることができたことでしょう。

礼拝メッセージ「小さい事と大きい事」

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礼拝メッセージ「小さい事と大きい事」

聖書箇所:ルカ福音書16:1-13

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ルカ16:10

人生とは、主なる神から一時的に預かったものをどう管理するのかというテストです。抜け目のない管理人のたとえは、「あなたは神から預かった一時的な人生をどう生きるのか」ということを問うています。

隠されていることが明らかにされる時、管理人は責任を問われます。管理人は苦悩し、天下りのために、必死の裏工作を考えます。利息分を帳消しにすることによって、管理人は危機を乗り越えようとしたのです。主人は管理人の抜け目なさを評価し、ほめるのでした。

主イエスは結論を語ります。『不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。…』

不正の富とは、神から一時的に預かっている地上の富です。それは小さい事です。まことの富とは、地上の旅を終えた時、天においてあなたがたのものとして神が与えて下さる永遠の富です。それが大きい事なのです。

礼拝メッセージ「えこひいきのない愛」

礼拝メッセージ「えこひいきのない愛」

聖書箇所:ルカ福音書15:25-32

『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

畑から帰って来た兄息子の耳に、音楽や踊りの音が聞こえてきました。しもべに聞くと、家出していた弟息子が帰り、父が肥えた子牛をほふらせて祝宴を開いているというのです。これを聞いた兄は怒り、家に入ろうともしませんでした。

家から出てきてなだめる父に、兄は怒りをぶつけます。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

父は兄息子に優しく語りかけます。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

えこひいきのない愛で、父なる神はあなたを愛しておられます。そして父なる神は、あなたにも、父のような憐れみ深い者になって欲しいと願っておられます。

礼拝メッセージ「放蕩息子の帰郷」

礼拝メッセージ「放蕩息子の帰郷」

聖書箇所:ルカ福音書15:11-24

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。イザヤ44:22

オランダの画家レンブラントが晩年に描いた「放蕩息子の帰郷」という絵をご覧になったことがあるでしょうか。乞食同然の姿でボロボロになって帰って来た弟息子を、両手でしっかりと抱いている父。二人の姿にスポットライトが当てられ、暖かな光が二人を包んでいる絵です。

かつて弟息子は、父親に財産の分け前を下さいと申し出ました。これは、「おやじ早く死んでくれ。俺にとってはおやじよりもお金のほうが大事なんだ。」という暴言です。

これに対して父は、身代を分けてやり、弟息子をその良くない思いに引き渡されます。そして弟息子は、荷物をまとめ、もらったお金を持って、家を出ました。

弟息子は、遠い国で放蕩生活をし、湯水のように財産を使い果たし、落ちるところまで落ちて行きます。しかし我に返った時、彼は向きを変えて、父の家に帰ることを決心したのです。

弟息子が遠くに見えた時、父は走り寄って放蕩息子を迎えました。天におられる私たちの父なる神は、家出した私たちが帰って来るのを、ずっと待っていて下さるのです。

礼拝メッセージ「価値の回復」

礼拝メッセージ「価値の回復」

聖書箇所:ルカ福音書15:8-10

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4

お金の価値は、新しくても、古くなってしわやしみが増えても変わりません。ただし持ち主の手から落ちれば、お金の価値は失われます。持ち主の手から離れた瞬間に、お金はただの金属のかたまり、ただの紙切れになってしまうのです。

お金と同じように、人間の価値は、胎児や幼児であっても、青少年、壮年であっても、しわやしみが増えても変わりません。ただし持ち主である神様の手から離れて生きるなら、たちまち人間の価値は失われます。自分なんかいないほうがいい存在だと思ってしまうほどに、存在価値が失われてしまうのです。だから持ち主である神様は、失われたあなたを、見つけるまで念入りに捜し、あなたの価値を回復して下さいます。

持ち主であり、救い主であるイエス様の御手の中で生きる時、イエス様と手をつないで生きる時、たとえ年を重ねて死を迎えても、人間の価値は永遠に変わりません。イエス様は、死んだ後にも復活の新しいからだを、私たちのために用意していて下さるのです。

今この地上に生かされているということは、まだ役目が終わっていないということです。まだあなたでしか出来ない使命が、神から与えられているということなのです。

礼拝メッセージ「いのちの回復」

礼拝メッセージ「いのちの回復」

聖書箇所:ルカ福音書15:1-7

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ6:23

ルカ15章には3つのたとえが記されています(羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえ)。しかし3つのたとえは関連した1つのたとえです。「たとえ」という単語が単数形であること、いずれもパリサイ人や律法学者たちに対して語られていること、以下のような共通点を持っていることが、このことを裏付ける根拠です。

