月: 2010年12月
礼拝メッセージ「神の恵みを忘れるな」
聖書箇所:詩篇103章1-22節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。詩篇103篇2―5節
忙しく走り回ること、歩き続けることをストップし、立ち止まって足跡を振り返ってみましょう。
ゆっくりする時間をとって、主なる神が良くしてくださったことを思い出し、数え上げてみましょう。
記憶によみがえってきた神の恵み一つ一つを、新たに心に刻みましょう。
忘れないように日誌(ログ)やアルバムに記録しましょう。
それは、聖書が教える信仰者の日常ですが、様々な節目の時、期の区切りの時に持つならば、スペシャルな恵み、特別な恵みの時となります。
今日は今年最後の主日礼拝です。もうまもなく、新しい年を迎えようとする今、ぜひ今年一年の足跡を振り返ってみましょう。
私たちの足跡を振り返り、恵みを数えてみると、喜びと感謝と賛美が、溢れてきます。神さま、一年間ありがとうございました!
クリスマスイブ礼拝メッセージ「命狙われた幼子」
讃美歌109きよしこの夜ーのまちゃん牧師のギター
讃美歌103まきびとひつじを(NOEL ノエル)ーのまちゃん牧師のギター
クリスマス礼拝メッセージ「人間になられた神」
クリスマス礼拝メッセージ「人間になられた神」(クリックで聴けます)
聖書箇所:ヨハネ福音書1章1-18節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネ福音書1章14節
「神のみことば」であられるイエス・キリストは、すべてのものの造り主(デザイナー、メーカー)です。
初めに、宇宙が創造される前から、父なる神と共におられ、すべてのものを創造された神。全宇宙の創造者。私の、そしてあなたの造り主なるお方。それがイエス・キリストであると聖書は語っています。
上記のみことばは、「その全宇宙を創造された神御自身が、私たちと同じ肉体を持たれ、人間になられた」という驚くべきクリスマスメッセージです。
永遠の昔から父なる神と共におられ、すべてのものを創造されたお方。私の、そしてあなたの造り主なるお方。いのちの源、光であられるイエス・キリストが、私たちと同じ肉体をもった人間となって、この世界に来て下さったのです。
なぜ神は人間になられたのでしょうか。
それは目に見える全人格的存在と行動を通して、神ご自身の愛を私たち人間に紹介するためでした。
杉戸の夕陽
礼拝メッセージ「楽園追放」
聖書箇所:創世記3章14-24節
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。創世記3章21節
自らの罪を認めず、平気で神に責任転嫁するアダムとエバ。神は彼らをエデンの園から追放されます。しかしその前に、神は彼らのために皮の衣を作り、着せてくださいました。罪をおおい、赦して下さるあわれみ深い神が、ここに紹介されています。
皮の衣を作るためには、動物を殺さなければなりませんでした。いのちが絶たれ、血が流されたのです。人間が罪を犯しても、決して人間を見捨てられない神の恵みがここに紹介されています。
しかし同時に、聖書が語る罪の恐ろしさを考えさせられます。旧約聖書では、人間が罪を犯すたびに動物の血が流されます。新約聖書において、罪のために血が流される歴史に終止符が打たれます。
聖書は、私たちの罪がおおわれ、赦されるために、神のひとり子であられるイエス様が十字架にかかって死ななければならなかったと語ります。罪のないイエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、他の誰のためでもない、あなたのためであったと。
イエス様は3日目によみがえられ、今も生きておられます。イエス様は、楽園への道を命がけで切り開いて下さったのです。もしあなたがイエス様を信じるならば、あなたの罪をすべておおってくださる白い衣(義の衣)を、イエス様が着せてくださいます。
礼拝メッセージ「神からの逃走」
聖書箇所:創世記3章8-13節
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたはどこにいるのか。」創世記3章8-9節
自分の過ちを指摘された時、 反射的に自分を守ろうとして、責任を他になすりつけてしまう。聖書は、そのような本当の私たちを映し出す鏡のようです。
神が食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実。堕天使に誘惑されたとはいえ、ふたりは禁断の木の実を食べました。それはエバとアダムが、それぞれの責任において犯した過ちでした。
まず神は、夫アダムにその責任を問われます。 そのときアダムは、こう神に言い返すのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
「この女が」と言っているので、妻に責任をなすりつけているようです。けれどもアダムは、「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言っています。「神よ、こんな女を私のそばに置かれたあなたが悪い!」とアダムは主張し、言い逃れしているのです。
これが、私たちの姿であり、すべての人間の姿です。エバも似たように、蛇に責任をなすりつけますし、 アダムという名前は、人間を意味する言葉なのですから。神からの逃走、それは自らの過ちを素直に認めることからの逃走です。