どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!

 私が初めてイエス・キリストの福音(The Gospel of Jesus Christ)を聞いたのは、20歳の時でした。その時に思ったことは、「どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!」ということでした。それまで、「自分はクリスチャンだ」と名乗る人に出会うこともなく、誰もイエス・キリストのことを伝えてくれなかったんですよ。

 でも、今考えて見ると、すべてのことの背後にあってすべてを統べ治めておられる主イエスが、私にとって最善の時に、十字架の愛と復活の力によって、私を捕らえて下さったんだなあと思います。もしそれ以前に福音を聞いても、私の場合は、聞く耳を持っていなかったように思うからです。私は、「神などを信じることは弱い人間のすることであって、私に神など必要ない!」と本気で思っていたからです。

 いろんな経験の中で、むなしさや苦しみを味わい、自分の弱さや愛のなさを思い知らされ、生きる希望と力を失い、人生の目的や自分の存在価値を必死になって探し求めていた時に、イエス・キリストの福音を伝えてくれる人に出会えたことは、やはり絶妙なタイミング(神の時・カイロス)であったとしか言いようがありません。

 でも、その時から私は、イエス・キリストの福音(The Gospel of Jesus Christ)を伝えていく立場の人になりました。今度は私が、「どうしてもっと早く伝えてくれなかったのか!」と言われてしまうかもしれない立場に置かれているのです。

 ということで、キリスト教のことをもっと知りたい、教会に行ってみたい、聖書を読んでみたい、イエス・キリストを信じたいという方がいたら、ぜひコンタクトしてください。

失敗学のすすめ

失敗学のすすめ

畑村洋太郎著の「失敗学のすすめ」(講談社)という本がある。

以前大学で学んでいた時から教えられていることを、改めて考えさせられる本だ。

なぜ「失敗学」なのか?

もし失敗の経験から学ぶことをしなければ、 同じ過ちを何度でも犯し、成長がない。

けれどももし失敗から学ぼうとするならば、少なくとも同じ過ちを犯すことから守られ、成長する。

失敗から学ぶということは、なぜ失敗したのかという原因を追求し、それに対処しながら生きること。

自分の失敗から学ぶことも大切であるが、他人の失敗から学ぶことも、とても大切。

改めて聖書に耳を傾けると、聖書は失敗学のテキストで満ちている。

創世記2章以降は、人間の失敗の連続の歴史が記されているといっても過言でない。

サタンの誘惑に負け、 善悪の知識の木の実を取って食べた(神を神としない) という大失敗。

神ではなく自分の知恵や力に頼ることによる失敗。

自分に栄光を帰したいという誘惑に負ける失敗などなど。

牧会伝道・教会形成において、時に牧師・伝道師も失敗を犯す。

あるいはキリスト者・教会の歩みにも様々な失敗がある。

しかし聖書は、決して失敗なさらない神が、私たちと共に歩んで下さっていることを語っている。

取り返しのつかない失敗を犯した者に、やり直しの機会を与えて下さる神。

失敗を益に(マイナスをプラスに)変えて下さる救い主なる神。

そのお方こそ、私たちのすべての罪過のために身代わりに十字架について下さったお方。

その御名は、主イエス・キリスト。

成功談を聞いても、慰めを受けることはほとんどないが、失敗談には慰めとやり直すことが出来るという福音がある。

礼拝メッセージ「大洪水 The Floodwaters」

大洪水 The Floodwaters

礼拝メッセージ「大洪水 The Floodwaters」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記7章1−24節

それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。創世記7章16-20節

救いの箱舟のドアは、約100年の間、ずっと開かれ続けていました。しかし救いのドアは永遠に開かれているわけではありません。長い忍耐の後、主はノアのうしろの戸を、しっかりと閉ざされました。

『その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。1ペテロ3:19-21』

聖書の神は愛であられるので、「早くからたびたび」悔い改めて救いの舟の中に入るようにと罪人を招き続けられます。けれども、悔い改めて救いのドアから入ることを拒み続けるなら、やがて恵みの時は終わります。大洪水は容赦ない厳粛なものでした。

オアシスを見いだすために To find out OASIS in this world

砂漠が、荒野が、不毛の地が、この国に広がりつつある。しかし聖書は、あなたの造り主からの、あなたに対するラブレター、人生の北極星、羅針盤、コンパスだ。聖書を指針として生きるなら、あなたは必ず、憩いのオアシスを見いだすことできる。