1、3つの失われたもの(いのち、価値、関係)
2、3つの回復されたもの(いのち、価値、関係)
3、3つの歓喜:失われたものが見つかることによってわき起こる非常な喜び(天、神の御使いたち、父に)
4、悔い改め、主イエスと共に喜ぶことへの3度の招き:「恵みを知って、わたしといっしょに喜んで下さい!」

しかし3つのたとえはまったく同じことを語っているわけではありません。羊のたとえはいのちの回復、銀貨のたとえは価値の回復、息子のたとえは関係の回復という視点で、福音の豊かさを味わうことができます。

罪とは神から離れて生きることです。神から離れた人間は、羊飼いから離れた羊のように、いのちを失いました。しかし良き羊飼いなる主イエスは、失われた人を捜して救うために来られました。主イエスは、永遠のいのちを賜物として与えて下さるために、十字架であなたの身代わりに死なれ、よみがえられた救い主です。

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

07父の日歓迎礼拝

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

聖書箇所:ルカ福音書14:12-24

『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』ルカ14:23-24

神の国の宴に招かれるということは、最高に光栄なことです。なぜならその宴は、天地万物の造り主である神が招いて下さる、盛大な宴だからです。実はあなたも、そんな素晴らしい宴に招待されています。

ところが、イエス様が語られたたとえでは、宴に招待された人々がみな、畑や牛や結婚に心奪われて、せっかくの招きを断ってしまいます。神の国の宴に招かれるということは、お返しが出来ないほど光栄なことなのに、彼らはそのことを理解できなかったようです。

断られた主人は怒り、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者、からだの不自由な者、盲人、足のなえた者たちを連れて来なさい。街道や垣根のところに出かけて行って、無理にでも人々を連れて来なさい。」としもべに命じます。

神は、見返りを期待できない者たちを、気前よく招いて下さいます。しかし、「自分は神に対してもお返しができる、神に招かれて当然の者だ」と考えて、軽率にも神の招きを断ってしまうなら、そういう人は、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」という言葉を聞くことになります。

ペンテコステ(国外宣教デー)礼拝メッセージ「神の国の門」

ペンテコステ礼拝(国外宣教デー)メッセージ「神の国の門」(ここをクリックするとメッセージが聞けます)

聖書箇所:ルカ福音書13:22-30

努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。ルカ13:24

今週の説教のあらすじ

「主よ。救われる者は少ないのですか。」と問う人に対して、主イエスは上記のみことばを語られました。神の国の門は、以下の3つの意味で狭いのです。

1、対象的な狭さ:世の中には様々な信仰の門戸があります。しかしイエス様だけが、神の国の門なのです。ヨハネ福音書10章9節に「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」とある通りです。

2、時間的な狭さ:門戸は今、全世界に向かって大きく開かれていますが、やがて閉じられる時が来ます。ノアの箱舟の戸が閉ざされたように、やがて神の国の戸は閉じられるのです。戸が閉まってしまうと、戸をいくらたたいても、神の国にはいれません。今がチャンスです。

3、実質的な狭さ:学んでも不法を行っていては、神の国にはいれません。聞いたことを行う信仰、みこころを行う信仰が必要です。マタイ福音書7章21節に「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とある通りです。

礼拝メッセージ「からし種とパン種」

礼拝メッセージ「からし種とパン種」

聖書箇所:ルカ福音書13:18-21

「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」ルカ13:18ー21

今週の説教のあらすじ

イエス様は様々なたとえを用いて、神の国について教えて下さっています。今日の箇所では、「神の国はからし種やパン種のようなものです。」と教えられています。

からし種はとても小さな種です。しかし蒔かれると大きく成長して、空の鳥が枝に巣を作ることが出来るほどの木になります。『昔主イエスのまきたまいし、いとも小さき生命の種。芽生え育ちて地の果てまで、その枝を張る樹とはなりぬ。』と讃美歌には歌われています。

パン種は少量であっても、大きな影響力を持っています。わずかな量を粉に混ぜるだけで、大量の粉全体をふくらませることが出来るのです。

しかし種を蒔かなければ、大きな木を見ることも、粉全体が膨らむのを見ることも決してできません。福音宣教も同じです。収穫を期待して福音の種を蒔き続けなければ、教会の将来はないのです。