もしあなたが、聖書に耳を傾け、その導きに従うならば、不信とあきらめ(静かな絶望)と無関心(愛の反対)に生きるのではなく、信仰と希望と愛に生きることができる。あなたの造り主(メーカー)は、あなたにとって何が最善なのかをご存知で、万事を益と変えてくださる。

聖書に耳を傾けることは聴く祈り。聴く祈りは願う祈りよりも大切。どうしても必要なただ一つのこと。

もうだめだと思う時に

もう一歩も先に進めないと思う時がある。
もうだめだと思う時がある。
もうこれ以上は頑張れないという時がある。
信じることに非常な困難を覚える時がある。
でも、苦しい時、試練は必ず過ぎ去る。

だから恐れないでただ信じ続けよう。
神がすべてのことを働かせて良いことに変えてくださるから。
信仰によって山をも動かすことができるから。
私たちの信じている神は、死者をよみがえらせることもできる方だから。

礼拝メッセージ「ノアの箱舟」

ノアの箱舟 Noah's ark

礼拝メッセージ「ノアの箱舟」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記6章9−22節

あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。創世記6章14-16節

主なる神は、神とともに歩んでいたノアという人物に、巨大な箱舟を建造するように命じられ、上記のように詳細な設計図を示されました。

1キュビトとは、前腕、ひじから中指の先までの長さを表す単位です。1キュビト50センチとすると、ノアの箱舟の寸法は、長さ150メートル、幅25メートル、高さ15メートルでした。3階建てタンカーのようで、十分すぎるスペースがありました。

これだけのスケールの箱舟を建造するためには、少なくとも以下のようなものが必要でした。

1、時間が必要:約100年(創世記5章32節と7章11節参照)
2、費用が必要:おそらく全財産
3、労働力が必要:猫の手も借りたい状態
4、信仰が必要:神のことばに対する信頼が必要

ノアの箱舟は救いの箱舟です。新約時代に生かされている私たちにとって、救いの箱舟とは、主イエス・キリストの教会です。

結婚前のセックス(婚前交渉)について考える

浜田省吾の曲を紹介しますので、きちんと語っておかなければならないことがあります。

それは結婚前のセックス(婚前交渉)についてです。性的関係。それはとても刺激的な関係だと言えます。だから一度でも肉体関係を持つと、相手と依存的な関係になってしまいます。

つきあっている相手と結婚前にセックスし、もしももしもその後、その人と結婚に至らなかった場合、どうなるのか?

私はこの時代に立てられた牧師なので、これまで多くそのような現実に直面してきました。そのような場合、間違いなく言えることは、女性のだれもが、深くて重い傷を負ってしまうということです。

本当に悲惨です。自分がかわいそうで仕方がないという自己憐憫。もうだれも信じられないという人間不信。いっそ死んでしまいたいという自殺願望。将来結婚する相手と神に対しての後ろめたさ。そして自己嫌悪・・・。

でも大丈夫。あなたがもし教会に、神のもとに帰るなら、神はあなたに走り寄り、「お帰り!よく帰ってきてくれたね。どんなに大変だったか、わたしはよく知っているよ。」と言って、ありのままのあなたを抱きしめてくださる。決して毛嫌いなんかなさらない!神は放蕩息子のたとえを通してそのように教えています。

本当の神は、あなたが将来本当に幸せな結婚をし、幸せな家庭を築くことを誰よりも切に願っておられます。そして、あらゆるマイナスをプラスに変えてくださり、万事を益に変えてくださいます。

「性・セックスを一番楽しんで満足(サティスファクション)を得ているのは、フリーセックス(結婚外性交渉)をしている人たちではなく、結婚関係の中だけで性を用いている人たちである!」これは、アメリカのシカゴ大学による、アメリカ人の性についての研究調査の結果です。

世の観点から見れば驚くであろうこの結果は、実は聖書的に見るならば、あたりまえのことと言える。創世記を見ると、創造主が人を男と女に創造されたことが記されてある。聖書では、「知る」という言葉が性的関係を持つという意味で用いられている。そして、性的関係を持つということは、相手と一体になることだとはっきり記されてある。

つまり、もし性的関係を持った後にその人と別れ、別の人と関係を持っていくなら、一体になった自分が引き剥がされ、どんどん自分の一部を失っていくことになる。バラの花のような自分。しかし結婚前に性関係を持っていくなら、花びらがどんどん失われて、将来幸せな結婚をすることが難しくなる。

それ故に、結婚外での性的体験を持つ人たちの自殺率は、そうでない人たちの3倍に跳ね上がっているという恐ろしい現実が生じている。また、うつ病といった心の病になりやすいのもフリーセックスの体験者だという報告がある。

しかしテレビや映画、スポーツ新聞やティーンエージャーが読む雑誌において描かれているセックスは、ほとんど結婚外の関係であるのが事実。学校での性教育においても、個人の権利と自由が尊重され、結婚外でのセックスを奨励しているとしか言いようがない。

そのようにして、現代はまさに、かつてなかったほど、性的に危機的な状況となっている。首都圏では、かなりの若者が性体験をし、妊娠中絶や性病、そしてポルノ中毒が蔓延している。

正しい情報と知識を知り、それを早急に伝えていかなければならない。性に伴うリスク、危険をも伝えるべき。それと同時に、聖書に記された、性の祝福と正しい用い方を学ぶ必要がある。

性は三位一体の神の本質があらわされている故に尊いもの、素晴らしいものである。セックスは、知性、感情、意識、肉体、全人格において夫婦が一体となるための接着剤である。

もし罪を犯してしまった人には、「神が赦すことの出来ないほど大きな罪はない!」ということを伝えて悔い改めに導き、二度と同じ過ちを犯さないために、正しい情報と助けを提供する必要がある。聖書は、あなたの祝福のために、アブステナンス(ABSTINENCE:結婚まで性的関係を持たない、結婚関係以外で性を用いないということ)と純潔(PURITY)を教えている。

それぞれの置かれている所で、アカウンタビリティグループ(責任を問い、互いに支えあうグループ)を作ることは、非常な助けになる。性的被害者・加害者については、プロのカウンセラーや牧師などに相談し、神による癒しと赦しを体験する必要がある。

聖書から性について考える

God Bless You

人身事故で電車が止まった中でー肌で感じるこの国の疎外感と閉塞感

以前、中野教会で持たれた関東宣教区会議の後、御茶ノ水に立ち寄り、東武線に乗って帰途についた。

しばらくして電車が止まった。人身事故というアナウンスが死傷事故と言い換えられた。

またひとりのいのちが失われた。

搬送作業の後、警察による現場検証が行なわれる。

苛立つ人、疲れた顔をしている人、笑顔で会話をしている人たちの中で、
ひとりのいのちが失われたことを覚えながら神に静かに祈る。

乗っている電車がこのようにして止まるのは、関東に来てこれで3度目。
日本の人口の約一割が暮らしている関東、首都圏近郊。

肌で感じるこの国の疎外感と閉塞感。
生きることをあきらめかけていた過去の自分を思い出す。

今あなたが死んでも、世界は変わりはしない。
でもね・・・あなたが生きていく事で未来はきっと変わっていく。
Acid Black Cherry / 20+∞Century Boysより

教会形成の目指すべきゴール

以前、寺田由弘・ジンジャー宣教師を迎えての国外宣教研修会において教えられ、さらに河野勇一師を迎えての伝道懇談会においても教えられたことがあります。

それは、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールです。

まずは一番パーソナルな、個人伝道というレベルで考えてみましょう。ある人に祈りつつ福音を語って伝道する時、伝える側の責任は、いつ終わるのでしょうか。相手がバプテスマを(洗礼)を受けた時点で導いた人の責任が終わると考えやすいのですが、そうではありません。導かれた人が別の人を導くところまでフォローアップ&フォロースルーし、導かれた人を通して新たに救われる魂が起こされる時、はじめて導いた側の責任が終わると考えるのがより聖書的です。

教会形成というレベルでも同様のことが言えます。新しく生み出した教会を、自立するところまで導けばゴールと考えられやすいのですが、そうではないのです。新しく生み出した教会を自立させ、さらにはその教会が新しく教会を生み出すところまで涙と祈りをもって育て上げる。その教会から新しく直接献身者が起こされるまでフォローする。さらには、その教会から宣教師が派遣されるまで養い育てる。その時はじめて、教会開拓、教会形成のゴールにまで導いたということになり、産みの苦しみをした母教会の責任が終わると考えるのがより聖書的です。

それを英語で言うと、Reproduction。一言で言えば、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールは、再生のサイクルを形成するということです。